2−4
加那と満は両親が帰宅する前にマンションへと戻った。
そこで、もう一度満にはウサギの姿になってもらう。
帰宅した加那の両親は冷戦状態だった。すれ違っても挨拶どころか目線さえ交わさない。
加那は母親を呼び止めた。
「ねえ、ウサギなんだけど」
母親がああ、といった顔をする。
「家で飼うことにしたするけど、良いよね」
加那は言い切り、母親が言葉に詰まった。そして眉を寄せ、途端に叱る口調になった。
「何言ってるの。飼い主が見つかるまでって言ってたじゃない。今、家の中がこんな状態なのに」
加那は最後の言葉にムッとした。
部屋に居る満に聞こえないようにと声を低め、怒りを込めて反論する。
「こんな状態って何? 私には関係ないことじゃない。お母さんたちが勝手にしてることじゃない!」
母親は加那の剣幕に驚いたのか、目を見開いた。
「お母さんたちのことは私には関係ない。だから、私だって勝手にする。餌も世話も私がするから。文句は言わせない」
「加那!」
加那は踵を返すと自身の部屋へ向かって廊下を歩いた。
母親の声が追いかけてきたが無視する。
「加那さん……」
床の上で、心配そうに満が長い耳を伏せていた。
「大丈夫。大丈夫だから」
加那は座り込んだ。荒れた感情を抑えようとしてドスンと床へと座り込む。
そっと満が近寄ってきた。
「……ごめんね」
加那は断って、満を抱き寄せた。柔らかで、良い匂いのする生き物。首筋に顔をうずめてぎゅっと抱く。
満は何も言わず、加那におとなしく抱かれていた。
「もう大丈夫」
加那はへへっと満を床の上に戻した。
準備していた細切りの人参を見せると、満は喜んで口に運ぶ。
ベッドへ座り、満を机に乗せるとそこで満に尋ねられた。
「加那さん、イエという言葉を聞いたことはないですか?」
「家のこと?」
加那は天井を指差す。
「いいえ。『居』と『衣』でイエです」
細く棒状に切った人参を両手で掴み、ぽりぽりと齧りながら満が答えた。
漢字を教えてくれるときだけ、器用に前足が動くのが面白い。つい加那はその茶色い手を指先でちょいちょいと触ってしまう。
「……ちょっと照れくさいですね」
ウサギが答えるので、加那は笑って手を離した。
「僕たち被人にとってとても重要なものなんです。ご存知ないですか?」
満は食べ終えると、前足を揃えておすわりの姿勢で加那を見上げた。
「『居衣』……何か、見た気がする」
加那は思い出した。
「そうだ! アプリ!」
「アプリ?」
聞いた満のほうが不思議そうな声を出す。加那は立ち上がり通学のバッグからスマホを取り出すと、『居衣』と書かれたアイコンを満に見せる。
「これじゃない?」
加那は満に顔を近寄せてスマホの画面を眺める。
ウサギ姿の満がきゅっと前足を縮めて食い入るように画面を見つめた。
「僕が思ってたのはノートのような、もしくは巻物のようなもの……だったんですけど。確かに、『居衣』ですね。開いてもらって良いですか?」
「開いても良いけど、何もないよ? 真っ白のメモ帳」
「それで良いです、開いてください」
ウサギが真剣な面持ちで加那に向かって頷いた。
言われたとおりに、加那はアプリを開いた。画面は前回と同じ真っ白で、カーソルも変わらずに左上にある。
「これ、何も書き込めないんだよね」
加那は言いながら『あ』と入力する。
「あれ……できた」
青い文字で左上に『あ』と入力がされていた。アンダーバーがまだ入力決定していないことを示している。
「良かった……」
見守っていた満が安堵の溜息をついた。加那は顔を覗き込み首を傾げ、満へとスマホの画面を見せて尋ねる。
「これにどういった意味があるの?」
「僕たちと加那さん……主人と被人を結ぶ契約書の役割を果たします」
「契約書?」
自身には聞き慣れない言葉に、加那は眉を寄せる。満が前足でちょいちょいと画面に触れた。
「簡単ですよ。そこに僕の名前を記入していただければ、契約完了です。それで名実ともに加那さんは僕のご主人様です」
加那はアプリを改めて見た。こんな簡単なもので、と不思議に思う。
「へえ……前のご主人もこんなアプリを使っていたの?」
「いえ、ノートを持ってらっしゃいました。多分……加那さんに合わせて『居衣』自身が姿を変えたのだと思います。『居衣』は当主のもとに自然と現れると前のご主人はおしゃっていましたから」
満が背筋を伸ばすようにして、机の上で後ろ足で立ち上がる。ベッドへ座る加那と目線を合わせて黒い瞳でじっと加那を見つめる。
「加那さん。僕のご主人になってください」
「え」
「僕の名前をアプリに入力して下さい。それで、契約完了です」
「これで、満さんと契約するとどうなるの?」
「僕のご主人様が加那さんになります。僕は居衣に登録されている間、僕は加那さんの側で加那さんを守ります」
「……もし、契約しなければ?」
「次第に、精神をまともに保っていられなくなります。狂うと僕らは言っていますが……人間の姿を保っていられなくなったり、中には人間を襲ってしまうことも。自死に至るケースもあるそうです」
「そんな。満さんが苦しむのは嫌だよ。けど」
加那は言葉を濁した。
まだ頭がついていかない。被人と呼ばれる不思議な生き物。突如現れた満。居衣と呼ばれる契約書に、守るという満の言葉。
どれも信じがたく、けれど現実として目の前にある。
「分かった。満さんを登録する」
加那は満の目を見てそう言った。
満は目を輝かせた。
「加那さん!」
加那はアプリの一番上に『神功満』と満の名前を入力した。決定ボタンをタップする。
ふわりと優しい花の香りが満から強く香った。
「ありがとうございます!」
満が加那の前に頭を下げていた。
加那は小さく笑って、よろしくねと満の頭を優しく撫でた。
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