人狼記

武市真廣

人狼記



『正直者やお人好しは損をする』

 母親は少年にいつもそう言い聞かせていた。学校で教わることと真逆のことを言う母を少年はいつも怪しく思っていた。

 少年は勝負事が苦手で勝った試しがなかった。例えば学校で徒競走をしてもいつも最下位だった。学校の成績だって良い方ではない。彼の親はいつも彼と年上の兄とを比べ、不出来な弟ばかりを責めた。同時に周囲の子どもたちも少年をいじめた。

 言うまでもなく少年は人間そのものが嫌いになっていった。朝目を覚まして朝食を取るとすぐに家を出た。鬱陶しい親や兄と顔を合わせるのが耐え難い苦痛だったからである。家を出て街も出た。そして山に入って日が暮れる前に家に戻ってきた。少年はそういう生活を繰り返すようになっていった。家族は少年がそんな生活をしているなんて知らなかった。興味すら持たなかったのだ。

『家族などというものは学校が言うほどに上等なものじゃない。同様に人間の愛などというのも所詮は幻に過ぎない』

 彼は人間同士の『愛』が信じられなかったのだ。


 ある日、いつものように家を出た彼は山に向かった。街中を素早く走り抜ける。そうすることで嫌な『人間』を見なくて済むからだ。空は蒼く澄み渡り、街を囲む城壁の陰鬱な灰色と対照的だった。空の色は自由の色、城壁の色は閉鎖性の象徴だと少年はいつも思っていた。

 城壁の外、歩くことしばらくして山に入る。日当たりと風当たりの良い、お気に入りの場所があった。少年はそこに横たわると空をぼんやりと眺めながら過ごした。学校がある日を除けばそれが彼の一日の過ごし方だった。

『俺はどうして人間として生まれてきたのか』

 少年は毎日そんなことを考えていた。

『人間なんて生き物はロクでもないぞ。これなら鳥の方がよっぽど自由じゃないか』

 空を飛ぶ鳥の群れに向かって少年は手を伸ばした。だが決して届かない。

『もういっそ崖の上から飛び降りてしまおうか』

 すると突然、黒雲が立ち込め、強い風が吹き、激しい雨が地面を打ち始めた。雷のゴロゴロという音が聞こえ出したので少年は急いで家に帰ろうと思った。次の瞬間、頭上で空を劈くような鋭い光が瞬き、遅れて雷鳴が響いた。おっかないと思って全速力で山を下りる少年を雨は容赦なく打った。強い風は少年の背中を押すように吹き付けた。彼は転がるように山を下りた。そのまま走り続けて家に辿り着いた。


 この一件以来、少年は山に行くことを止めた。

『自然を怒らせてはならない。俺は拒絶されたのだ』

 自然への恐れを抱くと同時に悲しくもあった。

『俺は人間の世界で生きていかないといけないのか』

 相変わらず少年は親に疎まれ、同じ子供からいじめられた。

『人間の世界が残酷なのは、俺のような弱い存在をすぐに殺してしまわないことだ。弱肉強食の世界ならすぐにでも自分は殺されてしまうだろう。だがその方が幸せなのだ。ダラダラと長く生きるよりは』

 少年はそう思って天を恨んだ。

『どうして人間として生まれてきたのだろう』

 そして何度もそう繰り返した。


 街で殺人事件が増えだしたのはそれから数日してからのことである。殺された住民は、いずれも何者かに食い千切られたように体の一部分を欠損していた。ある者は腕を、ある者は脚を、そしてある者は頭部がなかった。この猟奇殺人に住人たちは怯えた。街中の家が昼間でも窓を閉め切るようになった。子供たちは極力外に出ないようになった。少年の家庭もまたその例に漏れず、子供たちの外出を禁じた。

『馬鹿な連中だ。こんなことをしたって意味などないのに』

 少年は内心で嘲った。

 そうしてまた数日が経った。犠牲者は依然減らず、とうとう一家が全滅した家も現れた。無残にも子供すら八つ裂きにされて殺されていた。

 ここに至って住人たちは狂気に駆られた。犯人捜しを始めたのである。怪しいと思った人間を見つけ出して激しいリンチの末に吊るし上げた。昨日リンチに加わった者が次の日には吊るし上げの対象となった。それでも犠牲者は日ごとに増え続けた。一人また一人、住人が死んでいく。不毛な犯人捜しは実を結ばず、住人は減り続けた。

 少年の親も犯人捜しに加担した。今まで親しくしていた近所の誰某が怪しいと両親が話し合うの聞いて少年はうんざりした。

『やはり人間は愚かだ』

 そして、とうとう少年の兄が告発された。兄は必死に無罪を訴えたが誰も聞く耳を持たなかった。庇い立てすれば自分までもが疑われてしまう。両親は息子である少年の兄を見捨てた。兄は火炙りにされて殺されてしまった。

 少年は絶望した。

『このままでは遅かれ早かれ自分も殺されてしまうだろう。そうなるくらいならいっそ山の中で自分で死んだ方が遥かにマシだ』

 少年は深夜ひっそりと家を抜け出した。物音を立てないで城壁の外へ一直線に走った。住人たちが寝静まった夜。月は雲に覆われていた。真っ暗な道を少年は走り続けた。激しく呼吸するのを自分でも感じた。だが不思議と疲れはなかった。不思議と体は軽かった。自分を縛り付けるものはもう何もない。気を遣うことも優劣をつけられることも見下されることもない。その自由が自分の体をいつになく軽くしているのだと少年は嬉しく思った。


 山中に入った時、少年はようやく自分の体に起きた異変に気が付いた。

『自分は一体いつから四本足になった? 俺の手は?』

 少年はいつしか両手を地面に突いて四つん這いになって走っていた。

『この手は……?』

 自分の両手は狼の足先と同じになっていた。

『この腕は……脚は……?』

 自分の両腕と両足は狼のように灰色の毛で覆われていた。

 少年は自分の手で顔を触ってみた。いや前足と言うのが正しいだろう。右の前足で顔に触れた時、少年は自分がもう人間でないことを確信した。

『長い鼻、そしてこの耳!』

 その時だった。雲に隠れていた月が僅かに顔を出した。月明りが差して少年は近くを流れる川に近寄った。水面に映る自分の顔は紛れもなく『狼』だった。

 走り疲れた少年はそのまま顔を突っ込んでがぶがぶと水を飲んだ。冷たい川の水が渇いた体に潤いを与えて癒していくのを感じた。

 水を飲み終えて顔を上げた時、少年はもう人間ではなくなっていた。


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人狼記 武市真廣 @MiyazawaMahiro

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