第399話 春の夜に確かなもの

 「…………え?」


 思いもよらない言葉に短い声しか出なかった。そのまま、心当たりを探っていくが皆目見当がつかない。混乱が思考を侵食していくような感覚に襲われる。そんな鏡華を双魔は変わらず眼差している。


 「……まあ、俺も何がおかしいと言われれば言葉には表せない。けど、鏡華が俺の知っている鏡華と少し違っているのは間違いない、と思う。きっかけは……」

 「……きっかけ……は?」

 「……ロキたちと闘ったあの日からだ」

 「っ!!!」


 双魔が口にしたきっかけ、それを耳にした瞬間に鏡華の戸惑いは弾けた。砕け散った戸惑いの欠片たちはそのまま様々な感情へと変化していく。あの日、己の本当の力を、決して人の身で行使してはいけない権能を解放しようとし、未遂に終わったあの時から無意識に押し込めていた感情が奔流となった。自分の弱さ、決断力の乏しさ、愛への固執、初めて自覚し、否定したくなった事実が双魔の言葉によって突きつけられてしまった。


 ただ、身体の反応は単調なものだった。見開いた目から涙が頬へと伝った。視界に映っている愛しい人の顔が朧に揺らいでいる。それ以上は身体が動かなかった。


 「……鏡華」


 突然、涙を流しはじめた鏡華を見た双魔は自分が何をするべきか、そんなことを考える間もなく、無意識に、ただ立ち尽くし月光に涙を輝かせる恋人を抱擁した。


 風が吹いた。冷たさと暖かさ、花の香りと土の香りを運ぶ春の幽玄な風が二人を包む。


 川の水面が、草木が街の灯が、二人の髪を激しく振らし、夜風は何処かへと消え、静寂が訪れた。


 「……ぐすっ……う…ぅぅぅぅぅぅ…………」


 鏡華は双魔の胸に顔を押しつけて、小さな鳴き声を上げた。長く付き合ってきた双魔も初めて聞く鳴き声。普段から気丈な鏡華らしい感情を押し殺したような泣き声。


 すすり泣く幼馴染を双魔何も言わずに抱きしめ続ける。自分が今、愛しき人にしてやれるただ一つのことだと思いながら。



◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆



 「…………んっ……すんっ…………」


 泣き続けていた鏡華だったがしばらく経つと段々、身体の震えも収まってきた。


 「……落ち着いたか?」

 「……すんっ…………うん……ごめんな……突然……泣き出して……」

 「……ん、俺も突然聞いて……デリカシーがなかった」

 「……それは気にしなくてええよ……うちが勝手にないただけやもん……」

 「そうか……鏡華の泣き声なんて初めて聞いた」

 「…………うん……」

 「……何があったか……聞いてもいいか?」

 「……双魔に今の顔見せられへんから……このままでもええ?」


 鏡華は子供のように額を双魔の胸に押しつけ、背中に腕を回してきた。


 「ん、いいぞ」


 双魔は頷いたが鏡華には見えないだろう。代わりに優しく背中を摩った。


 「……双魔の言う通りな……きっかけは……あの時……アッシュはんもフェルゼンはんも倒れて……界極毒巨蛇ミドガルズオルムが迫ったあの時……うちは……みんなを守るために……地獄の力を使役しようとしたんよ……」

 「……それは……」


 重々しく告白する鏡華の言葉の意味を双魔はしっかりと理解していた。鏡華は日ノ本における地獄の王の正統な後継者だ。王は支配する地獄の力を自らの意志で使役することができる。分かりやすいところで言えば八熱地獄の業火を、八寒地獄の凍気を自由に操ることができる。その力は絶大、まさに神の力だ。されど、閻魔大王とは地獄の王であると共に厳格な裁判官である。私の事情で力を振るうことは赦されない。つまり…………。


 「地獄の力を開放すれば……界極毒巨蛇は倒せるし……みんなのことも助けられる……その代わり……うちはきっとここに居られなくなる……双魔と……会えなくなる……そう思ったら……結局……何も出来へんかった……」

 「…………」

 「……うちは……最も厳格に公平にならなあかん存在なのに……決断なんかできへんかった……おじじさまも……おじいさまも………他のみんなも逸材やなんて褒めてくれたけど……うちは双魔と一緒に居たかったから……頑張っただけ……立場と……力と……志が嚙み合わへん…………うちは大人になれない子供のまま……どうすればいいか分からへん……それが嫌になって……押し殺して知らんふりしてた…………双魔にも自分から相談なんて……嫌われるのが……」


 鏡華の声は終始震えていた。そして、遂に言葉も紡げなくなる。初めて見る年上の幼馴染、将来を誓い合った恋人の弱音を吐く姿だった。普段の彼女は見る影もない。目の前の鏡華はただ迷いに迷う年頃の少女だった。野分に散らされそうになる曼珠沙華のようだ。


 そんな鏡華の姿に、双魔の身体は勝手に動いていた。そこに複雑な意志は介在しなかった。ただ、鏡華への愛おしさだけの行動だと断言していい。


 「……駄目……双魔、うちの顔見たら……んっ!……んんっ!?」


 双魔は……右手を涙で冷たくなった頬に添え、少し上を向かせ……そして、その唇を優しく奪った。触れ合った唇から二人の息が漏れる。一瞬、驚きで身体を強張らせた鏡華もゆっくりと双魔にその身を委ねていく。


 「……んっ……」

 「んっ……んん……」


 唇と唇が触れるだけの清らかな口づけ。日の沈んだ春の川辺に二人だけの世界が構築されてゆく。そのまま、どれだけ唇を重ね合わせていただろうか。双魔は鏡華を抱きしめたまま、鏡華の花弁のような唇から口を離した。


 二人の視線が再び交わった。今度は暗褐色の瞳が不安と喜びの滅茶苦茶になった感情を帯びている。


 「……双魔……」

 「……鏡華、すぐに気づいてやれなくて悪かった。……鏡華は大丈夫だ。閻魔大王も……初めは人として生まれ、人として生き、人として死んだ。だから、偉大な王として君臨してるんだ。そんな大王が可愛い鏡華が迷ったくらいで失望するはがずない。迷いながら生きてこそ人間だ。きっとそれは必要なことだ……」

 「……うん……」

 「志も皆を守ろうとしただけだ。誇っていいはずだ……」

 「……うん……うん……」


 鏡華は双魔の言葉にただ頷いていた。まるで、慰められる幼子のように。


 「それに……俺が鏡華のことを嫌うなんてありえない。例え、天が地に落ちてこようとあり得ない。俺は鏡華が……好きだ……」


 いつものように、ぶっきらぼうに誤魔化すことなく、双魔は鏡華の瞳を見つめてはっきりと言い切った。鏡華の瞳に浮かんだ不安が泡沫のように消え去っていく。


 「………………ほんまに?」

 「ん」

 「……それじゃあ……もういっかい……」


 鏡華はもう一度、瞳を閉じた。二人の距離は再び零になる。春の夜は夢の如し。幽玄夢幻の月の下、二人の愛だけは確かな熱を放っていた。
























































































◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆


 次の日、双魔は自室で魔術書をパラパラと捲っていた。その表情は如何にも真剣と言った風だが、実のところ心ここに非ず……只々、昨夜の自分を悔いていた。


 (……勢いで……まさか勢いで……自分事とは……勢いで……鏡華も初めてだっただろうに……合わせる顔が…………)


 「……??」


 ブツブツと背中を丸めて呟いている双魔の背中を見たティルフィングは可愛く首を傾げている。


 一方、当の鏡華はというと……。


 「ふんふーん♪ふふーん♪」


 凄まじく上機嫌だった。たまに歌っている鼻歌だが今日は明らかにトーンが高い。


 「……鏡華様……何か良いことでもあったのでしょうか?」

 「……此方……は……預か……り……知ら……む……」


 そんな鏡華に左文と浄玻璃鏡も顔を突き合わせて困惑気味だ。


 (ふふっ!ふふふふふふふっ!!遂に双魔から接吻……イサベルはんに先越されてすこーしだけ悔しかったけど、全然構へんわぁ!ふふっ!なんてったって、双魔の初めてはうちがきっちりと貰ってるさかい……ふふふふふふふっ!)


 地獄の姫君は上機嫌。やはり、鏡華の方が一枚上手なのは変わらずであった。


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