第88話 心をこめてエールを

 寒さが続く中、ようやく曇り空から温かい日差しが注ぎ込まれた穏やかな冬の一日、怜奈が押す車椅子に乗った隆也が公園に姿を見せた。

 以前姿を見せた時に比べると顔も身体もやつれ、髪の毛も真っ白になり、別人のようになってしまった隆也。僕は隆也の姿を見て、悲しみのあまり思わず樹液が湧き出してきそうになった。

 けど、僕たちはまだまだ隆也には生きてほしい。そして、いつまでも公園と僕たちケヤキを見守り続けて欲しい。


『おい、久し振りに隆也が姿を見せてくれたんだ。さ、みんなの練習の成果を披露しようじゃないか』


『そうだね。ここまでさんざん練習したんだもん。きっと隆也さんの耳にも届くよね』


 隆也の車椅子が苗木たちの立ち並ぶ辺りを通り過ぎようとした時、ケビンが先頭を切って大声を張り上げた。


『フレ~!フレ~!りゅ・う・や』


 対面に立つ僕の所まで届く大声で、ケビンは叫び続けた。


『フレ!フレ!隆也!負けるな!負けるな!隆也』


 その後、苗木たちがそれに続くように声を揃えて傍を通り過ぎる隆也に声援を送った。

 車椅子が僕の目の前にたどり着くと、今度は僕が大声を張り上げた。


『フレー!フレー!りゅ・う・や』


 僕が叫んだ後、苗木たちが再び声を揃えて隆也に声援を送った。

 公園に立つケヤキ全員で、ありったけの声を張り上げ、ひたすら声援を送り続けた。


「ねえ、誰かが隆也の名前を呼んでるのが聞こえるんだけど。気のせいかしら」


 どうやら怜奈が僕たちの声に気づいたようである。

 訝し気な表情で問いかける怜奈に、隆也は軽くうなずいた。


「そうだな……聞こえるよ、俺の耳にも」

「ヘンよね。私たち以外に人間の姿はないのにね。一体どこの誰なのかしらね」


 隆也の耳にも、僕たちの声がちゃんと届いていた。

 僕にはそのことが何よりも嬉しかった。みんなで必死に練習した甲斐があったようだ。


『やった!隆也の耳にみんなの声がちゃんと届いているって』


『本当に?すごい!みんなで何度も何度も練習したもんね』


『これで隆也さん、元気になると良いよね』


 しかし、僕たちの喜びもつかの間、怜奈は

「不気味よね、隆也。不審者がいるのかもしれないから、早く別な場所へ行こうか」

 とだけ言い残し、誰の声かは確かめることも無く、車椅子を引きながらはるか遠くへと歩き去ってしまった。


『え?僕たち、単なる不審者だと思われてたのかい?』


『どうやら、そうみたいだ』


『ええ?あんなに練習したのに、そんな答えありかよ?』


 隆也のために僕たちが出来ることは何か?と考えて、みんなで声援を送ることを考えたが、作戦は上手くいかなかったようだ。

 でも、声はちゃんと隆也の耳に届いていた。それに、隆也の姿が見えなくても、僕たちがずっと彼に声援を送り続けること、心の中で彼の回復を念じ続けることもできる。人間達のように思いを形として表現できないのはもどかしいが、僕たちに出来るやり方で、辛抱強く続けていくしかないと思った。


 夜になると、気温が下がり再び北風が公園の中を吹きすさび始めた。

 轟音を立て、僕たちの身体に容赦なく吹き付ける風で、身体は左右に大きく揺れ動いた。


『えーん。辛いよぉ。これ以上立っていられないよ』


 ナナがか細い声で泣き出した。


『バカっ、まだまだ冬はこれから長く続くんだよ。ここで弱音吐いてどうするんだ?』


 ケンが泣き続けるナナを怒鳴りつけた。


『でも、風が強くて根こそぎもってかれそうなんだもん』


『耐えろ!食いしばるんだ!体中に力を込めて、グッとこらえるんだ!』


『そんなの、ずっと続かないよお』


 ナナは弱音を吐きながらも、身体中に力を込めて必死に耐えようとしていた。他の苗木たちも、同じように必死に耐えていた。キングだけがいつもと変わらずうつむいたまま、風に吹かれるままに上下左右に身体が振り回されていた。


『キング、大丈夫?おい!そんな姿勢じゃ身体がもぎ取られちまうぞ!』


『だ、だいじょう……ぶ。僕のことは……気にしないで』


『大丈夫なわけねえだろ?死んじまうぞ、そんな姿勢じゃ』


『だって……剛介だって、必死に練習してるんだもん。僕も、頑張らなくちゃ』


 キングの目線の先には、寒風の中防寒具を着込んで、竹刀を持って現れた隆也の姿が

 あった。


『え?剛介?今日も来たのか?』


 剛介はいつものようにぼくの目の前を通り抜けると、大きく一礼し、「お願いします!」と大声を上げて大きく振りかぶった。

 白い息を吐きながらすり足で前後に動きながら竹刀を上下に振り、寒い中隆也の周りだけは熱気が噴き出しているように見えた。

 隆也が剛介の前に姿を見せなくなって一年近くが経とうとしているが、剛介は隆也がいなくても、毎日のように一人で黙々と練習を続けていた。

 今日もいつもの練習メニューを順調にこなしていたが、突然、前触れもなく剛介の手が止まり、その場にしゃがみこんでしまった。


「ちくしょう、僕、どうすれば……」


 剛介は泣きじゃくりながら、頭を抱えていた。

 小学生の頃はいじめられたり、指導者である隆也に怒られて泣きじゃくる姿を良く見かけたが、今日は一体何があったのだろうか?


「もうすぐ新人戦なのに。全然思うように練習できてないよ。このままじゃ試合に勝てないよ……」


 どうやら剛介は中学校の剣道部の新人戦に出場するようだ。しかし、部活動や夜の練習だけでは追いつかないのだろう。ましてや夜の練習は、以前のように隆也が指導してくれるわけではない。一人で練習し、改善点を見つけ修正するしかないのだ。


「隆也さんがいたら、ここを直せとか、こうした方がいいって言ってくれるのに。僕一人でどうすればいいか、全然分かんないよ」


 剛介は顔を両手で押さえたまま立ち上がると、再び竹刀を手に素振りを始めた。


『強くなったな、剛介……でも、このままじゃまずいよな。いくら部活動やってるとはいえ、隆也さんみたいに丁寧に熱く指導してくれる人がいるかどうかはわからないもんね』


『ああ。剛介が一人で立て直していくのは、正直きついだろうな……』


 北風は相変わらず僕たちに容赦なく吹き付けてきた。僕の身体も大きく揺さぶられ、小さな枝がパラパラと舞い落ちてきた。しかし、苗木たちからは不思議とさっきのような弱音が聞こえてこなくなった。


『あれ?どうした?大丈夫なのか、お前たちは』


『うん。だって、剛介さんだって悩みながら必死に一人でがんばってるんだもん。僕らも負けてらんないよ』


『そうよ、私たちも耐えなくちゃ。いつまでも弱音言ってたら剛介さんに笑われそうだもん』


 苗木たちは、剛介の必死に練習する姿に何かを感じ取っているのかもしれない。僕も、彼の姿に感動しつつ、この冬を耐え抜く力をもらえた気がした。

 やがて剛介は練習を終え、「ありがとうございました!」と大声で叫ぶと、背を向けて自宅へと帰って行った。一時はどうなるかと思って心配したが、無事に練習をやりきったようだ。しかし、風の音に交じって、剛介の元気のない声が僕の耳に入って来た。


「剛介さん、僕、どうしよう……」


 力の抜けたような声でうつむきながら帰る剛介を見て、僕は彼に対し、何も出来ないもどかしさを感じていた。


 ★★★★


 年が明けると冬の寒さが少し和らぎ始め、僕たちの身体に吹き付ける風の勢いも徐々に緩み始めた。

 ゆるやかな風が吹く静かな朝、隆也の家の前に大きなトラックが横付けされ、やがて作業服を着た男性が、荷台から次々と荷物を運び出していった。


『ねえルークさん。隆也さんの家に誰か引っ越してくるみたいだね』


『そうみたいだね。一体誰なんだろう?』


 作業員は積まれた荷物を全て降ろすと、あっという間に隆也の家の前から去っていった。その後、隆也の家からは、誰も姿を見せなかった。ただ、何やら片づけをしている音が僕の耳にも届いた。

 一体、誰が来るのだろうか?


 その晩、剛介はいつものように竹刀を持って公園に姿を見せた。

 相変わらず隆也は姿を見せず、剛介が一人で練習を続けていた。彼なりに自分で考えて練習をしているようだが、時々壁に当たるようで、頭を抱えて練習を中断してしまうこともあった。

 いつものように竹刀を構え、真正面を見据えていたその時、剛介が竹刀を向けた先から、長身でがっしりとした身体の男性がこちらに向かって歩いてくるのが目に入った。男性は、ぶれることなくまっすぐ剛介の方向へと向かってきた。


「え?一体、誰?」


 剛介は手を止め、近づいてくる男性の姿に戦々恐々としていた。


「君、一人で練習してるの?」

「は、はい。そうですけど」

「良かったら、俺が教えるよ。一人じゃ分からないこともあるだろう?」

「まあ、そうですけど、あなたは?」

「俺はシュウっていうんだ。君に剣道を教えていた隆也の息子だよ」

「え?隆也さんの!?」


 剛介の目の前に立っていたのは、シュウだった。

 シュウは剛介の顔を見て、大きな体に似合わぬ柔らかい笑顔で頷いた。




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