第47話 原点
長く寒かった冬を越えて春を迎え、僕たちケヤキの木々にも徐々に若葉が芽吹いてきた。
今年は雪が多く、枝に積もった雪で何本かの枝が折れてしまった。
折角年月をかけて育った枝が折れてしまうのを見ると、僕の心も折れてしまう。
春を迎えたと同時に、公園に騒々しい音が響くようになった。
公園の隣にあった建物が壊され、大きなクレーン車が入り、少しずつ足場が組まれていった。
入口の立て看板に描かれた完成予想図を見ると、どうやらここに高層マンションが建つようである。
公園の周囲の景色は、わずか数年の間に大きく変貌を遂げようとしていた。
今日は日曜日ということもあってか、普段に増して公園の中を通りすがる人達が多いように感じた。
彼らは皆、片手に大胆な絵柄が施された手提げ袋を提げ、楽しそうに話をしていた。
「ねえ、この展覧会、すごい人気だよね」
「だって、地元出身の新進気鋭の画家だもん。彼女の作品を国内で見られるなんてほとんどできないからね」
へえ、この町にそんなすごい画家がいたんだ…。
僕は人々の会話に耳をすませて聞きながら、驚きを感じた。
その時、隆也と怜奈が公園の向こうから僕たちの方向へと歩いてきた。
彼らも他の人達と同様に、絵柄入りの手提げ袋を提げていた。
「RINKAって、すごいよね。この町にそんな絵の才能のある子がいたんだねえ」
「あんな写真みたいな細やかに描かれた植物の絵や風景画、初めて見たよ。まだ若いみたいだけど、とんでもない才能だよね」
その時隆也は突然、僕の目の前で足を止めると、訝し気な表情で体をケビンの方向へと傾けた。
そこには、赤いベレー帽を被った一人の若い女性が、大きなショルダーバッグを持って立っていた。
大きな花のイラストの入った黒いTシャツを着こみ、金色の髪で顔の半分が覆われ、かかとの高い靴を履いた女性は、しばらくの間、ケビンの姿をずっと凝視していた。
やがて女性は、片手に持った大きなショルダーバッグをケビンの前にあるベンチに置くと、バッグを開け、大きなノートを取り出した。
「何だ?あそこにいる人、この辺りであまり見ないような派手な格好しているな。おまけに何だ、あの桁外れに大きなノート……スケッチブックなのかな?」
「そうね。ちょっと変な感じね。あれ?あの人、どこかで見たような気がするわね」
怜奈は何か思い当たる節があったようで、訝し気に女性の斜め横に回り込み、女性の顔を覗き込もうとした。
「あの人、あの子にどことなく似てる気がするわ。ほら、お父さんが昔、以前ここにあったケヤキの撤去に反対する運動していた時、自分の絵を持ってここに立ってた女の子に」
「え?あの女の子に?」
隆也は怜奈の後ろから、そっと女性の顔を覗き込んだ。
僕も隆也の後ろから、女性の顔を何とか垣間見ることができたが、ケビンを見つめる女性の横顔は、真摯なまなざしで自分の描いた絵を手にしていた、あの少女のままであった。
「そうだ!たしかにあの子だ……大きくなったなあ!」
隆也の声が女性の耳に入ってしまったのか、女性はふと我に返り、隆也の方を振り向いた。
「あれ?あなたは……確か、あの時の」
「君は確か、あの時の……」
隆也と女性は、お互いの顔を指さし合い、驚いた表情を浮かべていた。
「覚えてたんですね!私、久しぶりに帰国して、自分の個展より真っ先にここに来ちゃったんです」
「個展?」
「あ、その紙袋のイラスト、私の描いた絵ですよ。私の個展に、行ってきてくださったんですね」
「こ、この絵を描いたのが、君なの?」
隆也が目を丸くして女性に尋ねると、女性は笑顔で軽く頭を下げた。
「じゃあ、あなたは、もしかしたらRINKA……さん?」
怜奈は、とまどいながらも、女性を指さしながら問いかけた。
「そうですよ。RINKAです。本名は、
女性は、この公園で何度もケヤキの木を描いていた燐花だった。
数年前に来た時にはフランスに渡って絵を勉強しているという話を聞いたが、わずかの間に世界的に有名な画家になったのか。
「ああ、思い出した。その子、燐花って言ってたよ!もうあれから10年以上経ったから、パッと名前が出て来なかった。ごめんよ」
「あははは、良いんですよ。私もまだ小学生ぐらいでしたからね。それよりも私、帰国したら一番来たかったのが、この公園なんです。ここに立ってるケヤキの木、元気かなあって」
「大丈夫だよ。あっちの木はもう30年以上経ったかな?燐花さんが見ていた木は、ここに来て10年位になるのかな?」
「そうなんですね。このケヤキ君、すっかり大きくなりましたね」
そう言うと燐花は、ケビンの身体をそっと撫でた。
「久しぶりに、あなたを描いていいかな?」
そう言うと、燐花は長いスカートを片手で抑えながら、ベンチに腰かけた。
『ル、ルークさん、僕、どうしたら……』
『あのなあ、世界的な画家に描いてもらうまたとない機会だぞ!下手に拒んだりせず、喜んで『いいですよ』って言えよ!』
『うん……。い、良いですよ、僕の事描いて』
ケビンは了解したものの、ケヤキであるケビンの声が燐花に届くはずなど無い。
しかし、燐花にはケビンの声が届いたのか、燐花は突然スケッチブックを広げると、鉛筆を持ち、一心不乱にケビンの姿を描き始めた。
「すごい……あの子が世界的な画家になったなんて。そしてその世界的な画家が、私たちの前でスケッチしているなんて」
怜奈は、手で口を押えながらしばらく感慨に耽っていた。
「あれ?以前ここに来た時と違って、ちょっと日陰になってるよね」
燐花は鉛筆の動きを止めると、首を何度か左右に捻った。
「今、公園の隣にマンションを建ててるんだよ」
隆也は、建設中のマンションを指さした。
「そうなんですね……ここ、お日様が当たって木にはすごくいい場所だったのに、これではマンションの日陰になって、昼間でも薄暗くなりますよね。木が可哀想よね」
燐花は、寂しそうな口調で独り言を言いながら、ひたすら鉛筆を走らせていた。
「人間も木にも、快適に生きる権利はあるわ。でもね、人間が自分達だけ快適に生きるために、一方的に木に犠牲を強いるのは違うと思う。建物を造る前に、ちゃんと木とお話をして、木の気持ちを分かってほしい」
燐花の口から何気なく出された言葉は、僕の心に響くものがあった。
燐花は、僕たち木の気持ちを誰よりも正確に理解しているのかもしれない。
だから、草花や木々を、絵として精緻に表現できるのだろう。
「出来た!ちょっとだけ雑になっちゃったけど、何とか描けたかな?」
そう言うと、燐花は立ち上がり、照れくさそうな表情で、描いたばかりの絵を隆也に見せた。
「すげえ…デッサンだけで、こんなに細やかな所までとても描けないよ」
「やっぱり天才よね。私たちには真似できないわ」
感嘆している隆也達を見て、燐花はホッとした様子を浮かべていた。
「この場所が、私が絵を始めた原点なんですよ。小学生の時、写生大会でこの公園に来た時、昔ここに立ってたケヤキの木を描きたくて仕方がなかった。それ以来、誰かに決められたものじゃなく、描きたいと思うものを素直に描いていきたいって気持ち、ずっと大事にしてるんですよ」
そう言うと燐花はスケッチブックをめくり、他の絵を隆也達に見せてくれた。
「すげえ、この絵も、この絵も……ここに立ってるケヤキの絵だぞ」
「そうなんです。帰国するたびに、ここの木を描いてるの。この木を描く時が、帰国する時の楽しみだし、私が初心に帰れる瞬間だから」
燐花はスケッチブックを畳むと、ベレー帽を取って深々と頭を下げた。
「個展が終わったら、またフランスに帰るんです。今度はいつこの木に会えるのかなあ?またあなたに会いに来るからね。それまで、元気でここに立ってるんだよ」
そう言うと、燐花はケビンの幹を何度も撫で、手を振って公園から去っていった。
僕を触ることも、僕の姿を描くこともなく……。
『いいなあ、あの人のスケッチブックに描いてあったの、ケビンの絵ばかりじゃないか。僕なんか1回も描いてもらったことないぞ』
僕は思わず、ケビンに愚痴を言ってしまった。
『さあ…わからないけど、僕の方が見映えするから、かな?』
『そんなわけあるか!見映えするのはお前じゃなくて僕の方だぞ!なのに、どうして僕には見向きすらしないんだ……?』
ケビンの答えに、僕は思わず苛ついて怒鳴ってしまった。
一体、ケビンのどんな所が燐花を惹きつけるのだろう?
僕は、ケビンの姿をしばらくじっと見つめた。
『お、おじさん?』
僕は驚きのあまり、思わず絶叫した。
『ん?突然、どうしたの……ルークさん』
ケビンはきょとんとした表情を見せていたが、その風格は、かつてケビンのいる場所に立っていたおじさんを彷彿させるものを感じた。
既に撤去されてこの世に居ないはずのおじさんが、時を越えてこの場所に甦ったかのような、不思議な錯覚に襲われた。
ケビンがまだ小さかった頃には、全く感じなかったのに、いつの間に……。
燐花は、人並み外れた感性で、その風格をしっかり感じ取っていたんだろう。
ちょっと悔しいけれど、この僕が越えられない「何か」がケビンに備わっていることを認めざるを得なかった。
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