1年前(1)
とても小さな術式がパロールの手の中に生まれた。収穫した小麦ほどの大きさで、宙を漂うように揺れてから、弾けるように手の中から消える。それはほんの少しの間のことだったが、パロールはそれを見て、気持ちが悪いくらいにニンマリと笑った。
国家魔術師となったパロールは、国から魔術研究を支援してもらえるようになったことで、それまで以上に魔術研究に没頭するようになっていた。特に研究が終盤を迎えると、何日にも亘って部屋に籠もり、食事とトイレの時間しか部屋から出なくなるくらいだ。
この頃のパロールも研究の真っ最中で、部屋に籠もってから一週間以上が過ぎていた。成果がもう少しのところに見える頃で、トイレですら部屋から出ることを迷う時があるほどに、パロールの意識は研究に向いていた。
そして、その成果に繋がる一歩となるのが、パロールの手の中に生まれた小さな術式である。
術式は基本的に全てサイズが決まっている。効果の強い術式ほどそのサイズは大きくなり、必要な効果によってはそれ相応の場所が必要になる。
例えば、水を生み出す術式があるとする。パロールの故郷の村のように、井戸くらいの大きさであれば、抱えられるくらいの青い石に術式を組み込むことで、必要な水を生み出すことができる。
しかし、仮に湖を埋めるほどの水が必要になると、そうはいかなくなる。必要な術式の大きさは人の大きさと同じか、それ以上のものになるので、それを組み込むための石も、人の大きさを超えるものでなければいけなくなる。
そうやってサイズが大きくなっても、問題がないところばかりであればいいのだが、実際は場所を取れないために必要な効果が得られないというケースが多々ある。
それを解決するために、パロールは術式を小型化しようとしていた。
効果はそのままで、術式の大きさだけ小さくする。聞くだけだと簡単に思えるが、誰も成功していないということはそれだけ難しいということだ。
実際、パロールも何度も行き詰まり、成功する兆しすら見えない状況にあった。
その中で生まれた小さな術式が、パロールにとって、どれだけ嬉しかったことか語るまでもない。効果を発揮する前に消えてしまったが、術式を小さくすること自体は可能であるという十分な証明が、パロールの心を回復させた。
成果に繋がる可能性が見えたところで、軽く休憩を挟もうと思ったパロールが、ぐいっと背伸びをした。椅子に座ったまま背中を丸め、小さな術式を生み出すために細かく集中していたためか、固まった背筋が悲鳴を上げている。
思い返してみると、食事とトイレ以外に部屋を出なくなって一週間以上経つので、パロールは一週間以上、真面に動いていないことになる。少しくらい身体を動かしておかないと、椅子に座るのも億劫に思ってしまうようになるかもしれない。
成果も見えてきたことだし、少し外を歩こうかと思ったことで、数日振りに食事とトイレ以外の理由でパロールが部屋の外に踏み出すことになった。
パロールは現在、エアリエル王国にある王城の魔術師棟に住んでいた。エアリエル王国の国家魔術師は基本的に王城にある、この魔術師棟に住んでいる。過去に例外があったのかもしれないが、パロールが来てから、ここ以外に住む国家魔術師の話は聞いたことがない。
パロールの部屋はその魔術師棟の三階にあり、部屋の外は廊下に繋がっていた。廊下には等間隔で窓が並んでおり、魔術師棟の中に光を取り込んでいる。
ここ数日の研究の際にはカーテンを閉め切り、部屋の中に光が入らないようにしていたので、そこで入ってきた強烈な光によって、パロールは少し目が眩むことになった。
想像以上の眩しさに驚きながら、ようやく目の前が見えてきたところで、廊下をゆっくりと歩き出す。一週間以上も部屋に籠もっていたが、全く歩いていないわけではないので、そこで特別疲れる感じはない。
ただ、普通に歩いているだけというのもつまらないので、ついつい頭の中では研究のことを考えてしまう。次はどうやって小さな術式を維持するかなど、考えなければいけないことは山積みだ。そのことを思えば思うほどに、思考は止まる気配がなかった。
だから、パロールは前方から人が歩いてきていることに最初は気づかなかった。もう少しで階段に差しかかるというところだ。考え込むパロールの姿に、向こうの方が先に気づいたようで、心配しているような声色で声をかけてくる。
「パロール。そんなに考え込んだら危ないよ?」
自分の名前を呼ばれたことで、ようやくパロールが顔を上げ、歩いてきていた人物の顔を見る。
「師匠。ごめんなさい、つい」
パロールは恥ずかしそうに謝罪しながら立ち止まり、こちらに歩いてくるラングに軽く頭を下げた。パロールのその姿に、ラングは温かな笑顔を浮かべている。
「いやいや、パロールが元気そうで良かったよ。最近はちゃんと顔を見ていな……」
そう言いながら、パロールに近づいてきたところで、ラングは明らかに笑顔を引き攣らせ、言葉を止めた。その表情の変化にパロールはハッとして、自分の身体の匂いを嗅ぐ。
「もしかして、臭いですか?」
パロールが思い出そうとしても、以前に水浴びした時がいつなのか分からないくらいに、パロールには身体を洗った記憶がなかった。ラングは表情を引き攣らせたまま、小さく左右に頭を振っている。
「嘘だ!?絶対臭いですよね!?師匠は嘘が下手なんですから、変に誤魔化さないでください。逆に傷つきます」
「いや、そんなこともないよ。好きな人は好きな臭いだと思うよ」
「そんな味みたいな言い方しないでください。あと、それは苦手な味の時に言うことなので、結局誤魔化せてないです」
パロールの鼻は既に馬鹿になっているのか自分の身体が臭いとは思わないが、ラングの反応を見るからに相当な臭いを発しているのだろう。
「また部屋に籠もっているみたいだね」
「はい。研究がいいところなので」
「研究熱心なのはいいけど、もう少し加減をね」
「そんなに臭いですか?」
「う~ん……うん」
ついに白状したラングに、パロールは恥ずかしさよりもおかしさの方が勝ってしまった。良い人であるからこそ嘘をつこうとするが、良い人であるが故に嘘をつけない。そういうラングだからこそ、パロールは信頼しているところがある。
「たまには外に出て、気分転換したりしたら?」
「しようとしても、どうしても研究のことを考えちゃうんですよね」
「それは分かるけどね。私も若い時は魔術に没頭して、危ない目に遭いかけたこともあるし」
そう言ったラングが何を思い出したのか、少しハッとした顔をしてから、パロールの顔を見てきた。
「そういえば、故郷には帰っている?」
「あ~、あの村ですか?」
「そう」
今度はパロールの方が顔を引き攣らせる番だった。どのように答えるべきか悩んだ結果、ラングから目を逸らして、ゆっくりと首を縦に振ることにする。
「パロールも嘘が下手だね。最後に帰ったのはいつ?」
「師匠と一緒に帰った、あの時です」
「二年くらい前だね。ちょっと心配してそうだけど、手紙くらいは送ってる?」
「それは国家魔術師になった時に報告として」
「一年くらい前だね。流石に心配しているね、それは。ちょっと遠いから、簡単に帰れとは言えないけど、手紙くらいは送った方がいいと思うよ。手紙があれば、親御さんも安心すると思うからさ」
ラングにそう諭されて、両親のことをあまり考えていなかった自分に、少しばかりの恥ずかしさを覚えた。確かに、快く送り出してくれた両親に対して、心配させるようなことをしない方がいいと思う。当たり前のことだが、その当たり前のことに気づけないくらいに、パロールは研究にのめり込み過ぎていた。
「それじゃ私は行くよ。ちゃんと身体を洗うように。あと髪も切った方がいいと思うよ。流石に放置し過ぎだよ」
ラングはパロールの髪をわしゃわしゃと触ってから、パロールの来た方に向かって歩いていってしまった。パロールは自分の髪に触れ、無造作に伸び切った髪が好き勝手に暴れていることに気づく。確かに放置し過ぎているようだ。
身体を洗うこと、故郷に手紙を書くこと、そこに髪の毛を切ることを加え、パロールはほんの少しの気分転換に出かけることにした。
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