最終日(18)
タリアは悔しそうに歯を食い縛りながら、瞳から大粒の涙を零していた。ゆっくりと感情を押し殺すように目を瞑ったかと思うと、今度は自分に話しかけてきたアスラや自分が狙っていたアスマを睨みつけている。
「私は…魔王を殺さないといけないのよ……お兄ちゃんを助けるためには、それしかないの……だから、放して…お願い…放して!!」
叫ぶタリアの声は酷く震えていた。押し殺せない感情の数々がタリアの中で複雑に絡み合っていることがその声や表情から分かる。タリアはきっと自分が何を思っているのかも、だんだんと分からなくなっているはずだ。ただ兄を助けるという使命感に駆られ、アスマを殺害するという結果だけに目を向けているに違いない。
それでは、きっと――――そうベルが思った時、ベルの近くにいたアスマが立ち上がった。ゆっくりとタリアに近づいていきながら、タリアを拘束していたウィリアムやアスラを驚かせる言葉を簡単に口に出す。
「いいよ。それでタリアちゃんが笑ってくれるなら、俺は殺されてもいいよ」
「兄様…!?」
「アスマ殿下!?冗談でもそのような…!?」
「冗談じゃないよ。俺は本気だよ」
アスマが拘束されたままのタリアの前に立った。動揺した様子のアスラやウィリアムと違って、ベルはその光景をとても当たり前のものとして見ていた。
だって、ベルは似た光景を知っていたのだから。既にアスマが同じようなことを言う場面を見たことがあったから。不意に頭を過ったのは、二ヶ月前の記憶だった。
「ウィリアム。放してあげて」
アスマはウィリアムにそう頼んでいたが、ウィリアムがタリアを話すはずがなかった。タリアはアスマを狙う犯罪者であり、拘束するのは騎士として当たり前の仕事だ。そこに命令があっても、守るべき相手に危険が迫ると分かっていて、首を縦に振ることができるはずもない。
「無茶を仰らないでください」
「だよね」
そのことはアスマも分かっていた。そう知らせる台詞にウィリアムが少しばかりの驚きを見せた瞬間、ウィリアムの身体はタリアから引き離されていた。大きく身体が宙を舞い、手に持っていたはずのナイフを落としている。きっとウィリアムはいつ落としたのかも分からないのだろうと思いながら、ベルはその様子を眺めていた。
それは珍しく、アスマが本気を見せた瞬間だった。普段の稽古では絶対に見せないアスマの魔王としての全力だ。その膂力を前にしたら、いくらウィリアムが騎士だとしても、赤子ほどの扱いになっていた。何せ、向こうは世界を滅ぼす力を有しているのだ。その一端だとしても、魔王としての力を本気で振るわれたら、一溜まりもないことは自明の理だった。
ウィリアムは身体を地面に打ちつけたところで我に返ったようだった。慌てて立ち上がり、自分を突き飛ばしたばかりのアスマに向かって走り出そうとしている。「殿下!!」とアスマかアスラか分からない呼びかけもしていた。
その動きが停止したのは、転がっていたナイフを拾ったタリアが、そのナイフをアスマの首元に向けていたからだ。一歩でも動くと刺すと言わんばかりに、タリアはウィリアムを睨みつけていた。その瞳でウィリアムの動きが止まったことを確認してから、タリアはアスマを同じように睨みつける。
ベルの隣でギルバートがタリアに声をかけようとしたのが分かった。一歩踏み出し、タリアを止めるためなのか、タリアを問い質すためなのか分からないが、何かを言おうとした。その動きを察知したベルが咄嗟に手を伸ばして、ギルバートを制する。
「ベルさん…!?」
「大丈夫。大丈夫ですから」
ベルの一言と真剣な眼差しが効いたのか、ギルバートは結局声をかけることなく、ベルの隣でベルと同じように立ち止まっていた。その間にアスマがタリアに一歩近づき、自分の首元にナイフを押し当てるようにしている。
アスマの近くでアスラがその光景から目を逸らしていた。キャロルが咄嗟に近づき、アスラを守るように両腕で包み込んでいる。
「いいよ、タリアちゃん」
タリアはとても荒い呼吸を繰り返しながら、目の前のアスマを睨みつけていた。震える両手がナイフを動かし、僅かに傷ついたアスマの喉から、ほんの少しの血液が流れ出ている。
きっと、ほんの少し押すだけで、タリアはアスマを殺すことができる。それは誰の目にも分かった。タリアにも分かっているはずだ。タリアはただナイフを押すだけでいい。
そのはずなのに、タリアは一向に動く気配がなかった。どんどん荒々しくなる呼吸を繰り返しながら、タリアは自分を見つめるアスマの目を睨みつけたまま、ただ固まっていた。
「…ぅう……ううぅ…あぅ…あ…ああぁっ…!!」
喉の奥から押し出したような叫び声を上げながら、タリアは大きく腕を動かした。ウィリアムの表情が強張り、アスラが怯えたように身体を震わせ、ギルバートが身体を硬直させていた。スージーは目を塞ぎ、キャロルが目を瞑る中で、ベルはその光景から目を逸らさない。
やがて、ナイフの落ちる音が響いた。遠くから聞こえる祭りの声以外に音のない、比較的静かな空間の中で、その音だけが浮き出たように聞こえる。その音を追いかけるようにタリアの膝が地面に突く音がしたかと思うと、それらの音を掻き消すようにすすり泣く声が響き始めた。
ベルの血液に染まったタリアのナイフは、アスマの血液で濡れることがなく、地面の上に転がっていた。アスマは喉から少しばかりの血を流しているが、大きな傷が生まれることなく、タリアの前に立っている。
「何で……何で、殺せないの…?」
困惑したようで、とても悲しそうで、だけど、どこか安心したようなタリアの声だった。アスマが無事だったことに、ウィリアムは安堵し、ギルバートは涙を流している。そのことにベルは少し笑いながら、タリアに近づいていた。
タリアがアスマを殺せないことは分かっていた。ベルを刺した瞬間のほんの一瞬のことだったが、タリアは目を瞑っていたのだ。目を開いてベルを刺したと気づいて、酷く動揺した顔をしていたのだ。それだけ見ていたら、タリアが本当はどうしたかったかなど考えるまでもなく分かる。
「無理だよな…人を殺すなんて…」
ベルの声に涙で目を真っ赤にしたタリアが顔を上げる。その顔にこそ、本当のタリアが詰まっているにベルには見えた。
「分かるよ。私もそうだった。殺したら願いが叶うって思っても、本当にそんな方法で叶えた願いで満足するのかって言われたら分からなくなるんだ。ほんの少し先の自分が後悔している姿が見えてしまって、どうしてもそれでいいって思えないんだ」
「違う…私は……だって…そうしないと……お兄ちゃんが……」
「本当にそうなのか?」
「え……?」
「本当にお前の兄を助けるためには、アスマを殺すしかないのか?」
「それは……」
それはベルも一度考えたことだった。一つの解決策を見せられ、それが唯一の解決策だといわれると、本当にそれ以外の解決策がないように思えてくる。だが、本当にないとは限らない。何故なら、他の方法を何一つとして試していないからだ。他の方法の全てを知って、全てを試したわけではないのに、その方法しかないと決めつけることはできない。
「私は魔術のことなんて何も知らない。どれくらいのことができるのかも分からない。けど、できないと思っていたことをやってのけた奴は知っている。そこにいる魔王だ。そんな力を見ていると、この世界にはまだ可能性があるって思うんだ。私の知らない…私達の知らない可能性があるって、そんな気がするんだ」
ベルは微笑んでいた。その言葉はタリアに伝えるためであり、自分自身に言い聞かせるためのものだ。何度も思って、何度も考えている、ベルの不安を解かす言葉だ。
「だから、まだ決めつけるのは早いんじゃないか?他に手段があるなら、その方がいいって思わないか?」
タリアは既に険しさや力強さの消え去った表情で、ベルを見上げたまま泣きじゃくっていた。ベルの問いかけに対して答えるように、何度も首を縦に振りながら、小さな声でアスマに対する謝罪の言葉を口にしている。
「ごめんなさい……ごめん…なさい……本当に…ごめんなさい……」
その姿にすぐ近くまで来たウィリアムも、流石に拘束する気にはなれなかったようだ。タリアの手から零れ落ちたナイフを拾うだけ拾って、優しい眼差しでただタリアを見守っていた。ギルバートはタリアと同じくらいに泣き、アスラはウィリアムと同じくらいに優しい眼差しでタリアを見守っていた。アスマが未だ泣いたままのタリアの前で膝を突き、タリアの手を掴んで立ち上がろうとしている。その姿を見ながら、ベルは無事に解決して良かったと思っていた。
その思いに水を差すように、アスマの胸元から何かが落ちた。どうやら、タリアの最初の攻撃がアスマの服を切りつけたのが原因のようだ。アスマの胸元から転がった何かは、アスマの足下に落ちて、音を立てて壊れる。
「あ」
アスマが声を出した時、ベルはそれが小瓶であることに気づいた。
☆ ★ ☆ ★
自らが捕らえた男の発言から、タリアが別の世界から来た人間であると気づいたライトは、アスマのところに急いで向かっていたのだが、その途中で同じように急いでいたシドラスとエルの二人と出会していた。急いでアスマのところに向かいながら話を聞くと、どうやら二人は別の世界から来た女の似顔絵から、その女がタリアであると気づいたようだ。二人共、ドレスを着て雰囲気の違うタリアに最初は気づけなかったらしいが、しばらく考えて服装を変えてみたら、すぐに分かったらしい。
その話をシドラス一人から聞いたら、ライトは盛大に笑っていたところだが、そのような状況ではない上に、エルも同じ話をしているので、笑いたくても笑えない。
そう思っていたら、ようやく辿りついた王城前で、同じくらいに笑いたくても笑えない状況と出会すことになった。
ライトがシドラスやエルと一緒に駆けつけた瞬間、アスマの胸元から小瓶が転がり落ちた。それが地面に落ちて割れた瞬間、アスマが「あ」と声を漏らすのに合わせて、ライトも同じように声を出してしまう。
これは大変なことになったとライトが思った瞬間、アスマの前で泣きじゃくっていたタリアが突然アスマに抱きついていた。
「え!?何!?」
「ごめんなさい…首にそんな傷を作ってしまって…お詫びに殿下に一生尽くします」
「タリアちゃん?何言ってるの?」
「もちろん、正妻とは言いません。妾で構いません」
「いや、本当に何言ってるの!?」
ライトがどうしようかと視線を迷わせていると、そのすぐ近くにいたスージーがじっとアスマを見つめたまま固まっていることに気づく。そのことに心底嫌な予感がした瞬間、スージーがアスマに駆け寄っていった。
「殿下?喉に傷ができていますよ。私が治るまで付きっ切りで介抱しますので、お部屋に行きましょう?」
「え?何々?さっきから、どういうこと!?」
「何だ、この状況は?」
ライトの隣で呆れ切った表情のシドラスがアスマを見ていた。ライトは正直に言い出すことができず、適当に誤魔化すために話を何とか逸らそうとする。
「何か分からないけど、殿下が無事そうで良かったな~」
「お前…何か知っているのか?」
ライトの誤魔化しを一瞬で看破したシドラスに鋭く睨まれ、ライトは引き攣った表情のまま顔を逸らすので精一杯だった。その間にキャロルが驚いた顔でアスマに近づいている。
「そんな…気づかなかった…殿下がこんなにカッコ良かったなんて…!?」
「何言っているんだ?」
ベルの冷静なツッコミも耳に届くことがなかったようで、キャロルもタリアやスージーと一緒にアスマ争奪戦に加わっていた。その様子を冷静に眺めることも許されないままに、ライトはシドラスから詰問されることになる。
「何を知っているんだ?」
「いやー…そのー…」
「何を知っているんだ?」
話さなければ終わらない雰囲気にライトは決死の抵抗を見せたが、それも長くは続かなかった。やがて、正直にフーの店で購入した薬のことと、それをアスマにあげたことをシドラスに説明する。その説明を聞いたシドラスは酷く呆れた顔をしていた。
「はあ…お前は本当に……」
「いや、その…まさか、こんなことになるなんて…」
「まあ、殿下がご無事なら良かった」
「そうそう。そう思うことにしよう」
「黙れ」
シドラスの睨みから逃れるように視線を逸らしたところで、ライトは一つ気になることに気づいた。
「あれ?でも、何でベル婆だけ何ともないんだろう?」
「あの薬だったら、亜人には効かないよ」
「え?」
ライトの隣で話を聞いて笑っていたエルがそう言ってきた。ライトは突然知らされた、初めて聞いた事実に目を丸くしてしまう。
「渡された時に何て言われたか覚えている?」
「『異性の人間を惚れさせる薬だよ、うへへっ』って言われましたね」
「いや、『うへへっ』は言ってなかったと思うよ。けど、ちゃんと言っているでしょ?異性の人間を惚れさせるって。あれは人間には効くけど、身体の構造が違う亜人には効かないんだよ」
「ああ、そういうことですか」
そう納得しながらも、ライトは気になることを思い出す。
(あれ?でも、確かあの時…)
そうやってライトが考えようとした瞬間、その考えを遮るようにアスマの叫び声が響き渡った。
「ちょっとベル!?何とかしてよ!?」
「ああー…まあ、いい誕生日プレゼントになったんじゃないか?」
「いや、そんなこと言わないで、ねえ!?」
タリア達三人に囲まれたアスマは困った様子で助けを求め、ベルは呆れた顔をしながらも、どこか楽しそうにその助けを躱す。それを眺めて周囲にいるライト達は笑い、今回の騒動の終わりを改めて実感していた。
遠くから聞こえてくる祭りの声も、だんだんと静かになっていく。竜王祭の終わりも近いようだった。
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