679話 閑話 認識の違い
アレクサンドルからの知らせに、マリー=アンジュは耳を疑った。
ラヴェンナが受け入れを認めたことだ。
以降の生活と安全を保証する、とまで付け加えられていた。
朗報をもたらしたアレクサンドルは、穏やかにほほ笑む。
「良かったじゃないか。
即決と言ってもいい早さだ。
しかも使徒の正妻としての行為は、すべて不問にするとまで言ってくれている。
これでなんの心配もいらないよ。
準備はしていたから、明日にでも出発するといい」
マリー=アンジュは、まだ半信半疑で戸惑っている。
自分の行為まで、不問にされるとは思っていなかったのだ。
仮にラヴェンナの訪問が認められても、民衆から罵声を浴びせられることは覚悟していた。
ユウがアルフレードを殺しかけたあとのことだ。
そのときに民たちの憎悪に満ちた目を、マリー=アンジュは知っている。
だからこそユウに、さらなる罪を犯させまいとして、自らを犠牲にして老婆の殺害を食い止めた。
あそこまで怒りと悲しみに満ちた視線の数々を、マリー=アンジュは生まれてはじめて感じたのだ。
マリー=アンジュはそれに心底恐怖してしまった。
最も大事な人を奪われたとき、人はこのような感情を持つのだと理解したからだ。
そんな醜い行為をユウがしてしまった、と気づかされた瞬間でもあった。
そして思ったのだ。
ユウが死んだとき、人々は同じような感情を持ってくれるのだろうか。
悲しいことだが、そうは思えなかった。
きっと多くの人は、
その日からマリー=アンジュは変わりはじめた。
ユウが再び道を踏み外さないように、日に影に支えつづけてきたのだ。
ユウにも最後の日は訪れる。
多くの人は、利益が得られなくなったことを悲しむだろう。
それだけではむなしい。
せめて亡くなったことを悲しまれる人にしたい、と思ったのだ。
そして自分はユウの正妻だった。
だからユウの犯した罪は自分の罪だ、と思うことにしたのだ。
そうでないと、ついつい諫めることに弱気になってしまうから。
でも愛される前に、志半ばでユートピアを去ることになった。
そんな自分の我が儘で、ラヴェンナを訪れる。
本来なら二度と訪れてはいけないのだ。
住民たちに、あの怒りと悲しみを思い出させてしまう。
自分が罵声を浴びせられると、オフェリーが悲しむことは承知している。
それでも会いたい、という気持ちは強かった。
そんな葛藤が消えてしまったのだ。
布告で心までは変えられない。
それでも、口に出す者はいないだろう。
アルフレードの布告を破る者がラヴェンナにいる、とは思えなかったからだ。
少なくとも、オフェリーを悲しませることはなくなる。
それだけは本当に有り難かった。
そこまでアレクサンドルが嘆願してくれたのだと、マリー=アンジュは感謝する。
ところが、アレクサンドルはそんな嘆願をしていない。
アレクサンドルとしては、オフェリーの妹である以上、酷い扱いを受けないと確信していた。
だから敢えて触れなかったのである。
むしろ念押ししては、アルフレードの不興を被る恐れがあった。
触れないのがいい、との判断である。
そもそもあの現場を知らないので、深刻に捉えていなかったのだ。
その温度差はラヴェンナからの返答で、問題になる前に解決してしまった。
「信じられませんが……。
本当に有り難う御座いました。
叔父さまに恩返し出来ないことだけが……心残りです」
アレクサンドルは、小さく笑って首を振る。
「そんなことは、気にしなくていい。
それより体調は大丈夫かい?」
マリー=アンジュは、ぎこちなく笑う。
期待していなかったが、もしかしたら……とは思ってはいた。
残された時間を生きる希望が生まれたことは事実だ。
本当に
そしてオフェリーのことを考えている間は、幸せな時間を過ごせている。
実際会ったら、オフェリーはどう変わっているのか。
それを知るのが楽しみだった。
そして今の自分の姿を見ても、オフェリーは決して避けない。
そう確信を持っている。
昔のオフェリーはなにを考えているか、マリー=アンジュにはわからなかった。
ライバルだと思っていたオフェリーのことがわかりはじめたのは……。
皮肉にも、オフェリーが正妻競争に脱落したあとになってからだ。
ユウの正当性が揺らいだ困難な時期に、手を差し伸べてくれたこと。
多くの人が背を向けたときだけに、とても嬉しかったのである。
自分を見捨てずに気遣ってくれる、優しい姉だと気がついた。
あれだけ嫌なことをしたのにだ。
会ったら今までのことを謝りたい、と思っている。
「はい。
歩くことは出来ませんが……。
軽食ならとれるようになりました」
アレクサンドルは満足気にうなずいた。
「最後にマリー=アンジュの笑顔を見ることが出来た。
私も少し救われた気がするよ」
マリー=アンジュは小さく首を振る。
「叔父さまが、罪の意識を持つ必要はありません。
本当に感謝していますから」
アレクサンドルはマリー=アンジュに祈るポーズをとった。
「マリー=アンジュに神のご加護がありますように。
少しでも長生き出来ることを祈っているよ。
マリー=アンジュは、もっと幸せになっていいはずなのだからね」
マリー=アンジュは力なくほほ笑む。
「あまり将来の期待を持たせないでください。
お姉さまに会えるだけで、私は十分ですから。
叔父さまこそ長生きしてくださいね。
今の教会は、大変なことになっていますから。
叔父さまがいるからこそ、教会が辛うじて生きながらえているのですよ」
「そうだな。
でもマリー=アンジュは、自分のことだけを考えなさい。
いいね?」
マリー=アンジュには決して話さないが、アレクサンドルは自分の余生が長くないことを悟っていた。
病気ではない。
このボロボロになった教会を建てなおすのは、かなり激しい改革が必要になると感じていた。
死を恐れて自分が逃げ出せば、教会そのものがなくなる。
結果として、多くの派閥に分かれてしまう。
そのあと待っているのは、宗派間の争いだ。
他宗派を異端として、血みどろの殺し合いが始まるだろう。
どこが勝っても、教会はかつての規模を保てない。
アレクサンドルが、教会の存続を願ったのは保身ではなかった。
多くの人の拠り所となっていた教会の崩壊は、人間社会の崩壊を意味する。
道徳などの生きる規範を担ってきたのだ。
昔の無秩序状態に戻ってしまう。
聖職者としてそれだけは避けたかった。
なんとか教会内部の争いにおさめる必要がある。
それでも現在の主流派は正当性を失っていた。
非主流派が勝つのは間違いない。
そのとき主流派の象徴として、自分が処刑されるだろう。
そう覚悟を決めていた。
自分が処刑されるときは、他に累が及ばないようにする。
それが最後となる神への奉仕だと信じていたのだ。
◆◇◆◇◆
騒ぎの張本人であるロマンは、ノリノリで歌を披露していた。
王都プルージュを離れて、アラン王国横断ツアーを敢行していたのだ。
観客からの割れんばかりの拍手に、ロマンは汗と油でテカテカした顔に満面の笑みを浮かべた。
当然実態は異なる。
観客はそうしないと命が危ない。
手が痛くなっても拍手を止められなかった。
ロマンが退場したあと、ようやく手の痛みに気がつく有様である。
ロマンはコンサートの際に、最も豪華な屋敷を接収していた。
その屋敷の一室で、満足気に汗を拭いている。
そこに、マリー=アンジュがユートピアを離れた、との一報が届く。
ロマンは相好を崩しつつ、股間を膨らませる。
「ついにロマンの女になると決めたようだね。
これでまたマリーたんをペロペロ出来る。
あの粗暴な使徒も平伏して謝りに来る日も近いな。
トマのやつ……なかなかなかやるじゃないか。
ただ殴られた心の傷はまだ癒えない。
そうだなぁ……。
謝罪にハーレムメンバーを数人もらってやってもいいなぁ」
むくれたロマンに多くの廷臣が下を向く中、トマが使徒の非を明らかにすると進言したのだ。
ロマンはよろこび、トマを送り出す。
そのときの光景を思い出してニヤニヤする。
トマはロマンのような笑みを浮かべて、手揉みをしたのだった。
「教皇王陛下になんの非もありません。
それを明らかにするためにも、コンサートツアーを敢行されてはいかがでしょうか?
使徒さまも、その決意に気圧されて反省するかと思います」
ロマンは品のない笑みだ、と内心思うが口に出さない。
神から祝福されたロマンは、とても寛大だからな。
持って生まれた卑しさは、トマ本人の責任ではない思った。
それより、実に心地よい進言ではないか。
ロマンは我が意を得たりと膝を叩いて、コンサートツアーに出掛けたのであった。
だがロマンにとっての異変はゆっくりだが、確実におこりはじめた。
◆◇◆◇◆
ロマンの随行員たちにある急報が届けられた。
次の街でコンサートの準備に入ったのだが、彼らの人数が徐々に減りはじめたのだ。
それをロマンに伝える者はいなかった。
ロマンにとって不都合な報告をした場合、処罰されることが殆どだからだ。
目端の利く者は逃亡を選ぶ。
300人を超える随行員なので、多少減ってもロマンは気がつかない。
だが随行員の減少は、コンサート準備の遅れに直結する。
準備の遅れに不機嫌だったロマンが随行員を咎めると、その者は翌日から姿を消していた。
いつもであれば内々に処刑されるのだが、今回は違う。
逃げ出したのだ。
いつもは冷酷に任務を遂行する処刑人たちが、彼らを見逃したのである。
ロマンが失脚したあと、彼らの親族に
さすがに随行員が100人程度まで減ったときには、もう隠しきれなくなっていた。
誰が報告するか、随行員内で一悶着おこる。
結果として、くじ引きで負けた人物が報告に向かう。
ロマンはそれを聞いたときに、キョトンとしていた。
報告の内容はロマンにとって想像外の内容だった。
使徒がロマンの王位認証を取り消したのだ。
だがロマンが最有力候補だったのは事実。
つまり残った王族には、ロマン未満の人材しか残っていない証拠とも宣言した。
そこでトマ・クララックを、次期王として承認したと。
「馬鹿なことをいうな。
そのようなことは有り得ない。
そもそもトマが使徒を論破したはずだぞ。
使徒は自分の過ちを認めて、マリーたんを追い出したのだろう。
あいつにも世間体があるからな。
ちょっと時間を置いて、マリーたんをロマンの寝室に送ってくるはずだ。
趣向を凝らして、箱に入ったまま送ってくるのさ。
箱を開けると、裸エプロンで恥じらうマリーたんが丸まっているのだ。
んほぉ~マリーたん……たまんねぇ~」
ロマンは鼻息を荒くしつつ、股間を膨らませる。
自分ひとりでないと気がついて、股間にせり上がった山は、蜃気楼のように消えていった。
平伏する随行員を、ロマンは睨む。
「せっかくイイ気分で、コンサートの準備をしているのに……。
ロマンの前に二度と姿を現すな!」
これが、処刑の隠語なのだ。
ところがこの随行員も誰かに逃がされ、命拾いをする。
結果的に早めに逃げ出せたのだ。
実はアタリくじだったかもしれない。
ゼロ距離であの醜態を見たこと……。
それを無視すればだが。
町の有力者は毎日のように、ロマンのご機嫌伺に来ていた。
知らせのあとで、それも途絶えがちになる。
悪いことは続く。
トマからの
それは町中の噂になっており、ロマンにも届く。
偶然ではない。
誰かが、
随行員がロマンの寝室に呼び出される。
呼び出したロマンは、椅子にへたり込んで、頭を抱えていた。
ロマンは随行員の入室に気がついて顔を上げる。
その顔は涙と鼻水でぐちゃぐちゃだ。
足元にはクシャクシャになった書状が落ちている。
「お前、この怪文書を知っているか?
酷いことが書かれている!
噓ばっかりじゃないか!
お前もそう思うだろう?」
知っているかと聞いて、意思の確認など普通なら支離滅裂。
だがロマンの言動では日常茶飯事。
そこを突っ込んではいけない。
ロマンに恥をかかせた、と処刑されてしまう。
随行員は書状を拾い上げる。
彼はロマンに好感情を持っていない。
そもそもロマンに好意を持つ人物はいないのだ。
我慢して近くにいるのは、甘い蜜が吸えるからである。
ロマン花が放つ酷い激臭も、蜜の甘さには我慢出来るのだ。
そしてその蜜は枯れはじめ、おぞましい花は燃えはじめていた。
いつまでも、花に張り付いていたら自分も焼け死ぬ。
そろそろ逃げ出す潮時か、と随行員は内心決断する。
「私は読んでいませんので……。
失礼して拝見いたします」
随行員が内容を知らないと言ったのは、真っ赤の噓だ。
だが目の前でロマンを馬鹿にするチャンスと感じる。
わざと読み上げることにした。
「思いつきで国庫をムダに浪費しつづけ、邪魔になった母を殺すなど、獣にすら劣る。
教皇になっても、なにひとつ有益なことをせず、ただ教会の金を浪費するだけ。
国王としても務めを放棄し、責務は民に押しつける。
そのくせ税金だけは熱心に取り立てるなど、野盗のほうが良心的だ。
密告を推奨した結果、人心を荒廃させ、それが優しい国だとうそぶくのは、狂人すら賢者に思えるだろう。
金になるからと、麻薬を流通させて上前をはね、自分は知らない顔をするのは、犯罪者ですら聖人に思える。
後先を考えずに、怪しい肥料をばら撒いて、一時の豊作の代わりに農地を殺すのは、生きているだけで害をなす存在という他ない。
揚げ句に使徒ハーレムの女性を、暴行まで至るなど、性欲の怪物だ。
そんな惨状でもコンサートなどに、うつつを抜かすのは、王どころか人にすら値しない醜悪な生き物。
それがロマンという存在。
なるほど……。
たしかに酷い言われようです」
随行員は内心事実じゃないかと嘲笑っていた。
ところがロマンは、強く頭を振る。
「違う! 違う! そうじゃ……そうじゃない! そこじゃないんだ!」
随行員は呆気にとられていた。
すぐに不要と思い、読み飛ばした部分があったことに気がつく。
「ああ……。
意味不明な歌詞と、頓珍漢な曲調。
歌の技法の初歩すら知らない滑稽さ。
下手と評価することが過分な称賛になる。
これが一般人であれば、おおよそ歌手とよべない素人未満の存在……。
上辺だけでも皆が称賛しているのは、処刑が怖いからだ。
命の危険が迫れば、淑女だって強姦魔に
そんな上辺だけの称賛すら、本物と感じる感受性のなさ。
感受性のない芸術家など存在しない。
つまりロマンは芸術家気取りでしかないのだ。
今まで作ったものもクソしかない。
幼児の作品のほうが、遙かに芸術性は優れているだろう。
材料のムダ遣いをして、ゴミを生み出して自己陶酔する。
ロマンが唯一無二なのは、その醜悪な人間性と肛門以外からもクソを生み出すことだけ。
ここのことですか?」
ロマンは随行員にすがりつく。
「そこだよ! ロマンはそんなに歌が下手なのか!?
ロマンの芸術品がクソってなんだよ!
大噓だろ!
素晴らしすぎて誰も理解出来ないんだ!」
笑いたくなるようなロマンの認識に、随行員は呆気にとられるばかりであった。
こんな狂人の元から逃げ出さないといけない。
そんな恐怖に囚われてしまったのだ。
「いえ……。
教皇王陛下は天才です。
あまりに規格外の天才なので……。
下々に、そのすごさがわからないのです」
ロマンは歓喜の顔になって、両手を広げる。
そして興奮しつつ窓を開けた。
「そうだろう! ロマンは天才なのだ!
ロマンに罪があるとすれば、民たちにロマンの才能を理解させること……。
それを怠っただけだ。
ちゃんと教育すべきであった……。
今からでも遅くない。
しかと教育をすれば……。
芸術の才能がないトマより、私が王に相応しいと思いなおすだろう!
そう思わないか?」
同意を求めてロマンが振り向いたとき、その随行員の姿は消えていた。
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