第90話 帝都の闇
――現皇帝、アウムラド四世には一人娘がいる。
名はル・ミク皇女。
彼女には悩みがあった。
それは自分の婚約相手のこと。
彼女にとってそれは単なる個人レベルの悩みではなく、世界に関わるものだった。
――しかし、誰もそのことを理解してくる者がいない。
だがル・ミクはため息を吐くことさえなかった。何故なら彼女はもう色々と諦めてしまっているから。
父にとって自分は単なる政治の道具に過ぎない。
――ル・ミクは僅か十三歳にして帝国一の美女と詠われている。
だからこそ、皇女である上に見目麗しい彼女との婚姻話は後が絶たない。
つまり、父にしてみればこれ以上ないほどの政治的カードなのである。それこそがル・ミクの立場だった。
ル・ミクは幼少期からずっとそのように育てられてきた。より良い婚姻相手を得るため、殿方を喜ばせる術だけを学ばされた。
また、彼女自身、それが帝国のためになるならと自分に言い聞かせてきた。そのためなら父を含めた殿方を喜ばせる人形でいようと、色々と諦めていた。
――だが、それが世界に闇を覆う事態となれば話は別だ。
現在、ル・ミクには既に婚姻相手が決まっている。
四大公爵の一人、キーン公爵の嫡男であるアイシィ・レイ・キーン。彼こそが彼女の未来の夫である。
――しかし、そのアイシィ・レイ・キーンこそが世界を覆い尽くす闇そのものだった。
そして、それを理解しているのはこの帝国でル・ミク一人しかいない。
――彼女には不思議な力があった。
それは一目で相手の本質を見抜いてしまうという、極めて異質な能力。
聡明だった彼女は、その能力が極めて異質であることを幼少期の内に自覚し、誰にも言わないように努めてきた。
――だが、それが今ここに来て仇となっている。
何故なら、どれだけ自分が「アイシィ・レイ・キーンは危険な人物である」と言ったところで、ただ単に「婚姻が嫌で我儘を言っている姫君」としか見てもらえないからだ。
また、アイシィ・レイ・キーンは表向き、すこぶる評判が良い人物である。それが単なる建前であることに気付いているのは皮肉なことに彼女しかいない。
ずっと人形でいたことも向かい風になっていた。単なる操り人形に過ぎない彼女の言葉を真摯に受け止めてくれる者は誰もいない。
――そう、自分の父親でさえも。
「またその話か。いい加減にしろ」
父の冷たい視線がル・ミクを射抜く。
それはけして娘を慈しむ目ではなかった。
そう、結局、皇帝である彼にとって自分は単なる道具しかないのだ。
ようやっと面会が叶ったところで、そのことを痛感させられるだけだった。
「分かっておるのか? そなたの婚姻はこの帝国の行く末を決める一大事なのだということを。そなたも皇族ならば、いい加減そのことを自覚せよ」
だからこそ忠言しているというのに……。
そう思い、ル・ミクは口を開く。
「しかし、父上様……」
「くどいル・ミク。あまりにも聞き分けがないのなら、独房に入ってもらうことになるぞ」
それは娘にかける言葉としてはあんまりなセリフだった。
自分は帝国を……如いては世界を想って忠言しているというのに、その見返りが独房とは……。
ル・ミクの心に、いつものように諦観の念が広がっていく。
「………」
そして、いつものように何も喋らなくなった。
「話は終わりか? ならばさっさと出て行くがよい。余は忙しいのじゃ」
そう言って彼は侍らせていた側室の女に手を伸ばす。実の娘の前であるにも関わらず、だ。
正室であった彼女の母親はとうにこの世を去っている。つまり目の前の女はル・ミクにとって単なる父の愛人でしかない。
――それが分かっていても、どうなるものでもないのだが……。
そして、とっくに何かを思うことも、何かを感じることも放棄してしまっている。
結局、ル・ミクは黙って父の執務室を後にした。
**************************************
ル・ミクが歩いていると、誰も彼もが道を空け、跪く。
――だというのに、どうして誰も自分の言葉に耳を傾けてくれないのか?
もはや感覚が鈍った心で、しかし、単純に不思議に思うル・ミク。
そんな彼女に、唯一声を掛けてきた者がいた。
「これはこれは、ル・ミク様。ご機嫌麗しゅう」
それは自分の夫となる男、アイシィ・レイ・キーンだった。
ル・ミクは足を止めるものの、何も答えない。
――このような男と一体何を喋れというのか?
「相変わらずつれないのですね」
アイシィは苦笑する。その姿を見て、ル・ミクの侍女たちが恍惚のため息を吐いていた。
アイシィは帝国を代表する美男子。その上、物腰優しく、最近巷で噂になっている「帝都六英才」に数えられるほど能力は極めて高い。
その一挙手一投足が女性を靡かせた。
――しかし、それは全て表向きであることを知っているのはル・ミクだけ。
アイシィがル・ミクに近付き、耳打ちする。
「また、私との婚姻を取りやめるよう、お父上君に上申されていたのですか?」
その目はゾッとするほど冷たかった。先程までの優しげな瞳はどこにもない。その目が見えるのは、間近にいるル・ミクであることを計算した上でのことだ。
「無駄ですよ。王は私のことを心底信頼しておられる。そう、実の子であるあなたよりもね」
皮肉なことにその通りであることをル・ミクは知っている。
「俺は欲しい物は全て手に入れる。この国も、ル・ミク皇女、お前もな」
その言葉は、彼の目は、欲に塗れていた。
「おっと、いけない。どこで誰が見ているか分からない。素の自分は隠しておかない、ね」
アイシィは離れ際に言ってくる。
「いずれたっぷりと可愛がってやるよ。主に夜の時に、な」
最後に嘗め回すような視線を向けてから、アイシィの顔は離れていく。その顔は既にいつもの優男に戻っていた。
「ではル・ミク様。いずれまた、学園で」
アイシィは颯爽と去って行く。その様子をまた侍女たちがうっとりした目で見つめていた。そして、羨ましそうな目でル・ミクを見てくる。
……そんなに羨ましいなら、いつでも立場を代わってあげるのに……。
もはや何も感じない心で、単純にそう思うル・ミクだった。
――そう、何も考えない方が楽だ。
全部、流れに身を任せよう。
アイシィが欲を向けて来るなら、何も考えずそれを受ければよい。
そうだ。自分は人形なのだから……。
自分が――世界がマイナスに傾いていく。
このうねりは誰にも止められない……。
この時のル・ミクはそう考えていた。
エイビーに出会うまでは――
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます