第59話 仲間割れ

 冬の冷たい雨が降りしきる朝、隆也は傘をさして玄関から出てきた。

 いつものようなジャージではなく、きちんとスーツを着こなして革靴を履いていた。

 そしてその腕には、大きなカバンを抱えていた。

 やがてマンションから拓馬が出てきた。

 拓馬もしっかりスーツを着込んでいた。


「俺、スーツなんて着慣れないよ。こんなの着たら、余計緊張がひどくなるじゃん」

「バカ、一応は役所の偉い人間に会って話をするんだからな。あっちはちゃんとスーツを着てるのに、俺たちはジャージとかで行ったら失礼だろ?」

「そ、そりゃ分かるけどさ。でも、やっぱり窮屈だよ」


 すると隆也は拓馬の正面に立ち、全身をじっと見つめた。


「良い男だなあ。普段着てる黒パーカーとかより、こっちの方がカッコイイぞ。俺なんかよりずっと綺麗にスーツを着こなしてるよ」


 そう言うと、隆也はニヤリと悪戯っぽく笑った。


「そ、そうかな?まあ、隆也さんよりはカッコよく着こなしてるとは思うけどさ」

「何だと?」

「え、だって今、自分の口で言ったじゃん!」


 拓馬は隆也にこっぴどく怒られたが、拓馬はさっきに比べると表情に緩さを感じた。

 おそらく二人はこれから市役所に行って、署名を提出してくるのだろう。

 思い起こすと、彼らが署名を集め出してから3ヶ月近く、寒い時期にも関わらず公園に立ち、署名を呼び掛けていた。

 時には公園中に行列が出来る程、多くの人達が署名をしていた。

 しかし、以前ここに立っていたおじさんが伐採されそうになった時に比べると、署名していた人の数はずっと少ないように感じた。


 数時間後、隆也は拓馬とともに公園の中を歩いて戻ってきた。

 拓馬は、隆也の肩を何度も叩きながら笑いかけていた。

 しかし、隆也の表情はいまいち浮かないように感じた。


「いや~隆也さん、今まで頑張った甲斐があったよね?市の偉い奴、『署名した人の気持ちを無駄にすることないよう、しっかり検討したい』って言ってたしさ」

「あのな拓馬……言葉通りに取っちゃダメだよ」

「はあ?どういうこと?」


 拓馬は、目を丸くして隆也を見つめた。


「『検討したい』という言葉は、彼らの逃げ口上だよ。以前、ここに立ってたケヤキを切らないよう署名を出した時も、同じ返事だった。で、結局市は当初の予定通りケヤキを伐採したんだ」

「そんな馬鹿な!?その時って、今回よりずっと署名が集まったんだろ?」

「まあな。でも、結果的に俺の方が折れて、伐採することになったんだ」

「何で隆也さんの方が折れたの?そんなことするなら、署名集めなんてやる意味ないんじゃないの?」

「今回はまだ分からないけど……あの当時の署名活動は結果的には無駄な行為になっちまったな」

「ふ、ふざけんなよ!署名活動が無駄な行為だと?だったら今回も、最初からやらなければ良かったじゃん!」


 拓馬は全身を震わせ、鬼のような形相で隆也の胸倉を掴むと、公園中に響き渡る位の大声でまくし立てた。


「結果的に無駄になったとしても、俺たちは声を上げなくちゃいけないんだ!俺たちは市長に話を通してくれそうな偉い人達に知り合いがいない、報道を通して危機感を煽ってくれるマスコミにも知り合いがいない。だから、こうやって草の根でコツコツと叫び続けるしかないんだ。それが俺たちが、このケヤキを守るための精一杯の出来ることなんだよ」


 そう言うと隆也は自分の胸倉を掴んでいた拓馬の手を離し、拓馬に背中を向けて自宅へと歩き去っていった。


「バカ野郎!だったら偉い奴らに片っ端から声をかければいいじゃん!マスコミだって、誘い方次第では俺たちに味方してくれたかもしれないしさ!どうしてこんな無駄なことをやらせるんだよ!俺たちには時間がないんだぞ!このまま……ここにいるケヤキの木が切られるのを黙って見過ごせっていうのかよ!?」


 隆也の背中に向かって、拓馬はひたすら叫び続けた。

 しかし隆也は振り返ることも無く、玄関の中に入っていった。

 その時、興奮気味の拓馬の真後ろから、スーツ姿の男性が靴音を立てながらゆっくりと近づいてきた。


「ねえ君、どうかしたのかな?」

「この近所に住む隆也ってクソ親父のせいで、俺はずっと振り回されてたんだよ。最初から無駄なことが分かってた署名集めをずっとやらせてたんだぞ。頭がおかしいとしか思えなくてさ」


 悔しそうな表情で拳を握りながら話す拓馬を見て、男性は差していた傘を閉じると、微笑みながらその場にしゃがみこんだ。

 男性の横顔をそっと覗き込むと、僕たちの伐採を唱えているあの弁護士だった。


「君たちがここで、ケヤキの木を守るための署名運動をしていたのは知ってるよ。そんなことをしたって、行政が既に決めた計画を変更するわけなんかない。君と行動を共にしたあの人だって、そんなことは知っていたはずだぞ」

「な、何だって!?」

「いくら偉い人に頼み込んでも、結論が変わることはそうそうない。だから、僕たちにできることは、決まったことの中で、将来に向けてこの町に住む皆が喜んでくれる方法を考えることなんだ」

「ふざけるなよ!結論を翻さなければ、ケヤキの木が切られちゃうだろ?」

「さっき言っただろ?これはもう決定事項なんだ。翻すのは僕だって難しいよ。だから、発想を転換する必要があるんだ。ケヤキの木を切り、この地域に役に立てるものに活用していけば、ケヤキの木だってきっと嬉しいと思うし、地元の人達も地元の誇るケヤキが地元のために活用されたことを自慢に思うだろう?」

「……」


 拓馬は、しばらく黙り込んだ。


「ここじゃ寒いし雨も降っているし、僕の事務所に来ないか?ここのマンションにあるんだけどさ」


 そう言うと弁護士は立ち上がり、拓馬の背中を叩いた。

 拓馬は弁護士に導かれるがままに、一緒にマンションへと入っていった。


『ねえルークさん。あの人、この公園に遊具を作るって言ってた弁護士でしょ

 !?』

『そうだよ。まいったなあ…このままでは、拓馬があの弁護士に抱き込まれてしまう』


 拓馬も、隆也と同じで一度思い込んだら疑いなく猪突猛進するタイプである。

 僕たちは何をすることもできないが、拓馬にはあの弁護士の言葉に惑わされず、自分の意思を固く持ち続けて欲しいと思った。


 □□□□


 数日後、隆也は早朝から妻の怜奈とともに、公園内のゴミ集めをしていた。

 二人は額の汗を拭いながら、黙々と植栽の中に投げ込まれていたペットボトルやコンビニエンスストアの袋を取り出しては、ゴミ袋に詰め込んでいた。


「ねえ、こないだ自治会長さんからの回覧見た?この公園、改修工事に入るみたいよ」

「まあな」

「公園のケヤキの木はどうなるの?お父さん、一生懸命署名を集めたじゃない?市の人達、まさか署名が出てるのを無視したわけじゃないよね?」


 隆也は、しばらく無言のままであったが、やがて僕にやっと届く位の小さな声で

 怜奈にささやいた。


「『署名は拝見しましたが、検討の結果、予定通りに伐採を進めることになりました』だって」

「じゃあ、ここのケヤキは……」

「以前ここに立ってたケヤキの時と同じで、伐採されることになるだろうな。悔しいけどさ」

「お父さん……」


 怜奈は作業の手を止め、顔を押さえてすすり泣き始めた。

 その時、拓馬とその友達が、黙々と作業を続ける隆也達の目の前に現れた。


「あら、拓馬君?今日も手伝いに来てくれたの?」


 すると、拓馬は怜奈の言葉を聞いて、鼻で笑い始めた。


「何言ってんスか。やりませんよ。俺たちそんなに暇じゃないんで」

「え?ど、どうして?」


 拓馬も、その友達の祥吾と凛空も、上から見下ろすように隆也達を見ると、大声を出して笑いだした。


「おい、どういうつもりだ?お前ら、俺と一緒に公園の美化作業を手伝ってくれるって言ったじゃねえか?」


 隆也が立ち上がり、ポケットに手を突っ込みながら三人の前に歩み出た。


「何カッコつけてんだよ。隆也さんは仕事辞めて暇なんだろ?奥さんと一緒に、せいぜい頑張って掃除してくださいよ」

「なにが『下さいよ』だ!上から目線で物事を話してんじゃねえよ!」


 隆也は、三人に殴り掛かりそうな勢いで近寄っていった。

 すると、身体の大きな祥吾が隆也の肩を両手で押さえつけると、呆れたような表情で隆也の顔を見つめた。


「俺たちは、もうあんた達の手伝いはしねえよ。大体、この木のために何でそんな熱くなってんだよ?いくら頑張っても報われもしないのにさ。単なる時間つぶしでしかないことを、俺たちはこれ以上やりたくはないんだよ」


 そう言うと、祥吾は上から突き落とすかのように、隆也を地面へと叩きつけた。


「署名、結局駄目だったんでしょ?俺も回覧版見たんだよね。残念だけど、この木は切られる運命なんだよ。それよりも、この公園に出来る遊具の材料として有意義に使ってもらう方が、この木のためにも、そしてこの町の人間のためにもなるんだよ」


 そう言うと、拓馬は隆也が手にしていたゴミ袋を足で蹴り飛ばした。

「さ、行こうぜ。どうせあと数日で工事が始まるみたいだしな。せいぜい最後まで一人で頑張って抵抗してろよ。暇人さん」

 と言い、他の二人の肩を叩き、笑いながら公園から去っていった。


 隆也は、しばらくの間呆然としていた。

 顔は青ざめ、口をあんぐり開けたまま硬直していた。


「お父さん!どうしたの?お父さん!しっかりして」


 怜奈は隆也に声を掛けたが、隆也はしばらくの間、微動だにしなかった。


『ルークさん、僕たち、いよいよおしまいなんだね……』


 ケビンは、力の抜けたような声を出し、すっかり元気を失ってしまった。

 いつもならケビンに何かしらの言葉をかけて勇気づけているが、今日はそんな言葉も浮かばなかった。

 正直、この現状を受け入れたくはないが、現状を変える手立てがない以上、覚悟を決めなくてはならないと痛感した。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る