最終日(11)
何度かの呼びかけに応答がない時点で、男は作戦の失敗を悟っていた。捕らえられたと思われる二人の安否が気になるところだが、捕らえられたからと言って、すぐさま処刑されることはないはずだ。ある程度の情報は引き出したいと考えるだろう。普段なら、情報が漏洩しないようにすぐさま自決を命じるところだったが、今回の一件は黙っていたら確実に処刑される案件なので、そのようなことも命令も下していない。
そうなると、捕らえられた二人はまだ生きているはずだ。うまく逃げ出させることができれば、ターゲットの不意を突くことができるかもしれない。男はそのようなことを考えながら、ソファーに深く座り込んだ。静かな部屋の中をソファーの軋む音だけが大きく響く。
男の作り上げたロス・ロボスという名の暗殺ギルドにとって、今回の一件はとても大きな仕事だった。暗殺のために支払われた報酬もそうだが、何よりターゲットが大きい。一国の王子を暗殺したとなると、ロス・ロボスの名は轟き、様々な仕事が舞い込むようになるはずだ。
もしかしたら、エアリエル王国との関係が悪いゲノーモス帝国に雇われるかもしれない。そうなったら、ロス・ロボスの構成員の生活はようやく安定する。男はそれを望んでいた。
それが叶わぬ夢となってしまうのは、とても悲しいことだった。そう言っていられないことも分かっているが、それでも掴みかけた物を手放すこと以上に惜しいことはない。
ようやく作り上げたというのに、また一からかと男は心の中で呟いた。再び同じ土俵に立つために、どれだけの時間がかかるか想像しようとしてもできないくらいだ。
どれだけ悔やんでも悔やみ切れないことだが、悔やんだからと言って状況が解決するわけではない。早々に退散して、もう一度、準備を整えるところから始めようと男は思い、立ち上がった。依頼主には悪いことだが、まだ少しばかりの時間がかかりそうだ。
そうして、男が手近な荷物を手に取り、部屋から出ようとしたところで、ようやく気配に気がついた。男はドアノブを掴もうと手を伸ばしたまま、蛇に睨まれたように動けなくなる。
気配はたった一つだった。部屋の外から微かに呼吸の音が聞こえてきている。そのことから分かることは、一人の人間がドアの向こう側に立っているということだが、気になるのはその人間が一切動かないことだった。微かな呼吸の音以外に聞こえてくる音が全くない。足音もそうだが、服の擦れる音すらしない。
男はドアの向こうに立っている人間が何をしているのか想像した。その想像に意味がないことくらいは分かっていたが、他の可能性を考えたかったのだ。最も高い可能性は最も嫌な現実として、男の目の前に立ち塞がってくる。
ほんの一瞬だが、そうして考えてみて、男は考えることをやめた。やはり考えることに意味はなかった。答えなど最初から分かり切っていることだ。男は手に持っていた荷物から剣を取り出していた。それも音を立てないように細心の注意を払いながら。ゆっくりとドアに向かって剣を構える。
そして、そのままドアごと叩き切っていた。完全な死角からの不意打ちだったが、男の殺気が鋭過ぎたのか、ドアの向こうに立っていた人間は大きく後ろに転がって、男の斬撃を避けている。そのまま、男の姿を見上げて、間抜けな驚き顔を見せていた。男はその顔を知っている。王城を調べている中で何度か見た顔だ。
「騎士…ヴィンセントか…」
「いや、ビックリしたよ。急に斬られたこともそうだけど、まさか、あの二人の暗殺者と通じていたもう一人がこんな姿をしているなんてね」
男の前でヴィンセントは立ち上がり、男の姿をまじまじと見てくる。ヴィンセントは意図的に奇異の目で見てきているようだ。その目に苛立ちを覚えさせようとしているのかもしれないが、その程度の視線は既に慣れていた。
「なるほどね。だから、あの二人と違って、あんたは動かなかったのか。まあ、そうだよね。目立つからね。狼の獣人は」
ヴィンセントの呟きにハンクは反応することも面倒臭く、ただ黙って剣を構えていた。
☆ ★ ☆ ★
「何故ここが分かった?」
ゆっくりと剣を構えたかと思うと、狼が悠長にそんな質問を投げかけてきた。ヴィンセントはどのような攻撃が来ても反応できるように、狼の構えた剣に意識を向けながら、手で丸い形を作ってみせる。
「通信用の魔術。あれと繋がっている場所を優秀な国家魔術師が調べたんだよ。まあ、一人は気絶しちゃったんだけどね。一つだけなら難しかったけど、二つ揃えばここを割り出すのは簡単だったそうだよ」
ヴィンセントの説明で狼は納得したのか、剣を構えたまま小さな溜め息を漏らしていた。ヴィンセントが満足したのかと問う代わりに軽く首を傾げてみせると、狼は小さな呻き声のような音を口から漏らす。それが返答なのかは分からなかったが、その音はすぐに消えた。
口から音が出た次の瞬間には、狼の剣が大きく振るわれていた。ヴィンセントはその剣を最小限の動きで躱す。常に意識を集中させていたから、これくらいの芸当は簡単だった。大振りの後に生まれる隙を叩くために、ヴィンセントはすぐさま剣を抜き、狼の身体を斬りつける。
そこまで、ほんの僅かな時間の中でのことだった。ヴィンセントは振るった剣をすぐに引き、何も手応えがないことと、刃が一切汚れていないことに苦々しい顔を浮かべる。
狼の身体はヴィンセントよりも明らかに大きく、ヴィンセントよりも力が強いことは間違いないはずだ。そこにはいくらヴィンセントでも白旗を上げなくてはいけない。
しかし、速度面ではヴィンセントが勝っていてもおかしくないはずだった。あれだけの巨体で素早く動けるはずがない――とヴィンセントは思っていた。
少なくとも、あれだけの大振りの後にヴィンセントの一撃を躱すことは不可能のはずであり、だからこそ、ヴィンセントはその一瞬を狙っていた。それはヴィンセントが意図的に作り出した決定的瞬間だった。
その瞬間の一撃をまさか避けられるとは思っていなかったし、それどころか、ヴィンセントと距離を取られるとは思ってもみなかった。再び部屋の中央に立った狼の姿を見て、ヴィンセントは立場が悪くなったと感じる。
そもそも、ヴィンセントは獣人の話を聞いたことがある程度で、実際に戦ったことはなかった。もちろん、王都にも獣人はいるので逢ったことくらいはあるが、その身体から繰り出される攻撃がどれほどの威力を有しているのか、ヴィンセントが受け止められるものなのか、ヴィンセントは全く把握できていない。
情報が不足している以上は戦闘がどのように行われるか想像すらできない。先の分からない道を進むくらいなら、さっきの一撃で決めたいとヴィンセントは思っていた。
その思惑が外れ、距離を取られたことにより、ヴィンセントは微かな焦りを覚え始めていた。ここからは先の見えない道を進むことに等しく、ヴィンセントはその場その場の対応を迫られることになる。特に未だ分からない獣人の身体能力を読み違えた時には、ヴィンセントの首が一瞬で飛んでいることだろう。
その姿を想像してしまったことで、ヴィンセントは自然と剣を握る手に力を込めていた。ヴィンセントの目の前で狼が同じように剣を握る力を強めている。
募った焦りはヴィンセントの体内を掻き混ぜており、未だ獣人の身体能力は分からない。ヴィンセントが狼を捕らえるために、どのように動けばいいのかも分からないままだが、それでも事態が動き出す気配だけは分かってしまった。
ヴィンセントが警戒し、剣を微かに動かした瞬間、狼の一撃が迫ってきていた。ヴィンセントは咄嗟に剣を構え、狼の一撃を受け止めようとする。しかし体重の乗った一撃を受け止めることは無理だったようで、ヴィンセントは剣と一緒に大きく体勢を崩すことになった。
その隙に狼の膝がヴィンセントの腹部に直撃した。その衝撃は蹴りというよりも、鉄の棒か何かで思いっ切り殴られたようだ。ヴィンセントの身体は大きく浮き、部屋の外の壁に叩きつけられる。一瞬、完全に呼吸ができない瞬間があり、ヴィンセントは目を白黒させていた。
痛む身体を無理矢理動かし、剣がまだ握れていることをヴィンセントは確認しようとする。しかし、それを許さないように狼の巨体が迫ってきている。ヴィンセントは咄嗟に身体を動かし、次の一撃を避けることに成功した。問題はここからの反撃だが、それは痛む身体を無理矢理動かして避けたことで、大きく体勢を崩していたために不可能そうだった。
それよりも、次の一撃をどうやって避けるのかヴィンセントは考える必要があった。少しずつ、身体の機能は回復してきているが、それでもまだ動かしづらいところはある。特に直接的に殴られた腹部は少しでも力を入れると、表情を維持できないほどの痛みが走る。
このままではやがて触れられると思ったところで、狼の次なる一撃がヴィンセントに迫ってきていた。ヴィンセントは剣を構え、その一撃を受け止めるのではなく、往なそうとする。狼の振るう剣の側面に剣を当てながら、ヴィンセントは体勢を整えて、狼と距離を取るために動き出す。
その一瞬のことだった。ヴィンセントの剣が狼の剣に触れた瞬間、そのタイミングを狙っていたように狼が剣を大きく振り上げた。それによって生まれたのが、最初の一撃の時とは逆で、隙だらけになってしまったヴィンセントだ。特に胸部から頸部にかけての急所が大きく曝け出される。
「あっ…」
思わず声を漏らしながら、ヴィンセントは上体を動かしていた。その動きを妨げたいと思ったのか、狼の剣が大きく振り上げられる。剣がヴィンセントの服に触れ、肌に触れ、そのまま宙に飛び出した。
ヴィンセントの胸元から赤い液体が吹き出したのは、その直後だった。
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