極秘調査(1)

 イリスの休暇はアスマの不在に由来する。

 それはつまり、アスマが帰ってくるまでの間、イリスは休んでいても構わないということだ。


 王都に帰ってきた当日であるにも拘らず、一通りの挨拶回りをその日の内に済ませてしまったイリスは、その翌日くらいはゆっくりと休暇らしい一日を過ごそうかと考えていた。


 しかし、その思いとは裏腹に、イリスは王都に帰ってきた日の翌朝、唐突にブラゴに呼び出されることになった。


 ブラゴが呼んでいる、という事実を伝えに来てくれた衛兵に、ブラゴが自分を呼んでいる理由を聞いてみるが、その辺りの説明は一切受けていないらしい。

 ただイリスを呼ぶように言われ、イリスの部屋を訪れたと言われ、イリスは眉を顰めた。


 ブラゴは今回の休暇を言い出した張本人だ。イリスが休暇中である事実を知らないはずもなく、あのブラゴが忘れているとも考えづらい。

 となると、休暇中のイリスを呼び出すだけの理由がブラゴにはあることになる。


 普段の勤務中なら、イリスが気づかない内に失敗している可能性はあるが、昨日帰ってきたばかりのイリスに失敗も何もないだろう。


 研修中の何かが原因で呼び出される可能性もあるが、イリスには思い当たる節がない。まだ報告書を提出していない状態で呼び出されることがあるとしたら、それは相当な失敗のはずなので、あったら確実にイリスも覚えているはずだ。


 まさか、報告書を出していないことを言われるのか、と一瞬イリスは思ったが、研修期間を考えると、その報告書が一日でまとまらないことは当たり前だ。それを怒るとしたら、あまりに理不尽だ。流石のブラゴも、そこまで理不尽ではないだろう。


 それなら、呼び出した理由は一体何だろうか。


 イリスは不思議そうに首を傾げながら、朝食よりも先にブラゴの部屋の前を訪れていた。


 軽くノックし、イリスが部屋の中に声をかけると、部屋の中からブラゴの声が返ってくる。冷ややかにも聞こえる声だが、それはいつものことなので、怒っているかどうかの判断はできない。


「失礼します」と声をかけ、イリスが部屋の中に入ると、ブラゴはテーブルに向かい、何かの書類をまとめている最中だった。束にした書類をテーブルにとんとんと落としながら、端を綺麗に揃えている。


「何かありましたか?」


 イリスが扉の前に立ったまま聞くと、ブラゴは書類をテーブルの片隅に置きながら、部屋の中にあるソファーを手で示してきた。イリスに座るように言っているようだ。


 その言葉に甘えて、イリスがソファーに腰を下ろすと、ブラゴはとんとんとテーブルを指で叩きながら、ゆっくりと語るように話を始める。


「殿下が不在の理由は聞いたか?」

「はい。ウルカヌス王国に向かわれたとか」

「勝手に、が抜けているが、そういうことだ」


 棘のある言い方にイリスが苦笑していると、ブラゴが唐突に立ち上がり、テーブルの上に置かれた書類の一枚を手に、イリスの前まで移動してきた。


 テーブルを挟んで向かい合う形で、イリスの目の前にあるソファーにブラゴが腰を下ろす。それと一緒に手に持っていた書類がイリスの前に置かれた。


「問題はそのウルカヌス王国との接触を理由に、ゲノーモス帝国が一通の文を送ってきた。その文面がこれだ」


 渡された書類に目を落とし、イリスはゆっくりと表情を強張らせていく。


「殿下のことは記載されていないが、こちらがウルカヌス王国と接触した事実は確かであり、そのことに関して説明を求める意思が書かれている。こちらからの返事が今日届くとして、明日には何かしらの動きがあるかもしれない」

「大丈夫なんですか?」

「大丈夫かどうか、で言うなら、現状は大きな問題にはなっていない。唯一、殿下が不在である点だけが問題だが、それも気づかれにくい問題だ。寧ろ、焦っているのは向こうだろう。事実、この接触で何かができるとは思えない」


 仮にエアリエル王国とウルカヌス王国が同盟関係に発展するとして、それをゲノーモス帝国が阻止することはその戦力差からも不可能だ。況してや、魔王という目の前の脅威を考えたら、手を出すことは絶望的に近い。


 エアリエル王国から何かしらの説明を受けても、ゲノーモス帝国にできることは聞くことくらいで、後は諦めて自国に帰るか、二つの大国に喧嘩を吹っかけて、自分から滅亡の道に進むかの二択しかない。


 アスマが不在である点は確かにゲノーモス帝国が付け入る隙になり得るが、いるという事実よりも、いないという事実の方が伝わりづらいものだ。


 一瞬、イリスは文面から緊張したが、それも考え過ぎだったかと胸を撫で下ろした。


「そして一つ。この文から判明した事実がある」

「これから?」


 咄嗟にイリスは目の前の文面を再び読んでみるが、ブラゴの言っている事実が何であるのか、イリスには分からない。


「文面ではなく、その文が存在している点が普通ではない」

「え?どういうことですか?」

「ウルカヌス王国と接触した事実は王城内にしか伝わっていない。世間的には知られていない事実だ」


 そう言われ、イリスは王都に到着し、その話を聞くまで一切聞いたことがなかったことを思い出した。


「それがゲノーモス帝国は何故か、その知り得ない情報を掴んでいた。その理由は――」

「内通者がいるということですか?」


 イリスの疑問にブラゴが頷き、イリスは息を呑んだ。


 他国の内通者。それが王城の中にいるなど、当たり前のことだが、イリスは微塵も考えたことがなかった。


「その人物の特定を頼みたい」

「え?私が?私が探すんですか?」

「ゲノーモス帝国が接触してくるなら、俺は騎士団長として宰相閣下の護衛につく必要が出てくる。だが、内通者の捜索は一刻を争う。そのためには自由に動ける人物が進めるしかない」


 確かにアスマが不在である現状、イリスは騎士としての仕事がなく、手が空いている状態だ。内通者の調査を進めるのに適任と言えるだろう。


 しかし、その適任者はイリスだけではないはずだ。他にも手の空いている騎士ならいるだろう。


 イリスはそう思ったのだが、ブラゴがイリスを選んだのには、もう一つ理由があった。


「それに今回の調査は、それを進める人物が内通者ではない前提が必要だ。そうなると、昨日帰ってきたばかりのお前くらいしか、確実に白である人物はいなくなる」


 ウルカヌス王国と接触した事実を知っているのは、その時に王城にいた全員だ。それは騎士も衛兵も使用人も関係なく、全て等しく容疑者ということになる。


 唯一、そこから外れた人物がいるとしたら、それは帰ってきたばかりのイリスしかない。


 元から断るつもりではなかったのだが、イリスしか任せられる人物がいない仕事と言われたら、余計に断ることはできない。


「分かりました。私がその内通者を発見します」

「頼んだ」

「あの…ところで、報告書はどうしますか?」


 研修から帰ってきた報告書をまだ出せていないイリスだが、内通者の捜索と一緒に進めるには時間がない。両方を進めるとなると、どちらも結果が遅くなることは目に見えている。


「報告書は後で構わない。内通者の所在の方が重要だ。そちらを優先して進めてくれ」

「分かりました」


 こうして、イリスによる極秘調査が開始された。



   ☆   ★   ☆   ★



 内通者の捜索。ブラゴに与えられたその役目を果たすために、王城内を移動し始めたイリスだが、そこから数分も待たずして、その問題に気づき、足を止めた。


 王城内に現在、どれだけの人間がいるのかイリスは知らないが、その全ての人物を覚えていないことだけは確かだ。

 騎士や国家魔術師、各種大臣なら会話をしたことがなくても、顔や名前くらいは知っていると思うが、衛兵や使用人を含めた瞬間、途端に知らない人ばかりになる。


 それだけの人物全員が容疑者となると、その中から内通者を見つけ出すことは非常に困難だ。いや、不可能と言っても過言ではない。


 その特定を頼まれたと気づき、イリスはここからの見通しのなさに頭を抱えることになった。


 内通者の特定。改めて理解したその難しさに、イリスはどのように調べればいいのかと考え込んだまま、次に動き出すことができなくなっていた。


 もちろん、一人で考え込んでいても、内通者が見つからないことくらいは分かっている。

 ただ考えなしに動き出しても、内通者を捜索している事実が相手に知れ渡ってしまうと、すぐに尻尾を隠されてしまうことも容易に想像がつく。


 慎重に動かなければならない。だが、急がなければならない。何より、確実に見つけ出さなければいけない。


 重なった条件が不可能に思え、頭痛すら覚え始めたが、このまま頭の痛みに苛まれていても仕方がない。まずは怪しい人物がいないかどうかの確認から始めよう。


 そう思い、王城内で軽く聞き込みを始めようとしたイリスの視界に、その光景を飛び込んできた。


 場所は普段なら、アスマがシドラスと一緒に剣の稽古に励んでいる中庭だ。その中心に巨大な鍋が置かれ、それを大きくかき混ぜている人物がいる。


 料理――と一瞬思ったが、王城には当たり前のことだが、大きな厨房があるので中庭で料理を作る理由はない。


 何より、その鍋の中の液体は遠くからでも分かるほどに禍々しい色合いで、そこから立ち昇る湯気は煙と見間違うほどの灰色だった。


 それに僅かに漂ってくる臭いは刺激臭と言う他になく、これは怪しいというよりも何かしらの事件ではないかと思い、イリスはその中庭に立ち入った。内通者の特定も大事だが、王城内で危険な行為が行われるのなら、それを止める必要がイリスにはある。


 そう思ったのだが、中庭に立ち入り、その鍋に近づいてしばらく、イリスはその鍋を掻き回していた人物が知り合いであることに気づいた。


「あれ?エル様?」

「ん?ああ、イリスちゃんじゃない。帰ってきたの?」


 それは現代最高の魔術師との呼び声も高い、エルことエルシャダイだった。


 そのエルが怪しげな液体を煮詰めた鍋を掻き回しながら、笑顔でイリスに手を振ってくる。思い返せば、昨日はエルと逢うことができず、挨拶がまだの状態だった。


「はい。昨日、帰ってきたんですが…それは何ですか?凄まじい臭いなんですが」

「ああ、ごめんね。一応、臭いがあるのは分かってたから、できるだけ被害の少ない中庭で始めたんだけど、それでも届いちゃった?」

「まあ、確かにここよりはマシでしたよ」


 刺激臭は鍋に近づけば近づくほどに、その激しさを増していた。イリスは既に口や鼻を押さえていないと、卒倒してしまいそうなほどの臭いに晒されている。


「何をしてるんですか?」

「これはね。薬を作ってるんだよ」

「薬?魔術師をやめて、医者にでもなったんですか?」


 自分のいない数ヶ月の間に何が起きたのだろうかと、真面目にエルが医師になった可能性を考えるイリスの前で、エルは満面の笑みを浮かべたまま、当たり前のようにかぶりを振った。

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