第102話 野相公の心配

 鏡華が夢の中で記憶の世界を巡り歩いている頃、六道家の屋敷の庭に一つの人影があった。


 紫の漢服を身に纏い、雪に足跡を残すことなくふわふわと進んでいく。


 いつの間にか姿を消していた浄玻璃鏡だ。


 庭の隅に建っている小さな仏堂の前まで来ると、扉が触れていないにもかかわらず、ギギギッと音を立てながらゆっくりと開く。


 「…………」


 仏堂に入ると、そこには仏像が安置してあるわけではなく、只々古めかしい井戸がぽっかりと口を開けていた。


 「…………」


 浄玻璃鏡は物言わぬまま井戸の中へ飛び込んで姿を消した。その直後、大風が一陣吹くと仏堂の扉はバタンと音を立てて勢いよく閉まった。


 井戸に飛び込んでからしばらく落ちるがままに身を任せていたが、やがて足元に光が見えてきた。


 暗闇の隧道ずいどうから抜け出し、足が地面に着く直前でふわりと浮き上がる。


 井戸の穴を抜き出た先は何処かの宮殿の中だった。


 古代中国の建築様式の荘厳な内装、傍には朱塗りの巨大な柱がそびえ、奥に目をやると回廊が延々と続いている。


 それだけ広大な宮殿なのに浄玻璃鏡が降り立った場所には人影が一つもない。


 それでも、浄玻璃鏡が動くことはなかった。降りたった場所でふわふわと浮遊しながら、長い長い回廊を眺めている。


 すると、回廊の向こうに人影が現れ、段々とこちらに近づいてくる。


 常人の目では小さくてはっきり見えないだろうが、遺物である浄玻璃鏡にははっきりと見える。目的の人物で間違いなかった。


 しばらくすると、白髪に束帯姿の老人が息を切らせながらやって来た。


 「はあ…………はあ……待たせたな」

 「…………大……丈夫…………だ……其方……こそ…………大丈夫…………か?」


 老人は浄玻璃鏡の傍まで来ると膝に手をついて荒くなった息を整えはじめた。


 「ふう…………年寄りにこの廊下はこたえるな。よし、問題ない」


 老人はしゃんと姿勢を正し、表情を引き締めた。


 「話は聞いている。山縣が戻ってきたとな…………鏡華は力を使うことになりそうか?」

 「…………そう…………だな」


 老人の問いに浄玻璃鏡はゆっくりと首肯した。


 「そうか……うむ、大王様には既に話を通してある。暴走しそうになった時にはお主がどうにかせよとのことだ」


 浄玻璃鏡はもう一度首肯する。


 「問題…………ない…………婿殿も…………いることだ」

 「おう、そうだったな!童は元気か?連れて来た遺物はどうだった?」


 顔を綻ばせる老人に浄玻璃鏡は薄っすらと笑みを浮かべるだけだ。


 それで満足したのか老人は腕を組んで嬉しそうに何度も首を縦に振った。


 「そうか、そうか…………それならよい。では、鏡華のことは頼んだぞ」

 「ああ…………大王……に…………よろしく…………頼む」


 そう言うと浄玻璃鏡は老人に見送られながら天井に空いた地上へと繋がる穴へと戻っていった。


 誰もいない回廊には老人一人が残された、と思いきや向こうから幾人もの人影がこちらへと走ってくる。


 「相公しょうこうさま!早くお戻りになってください!」

 「大王様の前で仕事が滞ってしまいます!」

 「こちらの書類に花押かおうをお願いします!」


 皆一様に手元に巻物や紙束を抱えて、焦った表情を浮かべている。


 「分かった、分かった!今戻る!わしの机に並べておけ。綺麗にな」


 老人の言葉を聞くと部下たちは揃って身を翻して走っていった。


 「さて、我が孫は正しく裁けるものか…………」


 白髪頭をガリガリろ掻きながら、ひとちた老人の言葉を聞いた者は誰もいなかった。


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