一日目(9)
部屋の中に散乱していた紙は原稿だった。それもただの原稿ではなく、探偵シャーロックシリーズの最新作の没原稿だ。
海賊の宝でも見つけたように目を輝かせ、アスマがそれら散らかった原稿を手に取っている。
興奮の絶頂に達しているようだが、あまりの興奮から喉は閉まってしまったようで、いつもの騒がしさは逆になくなっている。
ベルも一枚を手に取ってみるが、アスマの感動の一割も理解することができそうになかった。
そもそも、ベルにはそれら原稿を見ても、消えない疑問が一つあったのだ。
「というか、本当に作家のアーサーなのか?」
確かにアサゴという名前はアーサーと通ずるところがあり、原稿にはシャーロックの名前もあるが、それで本人だと確定することは難しいように思える。
この原稿もただファンが真似をしているだけという可能性が消えていない。
そう思っていたのだが、シドラスはベルが他言語を話し始めたように首を傾げて理解不能と意思を伝えてきた。
「何を言っているんですか?探偵シャーロック展に飾られていた生原稿と同じ字じゃないですか」
「お前こそ何を言っているんだ?そんな特殊技能がただのメイドにあるわけないだろうが」
そもそも、騎士も文字の見極めが可能なのか怪しいところなのだが、シドラスは他の騎士と並べるにはアスマに染まり過ぎている気もするので、その辺りをベルが追及することはなかった。
足の踏み場もないアサゴの部屋の中で、興奮しているアスマは別だが、それ以外の三人は落ちつける場所がないかと部屋の中を見回してしまう。
アサゴがアーサーとして執筆に使っているのだろうテーブルと椅子はあるが、この家の主人を差し置いて座るには酷く憚られる場所であり、そこに座る勇気はベルにはない。
それはシドラスやベネオラもそうだったようで、アサゴがせっせと椅子を出しながら、その席に座るかと聞かれた時に座ると答える人物はアスマしかいなかった。
というか、アスマは普通に座っていた。
「お前は精神が図太いというか何というか…何だろ?王子ってことを改めて実感したよ」
「何?褒められてるの?」
「褒めてはいないな。褒められることではない」
ベルの言いたいことはシドラスも同じだったようで、ベルの言葉に同意するように小さくうなずいていた。
結局、ベル達三人はアサゴがせっせと用意してくれた椅子に座ることにする。
アサゴが引っ張り出してきた椅子にアサゴを含む四人が、アサゴが執筆する際に使っているらしい椅子にアスマが座ったところで、ようやく家の中に入り込んだ本題が始まろうとしていた。
つまりは作家アーサーが何故、謎の記号の描かれた記事を新聞に載せたのかという疑問に対する解答編である。
ベル達は正直どうでもいいことだったのだが、アスマが聞くと言って聞かなかったため、渋々アサゴの部屋にお邪魔することになったのだ。
もちろん、アスマが部屋に上がりたいと言い出した理由がそれだけではないことは分かっている。こっそりとポケットに落ちていた紙を仕舞おうとして、シドラスに怒られる姿などは正に解答編だ。
「それで、まず一応確認しておくが、アサゴはアーサーなんだな?」
ベルが話の始まる前に前提条件を確認し始めると、アサゴは途端に恥ずかしそうにしていた。
「ええ、そうです」
「アーサーから、ちょっと名前を変えてアサゴと名乗ったのか」
「あ、いえ、それは違います。アサゴは僕の本名なんですよ」
「ん?なら、アーサーはその本名をもじったペンネームということか?」
「それも少し違うんです」
「どういうことだ?」
「それを説明すると、いろいろとややこしい上に長くなるんですけど、いいですか?」
ベル達が顔を見合わせて、少し悩んでから、かぶりを振ることにした。
長くなるのなら、さっさと本題に入って、話を終わらせてしまいたい。
その考えがアサゴにも筒抜けだったようで、アサゴは苦虫を咥えたまま作った笑顔を浮かべている。
「長くなるなら、その話をやめて、あの新聞記事の話をしよう。こいつが気になって仕方ないんだ」
「気になってます」
アスマが背筋をピンと伸ばして、高々と上げた片手でアピールするように、アサゴに向かって会釈をしている。
「そのことを説明するなら、その名前の話も関わってくるんですけど」
「何?長くなる話が関わってくるのか?」
「やめときますか?」
「やめない!!」
力強いアスマの宣言が部屋に響き渡ったことで、ベル達の行動は強制的に決められたようだった。
ベルやシドラスが小さくうなずくと、アサゴはこれから長くなる話の冒頭を口に出す。
「実は僕、この世界ではない違う世界から来たんです」
「お前は何を言っているんだ?」
アサゴが明らかに他言語を話し始めたので、ベルは早々に理解不能の白旗を掲げることにした。
☆ ★ ☆ ★
アサゴこと
日本、それも埼玉県の山奥で育ち、小学生の頃は近くにある全校生徒が二百人余りの小学校に通っていた。この小学校はアサゴが卒業してから数年後のアサゴが高校生の頃に閉校となっている。
この小学校を卒業すると、今度は家から自転車で一時間近くの場所にある中学校に通い始めることになる。
この頃のアサゴはその他大勢の一人という感じで、教室の隅で小説を読んでいるような目立たない子供だった。
その後、埼玉県内の公立高校に入学し、その高校を卒業した後は東京都内にある大学に通い始めることになるのだが、その頃からアサゴは不安を抱えるようになっていた。
それまで、アサゴは何かに熱中することがなかった。
中学生の頃から小説を読むのが好きで、特にミステリージャンルの小説を読んだりしていたが、自分で小説を書きたい欲があるわけでもなく、オリジナルの小説を書き切る能力があるわけでもない。
それを補うほどに勉強ができるわけでもなければ、運動などは苦手な部類に入るくらいだ。
このまま大学を卒業して、どこかの企業に就職して、それで死ぬまで安定した生活が保障されるのならいいが、現実はそこまで甘くはない。
もっと何かできることがなければ仕事が見つからない可能性がある上に、見つかったとしても、他に熱中することがなければ、ただ仕事をこなすためだけの人生になってしまう。
そう考えた時に、アサゴの胸では様々な不安がカクテルを作り出し、どす黒い不安に酔うことになってしまうのだ。
もっと自分の人生を豊かにする何かが必要だと思いながらも、その何かが見つからないままにアーサーの大学生活は進んでいく。
そうして、一年が経ったある日のことだ。
アサゴは家から大学に通うために電車に揺られ、大学の最寄り駅から大通りを南下しているところだった。
自分の将来に対する不安は抱えたままだが、大学の授業を休むと不安が重なることになるので、アサゴの毎日が止まることはない。
どれだけ不安でも電車に揺られなければいけないし、どれだけ不安でも大通りを南下しなければいけない。
その日常に変化はなく、その日も同じ光景が続いていた。
ただし、それも途中までのことだ。大通りを南下している途中で、いつもの日常から大きく逸れる出来事が起きた。
始まりは一つの悲鳴だ。アサゴの背後から女性の悲鳴が聞こえてきた。
何かと思って振り返ってみると、誰かが倒れている姿を見つける。アサゴから見て十メートルほどの距離のところで、一人の女性が倒れている。
しかし、その女性が心配されることはなかった。
それはアサゴも同じことで、倒れている女性よりも、その女性の隣に立っている男の方から目が離せなかった。
その男の手に握られた鋭いナイフは銀色の刃を真っ赤に染めている。
血液。ナイフ。男。血走った目。この辺りの光景が言葉としてアサゴの脳に染み渡ってきた。
何が起きているのかは分からないが、危険であることは分かる。
既にナイフを握った男や倒れた女性からは人が離れ、少し遠くから怯えた目で見つめる人や電話で警察か救急車を呼んでいると思われる人が残っているくらいだ。
アサゴもすぐにその場を離れようと思った。
ここにいては危険な気がする。そう身体が警告している気がする。
そう思ったのだが、その警告はどうやら遅かったようだ。
気づいた時には、血走った目の男がアサゴのすぐ前にいた。倒れている女性の隣から、アサゴの前まで走ってきていたのだ。
「あ」
そう呟く時間の代わりに鋭い痛みがアサゴの腹部に与えられる。
すぐに刺されたことは分かったが、それが分かったところでどうなるわけでもなかった。
気づけば、というよりも気づく隙もないままに、アサゴは地面に倒れ込んでいた。春の頃のことで、アスファルトは意外に温かいと思ったことが最後の記憶だ。
そこでアサゴは短い生涯を終えた。享年十九歳である。
死因は大通りに現れた通り魔による刺殺。現場に駆けつけた救急車に乗って、病院に向かっている途中で死亡した。
そこから、アサゴが目覚めることは死後の世界がない限りはないはずなのだが、アサゴは目覚めることになった。
星のない宇宙空間のように境界線の分からない真っ黒な部屋だ。中央にはぽつんとテーブルとそれを挟む形で椅子が二脚置かれている。
それらが見えるということは、この部屋は真っ暗というわけではないとアサゴが思ったところで、テーブルを挟んだ向こう側に一人の女性が立っていることに気づいた。
真っ黒の世界では浮かび上がったようにも見える真っ白い髪をした女性で、アサゴはつい揖保乃糸を思い出した。
「初めまして」
「は、初めまして…?」
アサゴは女性の一言に、ゆっくりと首を傾げる。腹部に存在するはずの傷がないことに、まだこの時のアサゴは気づいていなかった。
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