641話 閑話 復讐の武器
ロクサーン・ディアマンディスが襲われた事件直後から、ディスマス・ガラニスに対する噂話が広がりはじめた。
いわく、もともと婚約には乗り気でなかったので、ロクサーンを何者かに襲わせた。
ディスマスの愛人たちが、結婚を阻止するために襲わせた等々。
クレシダ事件のあとだけに、上流階級はこの手の話題に神経を
ロクサーンが発見されたのは、貴族の子女が立ち入らない地域である。
それが、噂を加速させていった。
かくしてディスマス・ガラニスは、社会的信用を大きく失ったのである。
もともと、敵が多い人物だ。
こんなときに過去のスキャンダルは、次々と墓から蘇って襲いかかる。
ガラニス家はその権勢を失い、ディスマスは誰からも相手にされなくなった。
当然ながら、婚約は破棄となる。
ロクサーンは救出されてから、まるで抜け殻のようになってしまった。
言葉すら発しない。
そしてロクサーンの思い人らしいエレボスは、姿をくらましている。
ロクサーンの父であるドメニコス・ディアマンディスは、クレシダ・リカイオスの屋敷を訪れていた。
ロクサーンが最後に訪れた場所だからだ。
そしてクレシダに対して、八つ当たりとも言える怒りをぶつけたのである。
なぜ飛び出すのを止めなかった。
ロクサーンの捜索を手伝わないなど何事だ。
……等々。
クレシダは涼しい顔で煙管を吹かしながら、ドメニコスが息切れするのを待っていた。
喋り疲れたドメニコスが、肩で息をする。
その様子にクレシダは冷笑を浮かべた。
「ディアマンディス卿。
さっきから
ドメニコスの目が血走って怒気に染まる。
「な、なんですと!」
クレシダは冷笑から嘲笑へと表情を変えた。
「夜遅くに訪ねてきた揚げ句、おかしなお願いをされたのよ。
やっぱり親子なのねぇ。
それを断ったら、今のディアマンディス卿のように激高したわね。
そして怒りながら飛び出していったわ」
「それが娘を見捨てる理由になるのですか!」
クレシダはおどけた顔で肩をすくめる。
「飛び出しても馬車に戻ると思ったわ。
だから止めなかったのよ。
気がついた時点で御者には伝えたわ。
それに私の屋敷は使用人が多くないのよ。
なり手がいないのは知っているでしょ。
私の身を危険に
「だ、だからといって……」
クレシダは冷ややかな目をしつつ、鼻で笑う。
「もし、私の屋敷を手薄にして……。
賊に襲われたら、責任を取ってくれるの?
ディアマンディス家程度が取れるのかしらね。
あの賊は、神出鬼没との噂よ。
ここに来てもおかしくないもの。
私はなんと言っても、あの襲撃での生き残りよ。
狙われる可能性はゼロではないでしょ?」
「ならば……警護の者を増やせばいいではありませんか」
クレシダはあきれた顔で肩をすくめた。
「今の人数で足りているもの。
こんな予期しないケースのためだけに、人を増やせるの?
私がロクサーンを呼んだわけじゃないわ。
ロクサーンが押しかけてきたのよ?」
なんとか食い下がろうと、ドメニコスは必死の形相だ。
クレシダに法的責任がないのは承知している。
道義的責任ならば責められると思った。
誰かを責めないと憤りで、自分自身がどうにかなりそうだったからだ。
「そ、それは……」
「ディアマンディス卿に会ったのは、謝罪をしにきたかと思ったからよ。
娘が迷惑をかけて申し訳ないってね。
それが私を非難するとはねぇ。
感謝されこそすれ……非難される言われはないわ」
普通であれば少しは申し訳ないそぶりを見せる。
ところがクレシダは、まったく悪びれない。
道義的責任など昔から歯牙にもかけないことは、周知の事実だ。
だがこの前の襲撃でしおらしくなったとの噂を聞いていた。
クレシダは自分と同じような目にあったロクサーンに対して、罪悪感をもつだろう。
そう期待して乗り込んだのである。
それはただの噂にすぎないと、ドメニコスは悟らされた。
クレシダはどんなことがあってもクレシダなのだと。
それでもこの言葉には、我慢がならなかった。
椅子から立ち上がって、クレシダを睨みつける。
「な、なにを感謝するというのですか!」
「だってロクサーンが訪ねてきた理由。
これがひどいのよ。
ディスマスとの結婚は嫌だから、ディスマスを無実の罪で陥れてほしい……だもの。
私がディスマスに襲われたと騒げばいいってね。
そうやって冤罪をなすりつけてほしかったみたい。
一度襲われたんだから、もう一回襲われてもいいと思ったのかしら。
ホント、誰に似たのかしらねぇ……。
卑怯にも、自分は何一つ失わず、本命と結婚したいようだったわ」
予想外の話を聞かされて、ドメニコスは力なく椅子にへたり込む。
道義的責任を追及するどころではなくなったのだ。
「な……なんですと」
クレシダは肩をゆらして笑う。
「そんな陰謀に荷担しろとでもいうのかしら。
そんな義理が私にあって?」
ここでクレシダの正しさを認め、謝罪することなど、ドメニコスにはできなかった。
むなしい抵抗を続けようとしてしまう。
「言い方に問題があったのでは……」
クレシダは大きなため息をつく。
「はあ……。
そんなおかしな話をする人に、優しく諭しても無意味よ。
それこそ勝手に共謀したと……でっちあげられでもしたらかなわないもの。
危険な秘密を明かした相手が協力しない場合、どうするのかしらね。
おわかりでしょ?」
このクレシダの理論はよくわかる。
それだけにドメニコスは攻め手を失い、力なく
「まさか娘に限って……」
クレシダは口からフッと煙を吐き出す。
「この親にして、この娘ありねぇ。
娘は私を犠牲に……馬鹿げた陰謀を企む。
父親はなぜか……私の責任を追及しに乗り込んでくる。
親娘そろっておめでたいこと。
ディアマンディス卿にとって、可愛い娘で信じたいでしょうけど。
私にとってはただの他人よ。
ディアマンディス卿なら、他人からそんな話を持ちかけられたら、優しく諭して説得を試みるのかしらね。
それとも大いなる慈愛の精神で陰謀に荷担するの?
リスクしかないのに家の存亡をかけるのかしらねぇ」
馬鹿にされても激高する余裕などなくなっていた。
娘がそんなことを企んでいるとは、夢にも思わなかったのである。
ドメニコスは、クレシダの言葉を馬鹿げた妄言、と片付けられなかった。
否定する材料は『ロクサーンはそんなことをしない』という認識しかないのだ。
「そ、それは……」
「突っぱねるか……。
どこかに突き出すでしょ。
突き出さないだけ感謝してほしいものだわ。
つまりディアマンディス卿は、自分がしないことを私に要求しているのね。
一体ディアマンディス卿は……私のなんなのかしら?」
ドメニコスは現時点で敗北を悟った。
そして怒りのあまりクレシダを追求したことが、あまりにマズい手であったと痛感する。
普段ならそんな愚かな行為はしない。
溺愛する娘の惨状が、この男に我を忘れさせたのである。
「ほ、本当に娘はそんな愚かなことを……。
まさか他に男などと……」
クレシダは箱から、ロクサーンが差し出したネックレスを取り出す。
ドメニコスはそれがロクサーンのものだとすぐにわかった。
「この母から受け継いだネックレスが報酬。
どうか手伝ってくれって言われたのよ?
なんでもするとも言っていたわ」
立て続けの衝撃にドメニコスは思考すらままならない。
力なく頭を振るだけである。
「む、娘が自主的に? とても大事にしていたのです。
そこまで思い詰めていたのですか……。
これを手放すなど……」
クレシダはネックレスを、ドメニコスに差し出す。
「断ったらこれを置いたまま飛び出すんだもの。
返しておくわ。
心が壊れてしまったようだし、これをつければ少しは回復に向かうかもしれないわね。
回復したらロクサーンに詳しい事情を聞けばいいわ。
もしくは強引に、記憶をのぞくかよ」
ドメニコスは、強く頭を振った。
強引に記憶をのぞくことはできる。
だが今のロクサーンに、それを強いると取り返しがつかないことになりかねない。
「あれは心身に大きな負担がかかります。
今やると、廃人になりかねません。
回復を待つしか……」
クレシダは苦笑して、肩をすくめる。
「回復すればいいわね。
そうしたらあの子のせいで、私は言い掛かりをつけられた……と文句が言えるわ」
「ほ、本当に娘はそんなことを……」
クレシダは鋭い目つきで、ドメニコスをにらむ。
「くどいわね。
信じる信じないはディアマンディス卿の自由よ。
でもディアマンディス卿に逆恨みされた揚げ句、命を狙われると怖いわね……。
叔父さまに相談しようかしら」
リカイオス卿に相談などされたら、ディアマンディス家など簡単に吹き飛んでしまう。
ドメニコスは顔面
「お、お待ちを!
数々の非礼、平におわびいたします。
娘の企みを知らなかったもので……」
クレシダは口の端をゆがめる。
すぐに、フンと鼻で笑った。
「はたしてディアマンディス卿は、自分が非礼な仕打ちを受けたとき……。
知らなければ
まあ……いいわ。
可愛そうなロクサーンに免じて、私の心だけに留めておくことにするわね。
それよりもっと心配なことはないの?」
「な、なにをですか」
クレシダは楽しそうに気持ち身を乗り出す。
「ロクサーンがこの前の事件で身籠もっていたらどうするの?」
ドメニコスは考えたくない現実を突きつけられ、取り乱してしまう。
「そ、その場合は子供を含め、修道院にでも……」
「いいのかしら?
後々お家騒動の元になるわよ。
教会だから、野心はないと勘違いしないことね。
むしろ今は生きるために必死よ。
世俗の実利を血眼になって追いかけているでしょ?」
ドメニコスはクレシダの言わんとするところを悟ってしまった。
いっそロクサーンを殺してしまえと。
そうすれば、家は守られる。
「いくらなんでも……。
そこまでは……」
クレシダは苦笑して肩をすくめる。
「あら御免なさい。
余計な口を挟んだわね。
それにしても……相手の男はひどいわねぇ。
失敗したら知らんぷりだもの。
ロクサーンが可愛そうだわ」
ドメニコスは、目の前に光が差した錯覚を覚える。
責められるべき人物がいるではないかと。
いまにも飛びかからんばかりの勢いで、身を乗り出した。
「その男のことを、なにかご存じでないでしょうか」
クレシダは少しバツの悪い顔で、肩をすくめた。
「ロクサーンが言葉を濁したからわからないわ。
そこまでして守りたいなんてねぇ。
どうやら愛ではなかったようね。
都合が悪くなったら捨てるんですもの。
うたかたの恋だったようね」
ドメニコスの目に怒りが再びともった。
「娘を
必ず報いを受けさせます。
娘のことは、そのあとで考えましょう」
その夜、ディアマンディスの屋敷が大火事に見舞われた。
ロクサーンと当主のドメニコス・ディアマンディスが焼死してしまったのだ。
炎の中からロクサーンの笑い声が聞こえたとも噂されたが、真相は闇の中である。
ガラニス家の関係者を火事のときに見かけた……と噂が広まった。
もともと険悪になっていた両家の関係は、敵対にまで及ぶ。
ドメニコス・ディアマンディスは死んだが、ディアマンディスの一族は他にも大勢いるのだ。
それはガラニス家も同様であった。
当然ながら、両家の争いが血で血を洗うものにエスカレートする。
クリスティアス・リカイオスが、頭を抱える羽目になったのはいうまでもない。
◆◇◆◇◆
ある日の深夜、クレシダの屋敷を訪れた男がいた。
クレシダは客人にほほ笑みかける。
「あらエレボス。
久しぶりね」
客人は話題のエレボス・レヴィディスであった。
「クレシダさま。
お久しぶりです。
このたびのご尽力に感謝いたします」
「これでエレボスの願いはかなったかしら?」
「はい。
これで父と母も浮かばれます」
「それなら結構よ。
私も悪事を働いて、リスクを受け入れない連中は嫌いだからね」
エレボスの母パメラは若い頃、ディスマスに弄ばれて……捨てられた過去がある。
父クラトス・レヴィディスも若い頃、ドメニコスの妻ラミアにほとんどの財産をだまし取られた。
そして用済みとばかりに捨てられたのだ。
ラミアに暴力行為をでっちあげられ、社会的に抹殺されるというおまけつきで。
むしろクラトスは、日頃ラミアにものを投げつけられるなどしていたのだが……。
両親を結びつけたのは、そんなだまされた者同士に刻まれた心の傷である。
そんなふたりは健康を害しており、先は長くなかった。
意識が
息子エレボスは両親のそんな恨みを、存分に吸い込んで成長していた。
心の奥に燃える暗い炎が、表情に影となって現れる。
影のある美男子として、評判になっていた。
何も非がない両親は苦痛を受けた。
だました連中はのうのうと生きている。
エレボス自身はそんな不条理に絶望していた。
そんなときに、手足となる人物を探しているクレシダと出会ったのである。
クレシダは同情など一切見せずに、取引を持ちかけてきた。
それがエレボスにとってとても嬉しかったのである。
クレシダの評判は散々だが、エレボスにとってどうでもよかった。
それからクレシダは、エレボスの
クレシダの指示どおり、エレボスは本心を隠しロクサーンに接近する。
もともと婚約に乗り気でなかったロクサーンは、たちまち優しく情熱的なエレボスの虜になる。
そんなロクサーンに、クレシダを頼るように示唆したのはエレボスである。
幼き頃から抱えてきた
「これからはクレシダさまのために、この命をお使いください」
クレシダは、ニッコリとほほ笑む。
「ええ。
期待しているわ」
「一つだけ気になるのですが……」
クレシダは妖しくほほ笑む。
「なにかしら?」
「ディアマンディスの屋敷に、火事をよく起こせましたね」
クレシダは悪戯っぽくウインクした。
「あのロクサーンのネックレスには、魔法がかけてあるのよ。
それを渡すディアマンディス卿にわずかでも殺意があれば、それを媒介に発動するわ。
エレボスは不服でしょうけど……。
一度だけ助かるチャンスをあげたくなったのよ。
あの滑稽さに免じてね。
ロクサーンが触れると、すべてを焼き尽くす衝動に支配されるの。
とても強力な魔法が念じるだけで使えるようになるわ。
代わりに自分の命を削るけどね。
どうかしら? とってもすてきだと思わない?」
エレボスは感動も露わにうなずいた。
「不服などありません。
ヤツが我が身可愛さに殺意をもつのは当然ですから。
それより、そこまで配慮していただけたことに……感謝の言葉もありません」
ロクサーンのネックレスは、もともとパメラの宝物であった。
代々親から受け継いでいたが、ディスマス・ガラニスにだまし取られたのであった。
ラミアに戦利品としてプレゼントし、ラミアから娘のロクサーンに受け継がれたのである。
それを、
「このくらい当然よ。
ネックレスは溶けて跡形もなくなるわ。
そして誰もこれを知ることはないの。
スッキリしたところで……。
さっそく働いてもらっていいかしら?」
「いかなるご命令でも従います。
死ぬと
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