第35話 別れの瞬間

「運命の日」の朝は、轟音とともに始まった。

 けたたましい音をたてて、大型のダンプカーが公園の前に横付けされた。

 同時に、ショベルカーが公園の中を通って、僕の方向へと徐々に近づいてきた。

 反対方向からは、狭い道路を大型のクレーン車がゆっくりと移動しながらこちらに近づいてきた。


『おじさん、いよいよだね…覚悟は、出来てるの?』


 轟音を聞き、不安に感じたルークは、心配そうな声で僕に問いかけた。


『ああ。僕はもう覚悟は出来てるさ。もうこの世界に、この場所に思い残すことはないからね』


『ねえ、怖くないの?…あの人たちは、おじさんのことをこれから殺しに来るんだよ?』


『怖くない、と言ったら嘘になる。でも、いつかはこの時が来る。今はただその時が来たと思い、受け入れていくだけだよ』


『おじさん……』


 ルークは何か言いかけて、再び口を閉ざした。

 何かまだ言いたげな感じがするが、なかなか言葉として口に出せない様子であった。

 僕はもうすぐ。この世からいなくなってしまうというのに。

 言いたいことがあるならば、早いうちに言って欲しいと思った。


 公園の中を滑走してきたショベルカーは、立入禁止のロープが張られた区域の内側に入り込むと、その強力なショベルであっという間にアスファルトを剥がしてしまった。その傍では、作業員がチェーンソーで鋭い音を立てながら、ベンチを取り外していた。

 アスファルトを剥がし終えたショベルカーは、次第に僕の周りの地面を掘り始めた。

 掘り起こす深度が深まるにつれ、奥深くに隠れていた僕の根っこを包むこもが、徐々に地上に露出し始めた。

 やがて、僕の幹の周りだけ残された状態で、大きく深い溝が出来上がっていた。

 作業員が、ユニック車を使って僕の頭辺りの枝を剪定し始めた。

 同時に、太いロープを僕の周囲にきつく巻き付けた。

 このロープを使って、僕のことを地面に倒すつもりなんだろう。

 いよいよ、撤去される準備が整い始めた。


 白い息を吐きながら黙々と作業を続ける作業員に交じって、市役所の職員である早田と井口の姿があった。


「早田さん、このケヤキ、樹液でべとついてますね。もうこんな寒い時期なのに、どうしたんでしょう?おまけに、やけに酒臭いし」

「そうだよな、一体どうしたんだ?樹液が出ると言うことはストレス溜まってるってことだからな。やけ酒でも飲んだのか?」


 樹液は昨晩、隆也との別れについ感極まって流れ出てしまったものだし、酒の臭いは、隆也から僕のために振り撒かれた惜別の酒であった。

 どうしてこれがストレスと結び付けられるのか、納得いかなかった。


「早田さん、この木、随分奥の方まで根が張り巡らされていますね。結構大変な作業になりそうですよ」

「ああ。でも、根っこをきちんと丁寧に掘り起こさないと、この計画通りにいかないんでね。井口君、時間はかかっていいから慎重に作業を進めるよう、業者に指示しておくれよ」


 早田は、冷静な口調で井口に指示を出していた。


 しばらくすると、作業は再開された。

 溝の中に入った作業員が、成長しすぎて菰からはみ出してしまった僕の根っこの端々を、スコップで丁寧に取り除き始めた。

 すると、僕の根元は土から引き離され、徐々にぐらぐらと揺らぎはじめた。

 そして僕は、根元が揺らぐにつれて、根元から水分や養分を吸い取れなくなり、徐々に意識が薄らいでいった。

 こうやって僕たち樹木は、少しずつ死に至らしめられるのだろうか。

 その時、聞き覚えのある歌が、かすかに僕の耳の中に入って来た。


 『彼はいつも見守ってくれてる ぼくたちのことを

  何も言わないけど 何もしないけれど』


 これは、啓一と万里子が、僕のために作ってくれた『大きなケヤキの樹の下で』のフレーズだった。

 僕は失われつつある意識の中で、何とか辺りを見渡そうとすると、真正面に聳え立つルークの真下で、ギターを抱えて唄う啓一の姿があった。


『いいことがあった日も 悪いことがあった日も 雨の日も 風の日も』


 僕を守るための署名活動で何度も唄われたこの歌が、まるで鎮魂歌のように切なく響いていた。


『たとえどんなに自分が辛くても

 弱音吐かずに、ぼくたちを見守ってくれてる』


 やがて、作業員に先導され、大きなクレーン車が公園に導かれてきた。

 クレーン車は、僕に取りつかれたロープを恐ろしいほどの力でグイグイと引っ張り出した。

 僕の根元を包み込む菰は、メリッ、メリッと音を立てながら、徐々に土の中から引きはがされ始めた。


『この町に住む ぼくたちは 彼に見守られ やがて大人になっていく

 そしていつか 町を去る時、 僕らはこの木を振り返る』


 僕の身体はクレーンに引っ張られ、次第に斜めに倒れていった。

 僕の意識は何度か途切れ、息も絶え絶えであった。

 その時、幼い子どもの悲鳴、そして、ルークの悲鳴が僕の耳に入って来た。

 僕のすぐ近くで、君枝と隆也の妻・怜奈、そして息子のシュウが作業をずっと見守っていた。


「ママ、あの木、どうして倒されちゃうの?かわいそうだよ!助けてあげてよ!」

「ごめんねシュウ、ママは何もできないんだ…」

「どうして!?何もできないの?君枝おばあちゃん、助けてあげて!」

「シュウ…この木はね、もう十分にこの場所でがんばって生きてきたんだよ。今まで一緒に遊んでくれて、ありがとうって声をかけてあげて」

「そうなんだ、がんばって生きてきたんだ、この木は…」

「そうだよ。おばあちゃんが若かった頃から、ずっとここに居たんだよ。おばあちゃん、この木に見届けられながら、ずっとここまで生きてきたんだよ。亡くなったおじいちゃんも、シュウのパパもそうだったよ。もう精一杯がんばったんだからさ、寂しいけど、ありがとうって言ってあげて」

「今まで遊んでくれて…ありがとう」


 シュウのか細く消え入りそうな声が、辛うじて僕の耳に入って来た。

 やがてシュウは、まるで叫んでいるかのような大声を出して泣き出した。

 その声量は、意識が薄れていく僕の耳にもしっかり届く位であった。

 怜奈が、シュウに優しい声を掛けながら必死になだめていた。

 その時、シュウの泣き声に交じり、かすかにルークの声が聞こえてきた。

 作業中、ずっと口を閉ざしていたが、ようやく言葉にすることができたようだ。


『おじさん!僕、いつも偉そうなこと言ってるくせに、こんな時に全く助けられなくて、本当にごめん!僕、今までずっと、自分に全然自信が無くて。だから、何かにつけておじさんに虚勢を張ってきたんだ。今もまだ、自信が無くて……。でも、これからは、どんな困難に出会っても、おじさんのようにここで堂々と胸を張って生きていくから!』


 ルークの訴えかけるような力のこもった声は、意識が薄れ行く僕の耳に、しっかり届いていた。


『ルーク…君はもう、大丈夫さ。君はこれから、この公園に聳え立つ1本のケヤキとして、この公園を通り過ぎる人たちの心の支えになっておくれ。そして、彼らの記憶に残る存在になっておくれ……』


『おじさん!』


『……ルーク、今まで本当に、ありがとう。君がいたから、僕は寂しくなかったよ』


『おじさん!ありがとう!ここまでこの僕のことを見守ってくれて、色んなことを教えてくれて、ありがとう!』


『……元気で……な……』


 僕の意識はもうほとんど薄れてしまっていた。

 そんな中、ルークの叫び声が、シュウの泣き声が、そして、啓一の奏でる『大きなケヤキの樹の下で』が、混然一体となって、僕の耳に入って来た。


『この町に住む ぼくたちは 彼に見守られ やがて大人になっていく

 そしていつか 町を去る時、 僕らはこの木を振り返る

 いつものように 彼はここにりりしく立っている

 何も言わないけれど 何もしないけれど

 ぼくたちを ずっと ずっと 見守ってくれてる』


 その時、クレーンが、とどめと言わんばかりに僕を巻き付けたロープを思い切り引っ張り、僕の大きな身体は50年間植えられていた公園の土から完全に引き剥され、宙に浮いた。

 僕の体力は、もはや限界に来ていた。

 意識がほとんど無くなり、目の前の鮮やかな街の風景も全く見えなくなった。

 もう、この世に思い起こすことは何も無い。

 僕はこの公園に来てから、公園を通り過ぎる沢山の人達の背中を見守ってきた。


 若いカップルが結ばれる時の引き立て役になった。

 小さな子ども達の遊び相手になった。

 剣道の練習相手になった。

 遠くに旅立つ若者の背中をそっと応援してきた。

 この町で唯一のデパートの栄枯衰退を見てきた。

 大きな災害で壊れかけ、再生していく街並みを見てきた。

 そして、自分はずっと孤独だと思っていたけど、僕を守り、応援してくれる多くの人達がいたことに気づかされた。


 いろいろあったけど、思い残すことはなにもない。

 見知らぬこの街にやってきて、不安がいっぱいだったけど、街の憩いの場である公園のケヤキとして、十分に役割を果たしたと思っている。

 そして、こんな僕でも、多くの人達の支えになり、そして僕自身が支えられた気がする。


 みんな、ありがとう。

 この公園のケヤキとして、僕は幸せでした。



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