一日目(1)

 竜王祭の始まりは想像よりも静かなものだった。

 日常から非日常に変わった感覚はなく、ベルはいつものようにアスマの部屋に来ることになっている。

 もしかしたら、祭りが始まったという話自体が嘘なのではないかと考えるほどに、ベルは今のところ、いつもと変わらない生活を送っている。


 アスマの部屋もいつもと同じで、アスマはベッドで横になって毛布を膨らませていた。その毛布を掴むために、ベルはベッドに近づいていく。

 そして、毛布をいつものように引き剥がそうとしたところで、アスマの包まっている毛布が爆ぜるように動き出した。


「おはよう!!」


 毛布から爆誕したアスマは一気にベルとの距離を詰め、ベルを盛大に驚かせようとしたようだった。

 しかし、ベルの反応は申し訳ないことに非常に冷え切っていた。

 そのあまりの冷え切った反応はアスマを凍らせたくらいである。


「あれ…?」


 ゆっくりと自らの身体を解凍してから、アスマはようやく言葉を零した。心の底から湧いてくる不思議な気持ちを全て詰め込んだ言葉だ。


「驚かない…?」


 アスマの疑問が言葉となった瞬間、ベルは肺の中を空っぽにする勢いで溜め息をついた。呆れ切った気持ちが空気と一緒に外に出る。


「お前がそこで眠っていることを知っているんだぞ?驚くわけがないだろ?」

「ええ~。そこは驚いてよ」

「無理だな。それに私は驚きづらいんだ」

「そんな~」


 アスマは全身で落胆した気持ちを表現しながら、ベルに催促するような視線を送っていた。

 その視線の意味するところは分かるが、ベルは自由自在に驚けるわけではないので、無茶にも程がある。


 構うと調子に乗るのは犬と一緒なので、ベルはアスマを適度に放置して、別の話題を振ることにした。


「それより、早く支度をしろ。ベネオラが待っているぞ?」

「あ、そうか。急がないと待たせちゃうよね」


 アスマが羽化するようにベッドから抜け出して、脱皮するように寝巻を脱ぎ始めた。急ごうとする心構えは褒めたいところだが、ベルがいる前で着替え始める点はよろしくない。

 ベルは心の鬱憤箱に鬱憤を貯めながら、アスマの部屋を後にする。


 祭りが始まった実感は未だないままだった。



   ☆   ★   ☆   ★



 ベネオラは城門に凭れかかり、胸を押さえながら何度も深呼吸を繰り返していた。見る人によっては死にかけているように見える光景だ。

 実際、ベネオラは棺桶に半分足を突っ込んでいる状態だった。長距離を走り終えたばかりのような心拍数は、ベネオラの意識を奪いかけている。


 この時のベネオラは過度の緊張に襲われていた。緊張が心臓を叩き、肺を潰したように呼吸がしづらい。

 何とか深呼吸を繰り返し、必死に自分を落ちつかせよとしてみるが、それくらいのことで消え去る緊張ではなく、ベネオラは真面に立つこともできなくなっていた。


 その様子を見守っていたのか、心配した様子で話しかけてきた人物がいた。

 城門を守護していた衛兵の一人、ニコラスだ。


「大丈夫ですか?」

「はい!?」


 ベネオラは全身の神経を尖らせて、近づいてくる人に対して気を張っていたので、その声に過剰に驚いてしまった。

 その驚きは連鎖的に驚きを生み出し、声をかけてきたニコラスも驚かせている。


「ご、ごめんなさい!?」

「い、いえ、こちらこそ!?」


 ベネオラとニコラスは互いに謝罪の言葉を呟きながら、同時に頭を勢い良く下げたことで、二人の頭は二人の間でかち合うことになってしまった。

 骨と骨が確かに打ち鳴らした衝撃に、ベネオラは涙を流しながら頭を押さえる。それはニコラスも同じで、二人はしばらく悶絶することになった。


「ごめんなさい…」

「こ、こちらこそ、ごめんなさい…」


 二度目の謝罪を口にしてしばらく、ベネオラとニコラスの頭からようやく痛みが引いてきたところで、ベネオラは自分の心臓を叩いていた緊張が喪失していることに気づいた。

 そのことにベネオラがホッと安堵したところで、ニコラスの後ろから、もう一人の衛兵が近づいてくることに気づいた。


「おい、何してるんだ?」

「あ、ミハイル先輩」

「ナンパか?」

「違いますよ!?彼女の体調が悪そうだったので声をかけてたんですよ」

「体調?」


 ミハイルがニコラス越しにベネオラの姿を見てきた。


 普段は動きやすい格好をしているベネオラも、今日は年頃の女の子らしくスカートを履いている。これは以前、グインがたまにはこういう服もいいだろうと言って買ってくれたのだが、それ以来、特に着るタイミングがないままに今日まで来てしまったベネオラの一張羅だ。

 その格好をミハイルの視線で意識し、少し恥ずかしくなったベネオラは頬を林檎色に染める。


「確かに少し顔が赤いような…」

「いえ、大丈夫です!!」

「本当ですか?さっきまで呼吸が荒かったみたいですし、少し休まれた方が」

「違うんです。体調が悪いんじゃなくて、少し緊張しちゃって」

『緊張?』


 ミハイルがニコラスと声を揃ったことに顔を歪めている。嫌悪感で塗り潰したような表情だが、隣のニコラスの照れたような表情と並べてみると、それが本当に嫌悪感で塗り潰しただけの表情ではないことが分かる。


「はい。今日、これから一緒にお祭りを回る人達と待ち合わせしているんですけど、私、そういうのが初めてで」

「ああ、それで緊張しているのか」

「一緒に回る人って友達ですか?」

「友達…?」


 ベネオラはアスマ達三人の顔を思い浮かべて、少し悩み始めた。

 シドラスを友人と呼ぶのは恐れ多すぎるから絶対に違うが、アスマとベルは微妙なところだ。確かに仲は良いが、基本的にはパンテラの店員と客の付き合いであり、友人と表現していいのかどうか分からない。


「え?何?良く分からない人と一緒に行くの?」

「いえ、そういうわけじゃないんですけど。普段は私が働いているお店に来るお客さんという感じで、友達と言っていいのかどうか…」

「あまり仲良くないんですか?」

「いえ、いろいろと話す仲ですよ」

「じゃあ、友達でいいんじゃないですか?」

「そうだな。話を聞く限りは良さそうだな」

「そうなんですかね?」


 尚もベネオラが首を傾げているためか、ミハイルは生徒を叱る前の教師のような顔をして、ベネオラをビシッと指差した。衛兵の姿に鋭利な指は剣を彷彿させ、ベネオラの瞼は防衛反応で閉じていく。


「そんなに考え込んだら、相手に失礼だろ!?」

「失礼…ですか…?」

「相手は友達だと思っているかもしれないのに、君が否定するようなことを言ってどうする?」


 ベネオラの目から鱗が滝のように落ちて、足下に小さな鱗の池を作りそうだった。

 ミハイルの言葉はベネオラの知らない人間関係の真理をつくようで、ともすれば教祖として崇めそうなほどに感心していた。


 普段、ベネオラは店員と客以外の人付き合いをほとんどしていない。友人と呼べる友人はおらず、グインがいなければ竜王祭を一人で過ごさなければいけないと思っていたほどだ。

 そのため、人との関係の部分を深く考えたことがなかったのだが、ミハイルの言葉で友人は友人と思うところから始まるのかもしれないと思うことができた。


「そうですよね。分かりました。これから来る人達は友達です」

「そうそう。まずはそう思わないと」

「友達なら、緊張する必要ないですよ」

「そうそう。そもそも、緊張するほど偉い人とか、ほとんどいないから」

「それは…」


 ベネオラはアスマとベルではなく、シドラスの顔を思い浮かべて小首を傾げる。

 シドラスに対してだけは緊張が一切なくなる気配がない。今もこうして考えているだけで、心臓が早鐘を打つくらいだ。


「そうですかね?」

「そうだよ。少なくとも、一緒に回るような人は緊張しないって」

「本当に?」

「本当に」


「何がホントーに?」


 不意な声にニコラスとミハイルは自分達の背後に目を向けていた。

 そこには、ベネオラの待ち合わせ相手である三人が揃って立っている。アスマは不思議そうに首を傾げ、ベルは掃き溜めのゴミに向けるような目を二人に向けている。


「え?あ、え!?殿下!?」

「ベネオラさん、お待たせしましたか?」

「い、いえ!?全然待ってません!?」


 本当はかれこれ一時間ほど待っているのだが、シドラスに心配されたことで有頂天になり、ベネオラの頭から待ち時間に関する出来事は綺麗に消失していた。

 その隣でニコラスとミハイルはアスマの威光で固まっているようだ。石像よりも石像らしく立っている。


「ニコラスとミハイルじゃん。何してるの?」

「何もしてませんよ!?」

「どうせ、ナンパとかだろう」

「え?仕事中に女性に声をかけていたのですか?」


 軽蔑に軽蔑を練り込んだベルの鋭い視線に、疑いに疑いを乗せたシドラスの視線が重なって、ニコラスとミハイルを貫いていた。

 二人は石像のまま、パキパキと音を立てながら、自分の頭を左右に大きく振っている。


「違います!?違いますよ!?」

「あの、お二人はただ私を心配してくださっただけで…」

「まあ、もちろん、分かっている。態度が悪い瞬間はあるが、仕事は真面目にこなすタイプだからな」

「仕事中に女性に声をかけるような兵士が王城の守護を任されるわけがありません」


 山の天気より一瞬のうちに表情を変えた二人を見て、ニコラスとミハイルはようやく温もりを取り戻したようだった。

 すぐにアスマに敬礼して、持ち場に戻ることを伝えている。


「あの、ありがとうございました」

「いや、何かごめんね。為にならないアドバイスだったかもしれない」

「相手が殿下とは思いませんでしたからね」

「いえ、凄く為になりました」


 苦笑しながら立ち去る二人をベネオラが見送ってから、アスマが待ちに待ったと言わんばかりに手を叩く。


「よし、それなら行こう。せっかくの祭りなんだから、一刻も早く楽しまないと」


 アスマのその言葉に反応するように、ベネオラの顔に満面の笑みが咲いたところで、四人の祭りが始まった。

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