第84話 ずっと忘れないよ
日差しが次第に温かさを帯び、寒さに凍えた日々から今年もようやく解放されそうである。
今日は朝から、マンションの前に次々とトラックが横付けされた。トラックから降りた作業員たちは、次々と荷物を運び出して荷台に積み込んでいった。
するとトラックの陰から、髪を後ろで結んだ少女が両親と一緒に玄関から出てきて、荷物運びを一緒に手伝い始めた。
『あれ?あの子は、あいな?』
『そうだ!あいなだ。以前話してた都会の中学校に受かって、この町から出て行くのかな?』
苗木達が突如ざわめき始めた。
あいなは、両親とともに箱を次々とトラックの荷台に積み込んだ。最後に大きな机と本箱をが荷台に積み込まれると、あいなは名残惜しそうな表情でトラックの荷台の中を覗いていた。
「さ、荷物はこれですべてかな?」
弁護士は額の汗を拭うと、水筒を口にした。
「あいな、いよいよ出発だね。行きたかった学校に受かったんだからさ。四月からは本当に楽しみだね」
「そうだね」
あいなはかすかに笑みを浮かべながら、出発するトラックの後ろ姿を見送った。
「明日は卒業式だから、あさってには出発するか。しばらくは机もベッドも無いけど我慢できるか?」
「うん」
「ちゃんとクラスのみんなにお別れを言うんだぞ?他の子達はみんな地元の中学に行くみたいだからさ」
「分かってる」
弁護士はしゃがみ込むと、あいなの肩に手を当て、目線を合わせながら語り掛けた。あいなは弁護士の言葉に相槌は打っていたけど、僕が見た限り、その目はどこか寂しそうに感じた。
「どうしたあいな。さっきから何だか浮かない顔してるな」
「だって……」
「剛介君のことか?」
「うん」
「やっぱり彼のことは気になるのか?」
「うん。お父さんの言うことも分かるけど、このままさよならも言わずにお別れするのは、やっぱり寂しくて」
「……」
あいなの少し寂しげな表情を見て、弁護士はしばらく考え込んでいた。
そういえば、あいなと剛介が一緒にいる姿をあの事件以来全く目にしていなかった。このまま会うこともなく、別れの言葉を交わすことも無く、二人は離れ離れになってしまうのだろうか?僕も、内心では二人の仲の行方を心配していた。
翌日、おだやかな春の日差しが降り注ぐ中、公園の中を何組もの親子連れが談笑しながら何組も通り過ぎて行った。男の子はスーツに真っ黒な学生服、女の子は可愛らしいスーツや進学する中学校の紺のセーラー服で通り過ぎて行った。
彼らの手には、黒くて長い筒や小さな花束が握られていた。
今日は市内の小学校で、卒業式が行われたようだ。
剛介とあいなも今日の式には参加したと思うが、二人ともまだその姿を僕たちの前に見せていなかった。
『あれ?ルークさん、剛介が来たよ!真っ青なスーツにネクタイ締めて、カッコいいなあ!』
『いつもの剛介じゃないみたい、私、剛介のこと好きになっちゃいそう』
苗木たちはいつもと違う剛介の姿に驚いていたが、着飾った剛介の背中はどこか寂しそうに感じた。
一方、あいなは僕たちの前に全く姿を見せなかった。最近は両親の運転する車で登下校していたから、今日も多分車で送迎されているのかもしれない。
「ねえ剛介。あいなちゃん、東京に行っちゃうって本当?」
剛介の母親が、心配そうな顔で剛介に問いかけた。
「ああ。そうだよ」
「どうして?他のクラスメイトはみんな同じ中学校に行くのに」
「弁護士になりたいんだって。だから、いい大学に入るために、しっかり勉強できる学校に行きたいんだって」
「そうなんだ。じゃあ、あいなちゃんにお別れのあいさつに行かなくていいの?ついこないだまで、よく一緒に遊びに行ってたじゃない?」
「だ、大丈夫だよ。僕たちのことは気にしないで!」
母親の言葉を聞き、剛介はきまりが悪そうな顔で頭を掻いていた。
陽が沈み辺りが真っ暗になった頃、剛介はいつものように竹刀を持って公園の中に現れた。今日も相変わらず隆也の姿はなく、剛介がたった一人で稽古を続けていた。それでも剛介は不満を言わず、ひたすら竹刀を振り、時には僕たちを相手に面打ちや胴打ちの練習をした。
僕たちは叩かれるたびに痛くてたまらないが、隆也がいない今、彼にとって一番の練習相手は僕たちなのかもしれない。そう思うと、ここは目を閉じてひたすら我慢することにした。
夜も更け、暗闇が辺りを包み始めると、剛介は練習を止めて竹刀を腰に収め、僕に向かって一礼した。
「ありがとうございました!」
剛介は、公園中に響き渡るほどの大声で叫んだ。その声は耳をつんざくほど大きく、今この場所にいない隆也、そしてあいなにも届いたかもしれない。
その時、まるで剛介の声に呼応したかのように、マンションの方向から何者かが公園に入り、こちらへゆっくりと近づいてきた。
『あの人、あいなちゃん?まさか、今の剛介の声が届いたのかな?』
ケビンの声を聞き、僕はこちらに近づいてくる人影にじっと目を凝らした。
『ん?あの人……男だな』
『ええ?あいなちゃんじゃないの?』
暗闇に浮かび上がったのは、あいなの父親である弁護士だった。
弁護士はスーツの上に厚めの黒いジャンパーを羽織り、剛介にゆっくりと近づいた。
「君が剛介君か?」
「そうですけど……」
「あいなの父親だけど、ちょっとだけいいかな?」
弁護士はポケットに手を入れたまま、どこか落ち着きのない様子で剛介に目線を送っていた。
「うちのあいなが、君にどうしても言いたいことがあるみたいでね。でも、もうこんな時間だし、こないだみたいな事件があると困るから、僕が代わりにここに来たんだ」
「そうですか。あいなさん、僕に何かお話が?」
「明日の十時ごろ、この場所に来てくれないか?」
「十時?」
「そうだ。あいなから君に話があるそうだ。突然の話ですまないが、ここに来てほしい」
「わかりました……ありがとうございます」
剛介が頭を下げると、弁護士は剛介に背を向け、再びマンションの方向へと歩き去ろうとした。
「ああ、そうだ。僕からも話があるんだ」
そう言うと、弁護士は足を止め、剛介の方へと向き直った。
「あいなが君と勝手に出歩いて怪我して以来、出かける時は僕がずっと車で送迎していたんだ。これ以上あいなが何か問題に巻き込まれるのは親として見過ごせなかったし、あいなが自分の夢を叶えるため、勉強に集中させたかった。でも、あいなは君に会えないことをずっと気にしていた。君に会わせなかったのは、本当に申し訳なかったと思っているよ」
弁護士は苦笑いしながらそう話すと、足早にマンションへと去っていった。
『やったね剛介!これが本当に最後のチャンスだな』
『あいなちゃんのお話ってなんだろうね?すごく気になるかも』
苗木たちのささやきを背に、剛介はどこか信じられない様子を浮かべながら、一人マンションへと戻っていった。
翌日、相変わらず引っ越しのトラックがひっきりなしに往来するマンションの玄関前に、両親に連れられて大きなケースを引いたあいなが姿を現した。
これから引っ越し先の都会へと出発するのだろう。
あいなは一緒に付いて来た両親としばらく話し込むと、ケースを預け、一人で僕たちの方向へ歩いてきた。
長い髪を後ろで結び、ワンピースの上にカーディガンを羽織ったあいなは、顔つきが以前より大人びたように見えた。考えてみれば、あいなは最近両親の車で出かけることが多く、この公園に姿を見せることはなかった。ほんのしばらく見ない間に大分成長したようだ。
あいなは僕に近づくと、「また会おうね」と言いながら、僕の身体をしばらくじっと見つめていた。しばらくすると、今度はケビンの方へと歩きだし、その後は公園の両側に植えられた苗木達にもそっと目を配りながら、ゆっくりと公園の中を歩き出した。
やがて両親が僕の前に来て、あいなを出迎えた。
「ねえお父さん、お母さん。この公園には私の思い出が詰まってるの。家族や友達と遊んだり、お散歩したり、公園の木をぼーっと眺めたり。小さい頃から、私にとってここは大事な場所だったの」
「あいな……」
「お父さんが私のために遊具作ろうとしてくれたことは嬉しかったよ。けど、私はこの公園で木や花や蝶を見るのが好きだった。だから、このままにしてほしかったんだ。ごめんね、わがままばかり言って」
「いいんだよ。僕はあいながそれで満足してくれたなら、それで十分だ」
あいなと弁護士が僕の真下で公園での思い出を語り合っていたその時、玄関から剛介が出てきた。
「剛介君……?」
「あいなちゃんが僕に話があるって、お父さんから聞いたんだ」
弁護士は剛介の顔を見ると、ニヤリと笑ってあいなの背中をポンと前に押し出した。
「あいな、言いたいことがあるんだろ?」
弁護士はあいなに微笑みかけると、あいなはコクリと頷き、剛介の前にそっと歩み寄った。
「剛介君」
「な、何?」
「あの夜、今でも思いだしたくないほど嫌なことがあったけれど……でも、私はやっぱり剛介君のことが大好き。これからもずっと、ずーっと、忘れないからね」
「あいなちゃん……」
あいなは手を差し出すと、剛介の手をそっと握りしめた。
剛介は、あっけにとられた表情だったが、その手を握りしめると、
「僕もあいなちゃんのこと、大好きだよ。これからもずっとここであいなちゃんのこと、待ってるからね。がんばって、夢を叶えるんだぞ」
「うん。夢を叶えるよ。そして、絶対に、絶対にここにまた戻ってくるからね!」
そう言うとあいなは大きく手を振り、両親の元へと駆け寄った。
「あいな、これでもう心残りは無くなったかい?」
「うん」
「本当にもういいのか?しばらく彼と会えなくなるんだぞ」
弁護士が笑いかけると、あいなは大きく頷き、剛介の所へ再び駆け寄った。
あいなは驚く剛介を見て満面の笑みを浮かべると、剛介の肩に手をかけ、頬にそっとキスした。
「じゃ、行ってくるね!またここで会おうね!」
「い、行ってらっしゃい……」
あいなは両親の元へと戻り、ケースを引きながら駅の方向へと歩き去っていった。その顔には、満足感が溢れているのが僕にも伝わってきた。
一人取り残された剛介は、頬を押さえながら呆然と立ち尽くしていた。
その時、二匹の白い蝶が追いかけ合いながら春の淡い青空へと仲むつまじく舞い上がっていた。
まるで剛介とあいなのこれからを祝福するかのように。
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