魔王と虚繭
アスマが部屋の中に入ってきたことに、そこにいた黒い外套の人物はすぐに気づいたようだった。ゆっくりと立ち上がり、こちらに振り返って、笑顔を向けてくる。アスマよりも年上ではあるようだが、それでもまだ若い青年はアスマがこの国に来てから初めて逢う人物だ。
「初めまして、君がアスマ殿下?」
「うん。そうだけど、誰?」
「俺はハムレット。ソフィアがお世話になったね」
「ハムレット!?」
その名前に反応し、アスマは咄嗟にハムレットから距離を取っていた。思い返せば、ハムレットの着ている特徴的な外套は何度も見た覚えがある。それを仮に着ていたとしても、アスマの魔力は近づいただけで、魔力に反応する塗料が発光し始めるほどだ。虚繭のハムレットの近くにいて、ハムレットが無事とは思えない。
「ああ、そんなに離れなくても、少しだけだから大丈夫だよ。君と少し話がしたかったんだ」
ハムレットが自分の近くの椅子を手で示した。そこに座るように言っているのだと分かり、アスマは促されるまま、椅子に腰を下ろす。そこから、少し離れた位置に椅子を置き、ハムレットも並んで座っている。
「俺と何を話したかったの?」
「さっきも言ったけど、ソフィアがお世話になったって聞いてね。そのお礼を言いたかったんだ」
「そんなこと?」
礼を言うためだけに、身体を悪くすることも厭わずにアスマと逢おうと思ったのかと思い、思わずアスマはそう口に出していた。その一言にハムレットは小さく笑い、かぶりを振っている。
「そんなことじゃないよ。君が…君達がいなかったら、ソフィアは今も悩んでいたはずだよ。自分の立場を勝手に決めて、一人で追い込まれていたと思うんだ。そんなソフィアを救ってくれた。それはこの国の人ではない、君達だからこそできたことだと俺は思うんだよ」
だから、ありがとうと続けられた言葉を聞きながら、今度はアスマがかぶりを振っていた。
「違うよ。ソフィアは自分で変わるって決めたんだよ。俺達が何かを言ったからじゃなくて、自分で変わりたいと思ったんだよ。だから、ソフィアは変われたんだよ。ちゃんと向き合うことができたんだよ」
「君は意外と優しいね」
「意外?」
「魔王はもっと怖いものだと思っていたから」
確かに魔王であるアスマは虚繭であるハムレットからすると、恐怖の対象かもしれないとアスマは思った。
「俺にも何ができるのか分からないけどさ。ソフィアと一緒に協力して、この国を良くしていきたいんだ。今回みたいなことがもう起きないようにね」
そう呟いたハムレットは少し寂しそうな顔をしていた。アスマも似た経験ならしたことがある。そう思って、ガゼルの顔を思い出し、アスマも少し寂しい気持ちになった。
「ごめんね。わざわざ呼び出して」
「ううん。俺もハムレットと話せて良かったよ」
「俺はそろそろ行くね。次の用事もあるし、これ以上いたら、ガイウスに怒られてしまうから」
「用事?」
「うん。もう少しで仕上がるんだよ」
椅子から立ち上がったハムレットがアスマに向いた。握手を求めるようにゆっくりと手を伸ばしてきたので、アスマも手を伸ばした瞬間に、お互いに握手できないことに気づいた。
「そうだった」
「忘れてたね」
アスマとハムレットは手を出したまま苦笑し、お互いに伸ばした手を引っ込める。二人はしばらく笑い合い、それから、アスマは談話室から去るハムレットを見送った。
☆ ★ ☆ ★
ベルが自室に戻り、一人でベッドに寝転がっていると、急に扉が開いてセリスが入ってきた。最近の緊張感が抜けていないのか、そのことにベルは驚いて飛び起きてしまう。
「すみません。驚かせてしまいましたか?」
「い、いえ、勝手に驚いただけなので」
そう答えつつ、ベルは速くなった鼓動を落ちつかせようと、呼吸を深く繰り返していた。その間にセリスは部屋の中に入ってきて、自らの荷物に手を伸ばしている。帰る支度かと思いながら、ベルはさっきアスマを呼びにノエルが来たことを思い出していた。
「そういえば、セリスさんは何をしていたのですか?さっき騎士団長が来ましたけど」
「ああ、そうなのですね。呼ばれた後はアレックスさんに報告を頼んでいたのですよ」
「報告?明日、帰るという報告ですか?」
「それは昨日の時点で済ませていました。そうではなく、ウルカヌス王国と正式な同盟締結の話が出たのです」
そのセリスの話にベルは驚いていた。事前にシドラスがソフィアを助けることで、一定の見返りがあるかもしれないとは言っていたが、そこまで話が飛躍するのかとベルは思った。
「殿下がこの国にいるという話は出せませんから、正式な書類の手続きはまた後日行うことになりますが、決定事項と捉えてよいことだと思います」
「それはやっぱり、ソフィアを助けたことが大きいのですか?」
「助けたという部分もそうでしょうが、それ以上に王女殿下との関係性やこの国の内情が大きいでしょうね。これを機にエアリエル王国との関係性を一定に保ち、自国の立場を安定させたいのでしょう」
今回は国民を巻き込んだ大きな被害に繋がらなかったが、国内に反乱分子がいることは確定的であり、それによって国を支えていた十二貴族の一部が崩れることになった。ウルカヌス王国内部の状況は変化しており、そこで他国との関係性が悪化してしまうと、この国の長い歴史が途絶えかねない。その部分を懸念して、ここで先手を打っておこうということなのか。セリスの説明にベルは納得する一方で、国同士の冷ややかな関係に、少し寂しさも覚えた。
「そういえば、殿下やシドラスはどこに?」
「シドラスは隣で待機中です。アスマは騎士団長に呼ばれて、誰かに逢いに行きました」
「誰かに?」
「まあ、流石にここでアスマに何かをしようとは思わないので、大丈夫だとは思いますよ」
「それはそうでしょうね。同盟を結びたいと思っている相手の王子を殺すことはないでしょう」
ウルカヌス王国の内情も考えたら、その可能性はないと断定したらしく、セリスはそれ以上に焦る様子はなかった。シドラスが焦っていない時点で、セリスが焦るとは思わなかったが、あっさりとした様子に、本当に話はうまく行っているのかとベルは察することができた。
「ベルさんも荷物はまとめておいてください。明日の朝には出発しますから」
「ああ、分かりました」
そう答えながら、セリスはアスマの土産物をまだ見ていないのかとベルは思い出し、つい動きを止めていた。先に報告しておくべきかと考え、口を開こうとした瞬間、隣の部屋から慌ただしい音が聞こえてくる。微かに聞こえてくる声はアスマがシドラスと何かを話している声だ。
「どうやら、殿下が戻ってこられたようですね」
「みたいですね」
興奮している様子やノエルがアスマを呼ぶ時に言っていた言葉から、やはり逢った相手はアスマが出ていった後にシドラスが言っていた人物なのだろうかと思いながら、ベルは土産物の話をセリスにすることを忘れていた。
☆ ★ ☆ ★
翌日の準備を整え、ソフィアの部屋までアスマとベルを見送った後のことだった。最後に話しておくという三人の会話の邪魔をしないように、シドラスが部屋を出て、リグロと逢った近くの談話室を覗いてみたところ、その部屋の中にガイウスがいた。
そこでガイウスは何か手紙のような物を読んでいる最中だった。この国に来てから何度か目撃した光景であり、その際のガイウスの行動が怪しかったことで、シドラスはガイウスを疑ったのだと思い出す。
結局、あの手紙は何だったのだろうかと思いながら、シドラスが談話室の中に入ると、ガイウスがこちらを振り返った。今度は手紙を隠す様子がなく、シドラスに軽く会釈をしてくる。その様子に会釈を返し、シドラスはガイウスに近づいていった。
ガイウスが読んでいたものは間違いなく、手紙のようだった。
「それは?」
そう質問したシドラスにガイウスは苦笑いを浮かべた。
「家族からの手紙です」
「家族からの?以前に読んでいた物もそれですか?」
「内容は違いますが、どちらもそうです。私の姉に関することが書いてあるので、人には見せられなかったのですよ」
そのガイウスの説明にシドラスは納得した。ラキアが反乱分子であることは、他の反乱分子の特定のために隠しておかなければいけない情報だったはずだ。それはシドラスが相手でも同じことであり、そのためにあれだけ違和感がある態度を取ってでも隠していたのかと納得する。
「捕まったと聞いたご家族からの心配の手紙ですか」
そのようにシドラスは呟いたのだが、ガイウスはかぶりを振っていた。
「いえ、実は姉のことはちゃんと話せなかったのですよ。内容が内容なので、家族であっても情報を漏らすわけにはいかないと。だから、急に連絡が取れなくなったことを不思議に思って、姉は大丈夫なのかと聞いてくる内容でした。そこに私の心配も添えて」
「ああ、そういうことですか」
納得して頷いたシドラスを見ながら、ガイウスは少し迷ったような表情を見せていた。その表情の意味が分からず、シドラスがどうしたのかと思っていると、不意にガイウスが口を開く。
「私の家は十二貴族の中でも、最も地位の低い家です。それは昔から今まで変わらないことなのですが、私の親はそれを一切気にしない人でした。というよりも、代々の当主が気にしなかったからこそ、その地位にいたと思うのです」
不意に始まったガイウスの家の話に戸惑いながらも、シドラスは黙って聞いていた。ガイウスは手紙を仕舞いながら、更に話を続けている。
「私も特に気にしたことはありませんでした。それは姉も同じだと思っていたのですが、姉のやっていることを知った時、姉はそうではなかったのだと思いました」
体制に対する不満。それが反乱分子の行動理念のはずだ。ラキアもその一員だったということは、今の地位に不満があるということになる。
「私は姉の行動を止めた一方で、姉にそのような行動を取らせた今の地位を少しずつ憎むようになりました。地位の低さが気に入らなかったのではなく、低い地位にいたことで姉を犯罪者にした事実が憎かったのです。ですが、それは少しずつ歪み、自分の地位の低さにも向くようになってしまった」
不意にガイウスがシドラスを正面から見てきた。その視線に驚き、シドラスはつい身体を強張らせる。
「そこに貴方が現れました。私とは違い、平民の出身ながら、同じ王子の騎士という立場にいる。その存在を聞いた時、私は貴方を一方的に嫌悪してしまった。その境遇だけで」
シドラスはガイウスが自分に向けていた視線の理由を知り、そこでようやく納得できた。ただ反乱分子との関与を疑っているだけにしては、あまりにも敵意が凄まじ過ぎると思っていたのだが、それだけではなかったようだ。
「ただ全ては私の勘違いだったと、姉がソフィア殿下に語った言葉で知りました。その瞬間、私はこれまでに懐いていた気持ちが全て不要で、不当なものだと気づいてしまったのです」
そう言いながら、ガイウスはシドラスに向かって、ゆっくりと頭を下げてきた。
「本当に申し訳ありませんでした。貴方を冷たく扱ってしまったことは私の大きな過ちです」
その謝罪の言葉にシドラスは恐縮することになった。ガイウスが謝罪することはないはずだと思い、シドラスは慌てて頭を上げさせようとする。
「いえ、こちらも貴方を疑っていたことに変わりはありません。どちらも信じるものが違っただけで、その行いに間違いはなかったはずです。それを謝罪される必要はありません」
シドラスの言葉にガイウスは迷ったような表情のまま、ゆっくりと頭を上げていた。ガイウスの敵意には確かに私情が含まれていたのかもしれないが、その行いは正しかったとシドラスも思っていることだ。それを謝罪されてはシドラスが悪者になってしまう。それを理解してくれたのか、ガイウスが再び頭を下げることはなかった。
「それよりも、他にはいない王子の騎士ということで、私は日頃の苦労を分かち合える仲間を見つけた気分ですよ」
シドラスがそのように言うと、ガイウスも同じことを思ってくれたのか、苦笑しながら頷いていた。
「確かに。お互いに大変そうですね」
「全くです」
魔王の騎士と虚繭の騎士。二人の主は正反対な存在だが、そこにある苦労は似たものであり、お互いの言葉にその苦労が乗っていることは無駄に言葉を交わさずとも伝わっていた。
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