第五部『収束する運命』エピローグ

第381話 黄昏の棺

 「……フフ……フフッ……青……い……空を……見たの……なんて……いつ振り……だった……か……な……」


 再び黄昏色に染まった空を見上げて死にゆく神は呟いた。ここにはもう彼女しかいない。視力は既にほとんど失われているが色の判別くらいはつく。凍てついていた時間が融けはじめ、黄昏の空が夕闇の色へと変わっていく。


 「…………」


 もう独り言を紡ぐのも億劫だった。命を失っていくこの感覚が快楽にすら感じてくる。目的は果たした。”予言の子”は優しく懸命な少年だった。麗しのフォルセティにも再会できた。思い残すことはただ一つとない。


 はずだった。しかし、彼ら信頼や絆に当てられたのか、一抹の寂しさが風穴の空いた胸に過った。


 「……ひと……り……か…………」


 生まれた時はどうだったか、遥か昔のことはもう朧気だが自分の生はやはり孤独であった。良くしてくれたのはフォルセティともう一人、その人物の顔が思い浮かびかけたその時だった。


 コツリ……コツリ…………


 何人たりとも存在しないはずの広大な棺の中を足音がこちらに近づいてきた。


 コツリ……カツン…………コツリ……カツン……


 杖で荒野を叩く音を交えながら足音は真っ直ぐに向かって来る。そして、すぐそばまで来るとピタリと音が止んだ。すぐそばに在る気配は慣れ親しんだものだった。


 「…………何……か……用……か……な?……あ……に……」

 「良い、話すな……死にゆく神の顔を覗きに来ただけ故」


 視力と同じくほとんど失った耳にもしっかりと届く冷酷かつ威厳があり、その中にも温かみのある声だ。


 「…………」


 老人はロキの虚ろな眼に籠った思いを読み取る。


 「……うむ、ティルフィングの紅氷の力は封印に用いたニヴルヘイムの氷と剣の素となった不融氷晶が反応して生じた力だ」

 「…………」

 「記憶を凍結させたのも我が手によるもの……ティルフィングの暴走には感情が大きく関わる……フォルセティに関する記憶ごと、全て無くした方が都合が良かった……これで、満足か?」

 「…………」

 「…………逝く……か」

 「……あい……かわ……ず……だ…………あり……と…………ちょ……ど……寂……し……だ……ふふふ………………」


 それがロキの最後の言葉だった。その死に顔は安らかなものだった。


 「……………」


 その最後を看取った老爺の表情は目深に被った帽子のせいで見えなかったが乾き切った荒野を一粒の雫が潤した。


 ロキの遺骸はさらさらと砂のように崩れ消えていく。後にはあの美しい花一輪だけが残った。


 最後を見届けた老爺も虚空に融け込むようにその姿を消した。


 黄昏は夜の闇に染まり切る。輝く星は一つたりとも存在しない。棺の蓋は音もなく閉じられた。もう開かれることはない。世界の終末、その時が訪れるまで。



◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇



 「…………」


 暗闇に満たされた部屋に竜の息吹が明かりを灯した。岩窟に置かれた豪奢な天蓋付きの寝台の上でのそりと何かが起き上がった。


 そして、緩慢な動きで寝台から降りる。長くしなやかな手足に傾国と言ってよい美貌。床につく長い黒髪の美女だ。その頭に一対の角が生えており、肩口には蛇のように髪の毛が一束ずつ鎌首をもたげうねうねと蠢いている。よく見ると房の先はそれぞれ蛇の頭になっていた。


 絹の寝巻の艶やかなフリルを揺らしながら数歩歩くと足を止める。


 「……双魔の運命が……収束した……」

 『ミタイダナ!コレデ心配事モ一ツ減ッタ!減ッタ!』

 『馬鹿!心配ハコレカラダ!双魔、大丈夫カナ?ドウ思ウ?』


 左右の髪束の蛇たちが騒がしく口をきいた。


 「騒ぐでない……双魔は妾の弟子だ……心配はいらぬ……いらぬが、久しぶりに顔を見たいものだ」

 『双魔ニ会イタイヨー!』

 『キットモットイイ男ニナッテルヨー!』

 「……騒ぐでない……」


 美女は身体をくねらせて主張する蛇たちに辟易しながら細指で置いてあった鈴を手に取り、揺らす。


 チリーン……リーン……―ン…………


 音が闇に可憐な音が闇に飲まれ消え後、蛇の刺繍が施された黒のローブに全身を包んだ者が姿を現した。


 「お呼びでしょうか、ご主人様」


 蛇のローブを纏った従者は恭しく首を垂れるとくぐもった声で主に伺いを立てる。


 「……ザッハークよ。双魔に伝えよ、妾が顔を所望しているとな。時期は双魔の都合に任せよう……男を待つのも良き女の条件だ」

 「……承りました、それではただちに」

 「うむ、下がるが良い」


 ザッハークと呼ばれた従者は再び恭しく首を垂れ闇に融けるように姿を消した。


 「…………そう云えば、双魔と契約したという遺物を連れてくるように云うのを忘れたな……妾としたことが……」

 『キット連レテクルヨ!双魔ハ気ガ利クカラ』

 『ソーソー、大丈夫大丈夫』

 「……ウフフフ……主らは騒がしくて敵わんが……たまには良いことを云う……さて、もうひと眠りしようか……ウフフフフフフ……」


 美女、”千魔の妃竜”は機嫌が良さそうに笑みを浮かべながらゆるりと寝台に潜り込む。そして、数秒と経たぬうちに寝息を立てはじめる。


 柔らかな寝台の奥、微睡の世界に愛しい弟子の姿が見えてくる。強大なる神代の魔女はその幸福なる夢に思いを馳せる。穏やかな寝顔は妖艶さと可憐さを併せ持つ魔性の乙女のそれであった。

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