第94話 恩師のためにも

 今年も寒く厳しい冬が終わりを迎えようとしていた。

 しかし、今日は寒の戻りともいうべき寒さで、時折小雪が舞う天気となった。

 僕たちでさえ幹の芯まで冷える寒い夜なのに、剛介はいつものように竹刀を片手に公園の中に出てきた。今日はさすがにダウンジャケットを羽織ってきたが、こんな日でも練習を欠かさない剛介の根性は本当に大したものだ。

 しばらくすると、公園の向こう側から竹刀を持ったシュウが姿を見せた。そして、その隣には車椅子に乗った隆也の姿があった。

 数か月前に剛介の前に再び姿を見せて以来、毎回ではないものの、隆也は練習に顔を出すようになった。あの夜は一人で登場したが、その後はさすがに一人で行かせられないと判断したのか、必ずシュウが同伴するようになった。


「こんばんは、剛介。今日は雪も降って寒いから、できるだけ早く上がるよう、気合入れて練習するぞ!」

「お願いします、シュウさん」

「おい剛介、俺は?こないだも言ったけど、シュウばっかり見てるなよ」

「は、はい。隆也さん」


 隆也は頬杖しながら不機嫌そうに剛介を見つめていた。その隣で、シュウは苦笑いしながら剣道の面を頭からかぶり、紐で頭の後ろを結わいていた。


「さ、今日は俺が面をかぶるから、面に正確に竹刀を当てる練習をするぞ。簡単に面に当てさせないよう体も竹刀も動かすから、ちゃんと狙い打ちしないとだめだぞ」


 シュウは竹刀を握りながら身体を左右に動かし、同時に、剛介に的を絞らせないよう竹刀を小刻みに揺らしていた。剛介は目の前にシュウがいるにもかかわらず、簡単に面を打たせてもらえなかった。


「おいおい剛介、お前のすぐ前にシュウがいるんだぞ。何ボケっとしてるんだよ」


 隆也は時折声を荒げては、辛辣な言葉を剛介に投げかけていた。


『隆也、練習相手もせず脇からダメ出ししてるだけじゃないか。ハッキリ言って邪魔だよな』


『でもさ、隆也さんの顔、病気でやせこけてるけど、すごく充実感があって嬉しそうに感じるの。私だけかな?』


 ミルクは隆也のすぐ近くに立っているので、隆也の表情を細やかに見ていた。

 僕も、少し遠目ではあるが、ミルクと同じような印象を受けていた。

 その時、剛介の「メーン!」という声とともに、竹刀が見事にシュウのかぶった面に命中した音が響いた。


「やったあ!やればできるじゃねえか、剛介……ゴホッ、ゴホッ」


 興奮のあまり隆也は大声を上げて喜んだが、あまりにも興奮しすぎたせいか、息が苦しくなりせき込み始めた。


「親父さあ、もう昔と同じ身体じゃないんだから、無理やり大声上げたりしちゃいけないんだぞ」

「う、うるさい、嬉しい時に喜んじゃいけないのかよ?」

「そう言う意味じゃないよ、心配になるだろ?」


 シュウは隆也の背中をさすりながら、顔をしかめていた。

 その姿を、剛介は遠くから心配そうに眺めていた。


「あの……隆也さん、本当に、大丈夫なんですか?」

「バカ言うな、今のはちょっと興奮しすぎてむせっただけだ。この位で俺を重病人扱いするなよ」

「はい。でも……何だかすごく苦しそう」


 すると、シュウはいたずらっぽく笑いながら剛介の方に歩み寄り、背後からそっと手を回した。


「なあ剛介、親父のためにも春の市大会は優勝を目指そうな」

「え?え?ちょ、ちょっと……!」


 シュウからの突然の言葉に剛介は身体が硬直した。


「ほう。剛介、俺のために?」

「無理ですよ。去年だってベスト8がやっとだったんだもん」


 慌てふためく剛介を見つめながら、隆也は目を細めて口を大きく開き、満面の笑顔を浮かべた。

 隆也が久しぶりに見せてくれた満面の笑みを見て、剛介は何も言い返せなかった。

 隆也は剛介の元へと車椅子で近づくと、細い手をそっと目の前に差し出した。


「剛介、一緒に優勝目指そうな。期待しているぞ」

「は……はい」


 剛介は震えた声で隆也の手を握りしめていた。


「さ、今夜はもう寒いし、家に帰って寝ようか、親父」


 そう言うと、シュウは隆也の車椅子を押しながら自宅へと戻っていった。

 剛介はあっけにとられた表情で、僕の前でへたり込むように地面の上に膝から崩れ落ちた。


『あーあ、ダメじゃん、剛介。隆也さん、あの笑顔はプレッシャー以外の何物でもないよ?かえって剛介は力を出せなくなるんじゃないか?』


 苗木達は、突然剛介にかけられた重圧を心配していた。

 しばらくすると、シュウが再び公園の中へと駆け足で戻ってきた。


「あれ?シュウさん。どうしたんですか?隆也さんは?」

「親父はもう寝る時間だから、家に連れて行ったんだ。それより大丈夫か?何だか顔色悪そうだぞ、剛介」


 シュウは僕の下でへたり込んでいる剛介の隣に座ると、腕を回してそっと抱きしめた。


「シュウさん、僕……優勝なんて無理だよ、出来ないよ」

「剛介、もちろんお前の気持ちはわかる。でも、俺はいつも言ってるだろ?高い所に目的を持っていこうって。ベスト8の壁は越えたんだ。次はその上を目指すしかない。今度はお前も中学三年生になるんだ。ここで優勝目指さないと、いつ優勝できる?」


 シュウは甘えた声で泣きじゃくる剛介を抱きしめながら、厳しい言葉をかけていた。


「それもそうだけど……本当は違うんでしょ?」

「本当は違う?何がどう違うんだ?」

「隆也さん、本当はものすごく体調が悪いんでしょ?病気、治ってないんでしょ?僕には何一つ言わないけど、僕にはちゃんと分かるよ」

「……」


 剛介は、涙を拭きながら、迫るように語気を強めてシュウに訴えていた。


「隆也さんは練習中ずっと大丈夫なふりしてるけど、お家に帰ったらものすごく咳き込む声が聞こえてくるんだもん。それに……さっき隆也さんが僕の手を握った時も、手に全然力が入ってなかったんだもん」


 シュウはうつむきながら、剛介の声を遮らず聞き入っていた。


「シュウさん、本当の所はどうなの?隆也さん、本当ならば家で寝ていないとまずいんじゃないの?」


 するとシュウは剛介に顔を寄せ、そっと頭を撫でまわした。


「剛介……親父はな、末期のがんなんだ。あとどれくらい生きていられるかわからないんだけど、もう先は短いと思うんだ」

「!!」


 ついに、シュウの口から衝撃の言葉が告白された。

 傍にいる僕たちも一様に驚き、苗木達からは悲鳴に似た叫びも聞こえた。


「本当は、入院してもう少し我慢強く治療する方法もあるんだけど、親父はもうこれ以上苦しみながら治療したくない、病院で一生を終えるのなんて嫌だって言ってね。今はもう治療に専念するのをやめたんだ」

「じゃあ、隆也さんは……」

「そうさ。見た目は元気そうだけど、今も病気はどんどん進んでるんだよ」

「ひどい!どうして治療をやめた時に、止めなかったの?隆也さんを病院に連れて行ってよ!隆也さんがかわいそうだよ!」

「かわいそう?」

「そうだよ。かわいそうじゃないか!このまま見殺しにされるなんて」


 剛介は涙目でシュウを真っすぐ見つめていた。僕にはその目に、剛介の激しい怒りを感じとった。


「もちろん、止めようと思えば止められるさ。実際俺たち家族は、必死に親父を説得したよ。でもな、親父にとっては、剛介の剣道を見守ったり、公園の掃除をしたり、ケヤキ達を見守ったり……そんな日常を捨てることの方が、よっぽど辛くて嫌だったんだよ。俺たちは、今までずっと親父の生き様を見続けてきたから、その気持ちが痛いほど分かるんだ。このまま病院とかに閉じ込めて一生を終えさせることの方が、よっぽど『かわいそう』だって思ったんだ」

「シュウさん……」

「剛介の気持ちも本当に良く分かるよ。でもな、病院で辛い治療に耐えながら何とか生き続けることだけがその人の幸せというわけじゃないんだよ。親父のように、治療せず、好きな人達や好きな物たちに囲まれながら死んでいくことが幸せだって感じる人もいるんだ。それならば、親父が死ぬその時まで、親父の幸せをみんなで応援して行こうじゃないかって、家族みんなで決めたんだ」


 そういうとシュウは立ち上がり、剛介の背中をそっと叩いた。


「剛介、今まで内緒にしていてごめんな。いつかはちゃんと話そうとおもってたけど、剛介の方が気づいてたんだな」


 剛介は何も言わず、シュウから目を背けて両手で何度も涙を拭った。


「でもさ。さっき剛介が市大会で優勝目指すって俺が言った時、親父の顔、すごくうれしそうだったよ。あんなにうれしそうな親父見たの、本当に久しぶりだよ。だからさ、俺たちのがんばりで、親父に最高の思い出を残してやろうじゃないか」


 シュウは笑顔で剛介に言葉をかけたが、剛介はシュウから目を逸らし、無言のままだった。

 しばらく沈黙が続いたが、やがて剛介は軽く何度か頷くと、ようやく重い口を開いた。


「優勝できるかどうかすごく不安だけど……隆也さんに絶対笑ってもらいたいから、優勝できるようがんばります。だって隆也さんは、ひ弱でいじめられっ子の僕のために、一生懸命剣道を教えてくれた恩師だから」


 シュウは剛介の言葉を聞くと、微笑みながら、剛介の身体をそっと抱きしめた。


「分かってくれてありがとう。さ、大会まで残り二か月しかないけど、力を合わせてがんばろうぜ」

「はい」


 北風が未だ吹き付ける中、剛介は一度片づけた竹刀を再び取り出し、シュウが見つめる前で何度も何度も素振りを繰り返した。


『こないだ、怜奈さんが芽衣さんを制して隆也さんに落ち葉拾いをやらせていたのは、そういうことだったんだね……』


 ケビンは、寂しそうな顔で剣道の練習に励む二人の姿を見つめていた。

 僕は何となく隆也の病状に対する悪い予感はしていたが、いざこうして実情を聞かされると、やりきれない気持ちで胸が苦しくなった。

 この公園を、そして僕たちを必死に守ってくれた隆也がいなくなる……受け止めなくちゃいけない現実だけど、心の奥底ではどこか受け止められないでいる自分がいた。

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