二日目(12)

 アスマの手を引いてベルが飛び込んだ路地は不思議なほどに人がいなかった。大通りには逃げ遅れた人や野次馬が残っていたし、大通りから路地に逃げ込んだ人は多かったので、大通りから繋がる路地は今頃、ぎゅうぎゅうで倒れようにも倒れられない状況になっていてもおかしくないはずだ。

 それなのにベルが逃げ込んだ路地には人がいなかったことをベルは不思議に思ったが、不思議に思う以上に深く考えることはなかった。


 この時のベルはアスマを無事に逃がす使命に駆られていたことがその大きな原因だ。シドラスがあそこまでの覚悟を以てアスマを逃がすことを選んだのだ。その意思をベルが蔑ろにしてはいけない。そんなことをしてしまえば、草葉の陰からシドラスが呪いをかけてくる―――とこの時はシドラスが死んだ可能性が非常に高いとベルは思っているので、半ば本気で思っていた。


 不意に引いていたはずのアスマの手に引かれ、ベルは背中から転びそうになった。咄嗟に体勢を整えて、振り返ってアスマを見ると、アスマが立ち止まって来た道の先に目を向けている。どうやら、アスマはシドラスのことが気になっているようだ。

 普段のベルなら、ここでアスマを安心させるために、「大丈夫だ。墓を作る時は私も金を出す」くらいのブラックジョークを噛ましてみせるのだが、この時はジョークにならない気配があったので、その言葉を飲み込んでアスマを見守っていた。


「シドラス……大丈夫かな……?」


 ぽつりと呟いたアスマの声は普段のアスマから考えられないほどに小さなものだった。ベルはその背中に何と声をかけたらいいのか分からず、ただ見守ることを継続させてしまう。

 そうしていると、アスマが不意に振り返ってきた。かぶりを振り払おうとしているのではないかと思われる勢いに、ベルは目玉が飛び出そうなほどに目を丸くさせてしまう。


「急にどうしたんだ?」


 ベルが聞くと、アスマは神妙な面持ちのまま、ぽつりぽつりと言葉を零し始めた。


「やっぱり…戻るべきなんじゃないかな……?シドラス一人なんて…無茶だよ……」


 大通りでも聞いたアスマの言葉に、ベルはどう言ったらいいのか少し考え始めた。アスマもシドラスやベルの考えは分かっているのだろうが、分かっているからこそ、何度も考えてしまうのだろう。ベルはアスマほどにシドラスとの仲が深いわけではないが、それでもその一端くらいは分かる。だからこそ、アスマに簡単な言葉は言えない。


 そう思って考え始めて、ベルは何も言えない自分に歯痒さを覚えていた。アスマを説得することは難しい。アスマは当の昔に分かっているからだ。シドラスの覚悟くらいは分かっていて、ベルも酌んだ気持ちくらいは酌んでいて、それでもシドラスを助けたいと思っている。その気持ちをへし折る言葉をベルは言えないし、何より思いつかない。


 しばらくして、あまりに考え込み過ぎたと気づいたベルが慌てて顔を上げた。アスマは未だぽつりぽつりと呟きながら、ベルよりも考え込んでいて、一人で大通りに戻る気配はない。


 やはり、アスマも本当のところで分かっている気持ちを握りつぶせないでいるのだとベルが思ったところで、アスマの向こう側にを見た。路地の入口の方に浮かんでいて、建物の陰に隠れたり、姿を現したりしている。一体、何の光なのだろうかとベルが目を凝らした瞬間を狙っていたように、その光が動き始める。

 ベルは咄嗟に口を開いていた。それは光の正体が何であるか分かるよりも前のことで、ただ何となく、もしくは本能で察したために、ベルは声を出さなければいけないと思ったみたいだ。


「アスマ!!」


 その叫びに顔を上げたアスマがベルの視線を追い、自らの背後に迫ってきていた光の正体を見た。アスマはその瞬間に倒れ込むように建物の壁にぶつかる。咄嗟に逃げ出していたベルも思わず尻餅をついていた。


 光の正体はだった。薄暗い路地の中で微かな光を反射していたようだ。そのナイフの柄からは腕が伸び、ナイフを握った人物の顔まで見えてくる。シドラスやライトよりは年上だが、エルよりは若いという雰囲気の男だ。


 男はアスマを狙ったナイフをそのまま次の攻撃に転換しようとしていた。それを察したのか、アスマは男の腹を勢い良く蹴り飛ばし、男との間に距離を作っている。流石にアスマの蹴りは強力なようで、男は顔を歪めながら腹を押さえている。


「仕留め損なったか…」


 男の声は不思議と見た目よりも幼く聞こえ、酷く耳に残った。その言葉の意味するところも合わさり、ベルはそこに不快さを覚える。


「さて、どうするか…」


 そう呟きながら、辺りに目を向けていた男とベルは目が合った。その瞬間に背筋を這った寒気に、ベルは猛烈に嫌な予感を覚えていた。

 咄嗟に足が動き、ベルの意思よりも先に回転させ始める。その唐突さに男は驚いているようだったが、それ以上にベルの方が驚いていた。


 路地を更に奥へと進もうとするベルを見て、男が慌てて走り出している。男の狙いはアスマのようだったが、今の一発の蹴りから魔王であるアスマを男が相手することは難しいと判断したらしい。アスマを確実に殺せる手段を男は見つけなければならないと思っていたところで、ターゲット近くにいた無力なベルだ。男がとしてベルを選ばない理由はなかった。


 人質に取りたい男と人質に取られそうなことを察したベルの鬼ごっこが幕を開ける―――かと思われたが、それは鬼ごっこと呼ぶには一方的過ぎる展開に終わろうとしていた。

 男の身の軽さはベルの比ではなかった。実際に身体の軽いベルだが、軽い以外の重要な身体能力が欠けているので、男との間に距離が開いていたが、その距離もすぐに詰められていた。手が届きそうな距離になったら、そこから逃れられる気配は完全になくなる。そう思った直後には、男の指がベルの服に掠れる。


(捕まる…!?)


 ベルが覚悟を決めた瞬間のことだった。ベルと男との間に割って入るように風が吹いた。ベルは大きく前方に吹き飛び、男は大きく後退している。

 ベルは数度大きく転がりながら、路地の奥に寝転がった。転がった際にかすり傷がいくつかついたが、それは問題ではなく、他に大きな怪我もない。同様に後退した男も怪我はないようだったが、ベルとの距離はさっきよりも開いていた。


 ただし、男はそのことを微塵も気にしていないようだった。それ以上に二人の間に割って入った風の正体の方が気になったらしく、路地の奥や入口に目を向けている。

 その動きに合わせる形でベルも路地の入口に目を向けると、そこに見慣れた顔があることに気づいた。アスマもそのことに気づいたようで、ぶつかった壁から離れながら、その見慣れた顔に近づいていく。


!!!!」

「殿下はこちらに!!ベルさんはそこから動かないでください!!」


 真剣な表情のパロールにそう声をかけられ、ベルは指一本すら動かさない勢いで動きを止めた。その間にラングが二枚の術式を組み合わせ、男に向かって風を放っている。

 男は風によって、かなり動きを制限されていた。風の強さはアスマの蹴りに匹敵するようで、直接的に食らわないように男は狭い路地の中を必死に逃げ回っている。


 パロールに動かないように言われたベルも、そのパロールの誘導を受けて、風の隙間を縫う形でアスマやラングと合流することができた。そこでホッとしたのか、ベルはすぐさまパロールに質問してしまう。


「どうして、ここに来たんだ?」

「ゴーレムを作り出した魔術師を師匠と一緒に探していたら、この路地に魔術が仕掛けられていることに気づいたんです。それで確認しに来たら、ここに」

「魔術?そんなものがあったか?」


 ベルがアスマに目を向けながら聞くと、アスマはかぶりを振った。ベルよりも魔術に近しいところにいるアスマだが、そのアスマでも気づかないとなると、ベルが気づけるはずもない。

 その間にラングの風の魔術を掻い潜り、アスマを始末することは難しいと、男は判断したようで、路地の奥へと歩みを進めていた。


「待て!!」

「いや、無理…」


 ラングの声かけに対して、律義に返答してから、男は路地の奥へと消えていく。ラングは必要以上にその背中を追いかけることをせずに、男の姿が消えるとすぐにベル達のところに近づいてきた。


「殿下、ベルさん、ご無事ですか?」

「うん。ありがとう」

「ああ、大丈夫だ」


 そう答えながらも、ベルは答えを聞く前に保留された質問のことが気になって仕方なかった。


「それで、魔術はどこにあったんだ?」


 そう聞くと、パロールは路地の全体を示すように手を向ける。ベルが片っ端から目を向けてみるが、どこにも魔術の類は見当たらない。


「ないが?」

「この状況ですよ。この路地には人払いの魔術が仕掛けられていたんです」

「人払い?何故?」

「恐らく、この路地で殿下を狙おうとしていたんですよ」

「他の路地も調べてみないと分かりませんが、恐らく、いくつかの路地に殿下を誘い込むために大通りの騒ぎを起こしたのだと思われます」


 ラングの口からゴーレムの一件が出てきたことで、アスマはナイフを持った男の登場で有耶無耶になったシドラスのことを思い出したようだった。途端に表情が悲しげになり、いつもの明るさが鳴りを潜めるので、何を考えているのか、はっきりと分かる。


「ねえ…シドラスはどうなったの……?」


 そう聞くアスマは眠る猛獣に触れるように怯えた様子だった。アスマの中ではシドラスの半分くらいは死んでいるのかもしれない。それはベルも同じことなので、易々と否定することができない。

 そう思っていたのだが、ラングもパロールも一切の重さを持っていない声と表情と言葉で易々と返答してみせた。


「ああ、そのことなら、四体のゴーレムを騎士団長が倒して解決しましたよ」


『はい…?』


 ベルはアスマと声を揃えて、パロールが発した信じられない事実に首を傾げた。シドラスとエルが協力しても苦戦していたゴーレムを四体とも倒して解決した―――みたいな話が小説に書かれていたら、ベルは非現実にも程があると怒っていたところだが、現実に起こった話となると、どう反応したらいいのか分からない。


「本当に…?」


 試しに一度疑ってみたが、ラングとパロールはあっさりと首肯してしまう。


「今はエル殿が回収したゴーレムを調査中ですよ」


 ラングにそう言われながら、ベルはアスマと顔を見合わせて、何とも言えない笑みを浮かべることになった。これが大通りで起きた事件の中心に立っていたはずの二人が、その大通りで起きた事件の解決を知った瞬間だった。

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