第98話 神童の成れの果て
少々皺の寄ったベージュのスーツを纏った
手には細長い紙袋とコンビニのビニール袋をぶら下げている。
自分の足音と時々吹く風の音以外は何も目に入らない。闇の中をゆっくりと進んでいく。
しばらく歩くと目の前に廃れ果て雪にまみれた屋敷跡が見えてくる。
土塀は所々崩れ落ち、ひび割れた隙間からは雑草が生い茂っている。
山縣はここまで来た足取りを変えることなく、屋敷の周りをぐるりと一周回った。
感慨深げな表情、目が微かに潤んでいるように見えたのは狐の悪戯だろうか。
元の場所まで戻って来た山縣は両目を閉じて長く、長く息を吐いた。
そして、目を開けると風雨に晒されて朽ちた門に手を当てて力を込めて押した。
本来は
「…………」
門をくぐって屋敷に一歩足を踏み入れる。
「…………?」
その瞬間、妙な違和感を感じた。が、原因の見当はつく。何者かが施した結界が反応したのだろう。
しかし、それも時によって劣化したのかそれだけで何の変化もない。
「…………」
山縣はそのまま屋敷の中を勝手知ったる様子で進んでいく。
玄関の引き戸はガラスが割れて家の中がそこから丸見えだった。
枠だけになった引き戸の奥の廊下は嫌に明るい。恐らく屋根が抜けて月光が差し込んでいるのだろう。
「…………」
下手に玄関から入ると途中で崩れて下敷きになりそうだ。諦めて庭の方に回る。
目にした庭は予想通り荒れ果てていた。草木は茫々になり、ガサガサッと音をたてて何かが逃げていった。
狸か狐が住処にでもしていたのだろう。繁殖した藻で緑色になった大きな池と庭石、苔むした石灯篭が在りし日の面影を思い出させた。
縁側に近づくとキュッキュッと足元で酷く物寂しい音が鳴った。
窓が倒れて砕け散った硝子が雪の下に散らばっているのだろう。
軽く雪を払って縁側にそっと腰を掛ける。ギシギシと危なげな音がしたが崩れることはなさそうだ。
山縣は一息ついた。そして振り返る。
夜闇と月光が入り混じった屋内が目に入る。三十年の時を経ても、夥しい血痕は朽ちた柱にくっきりと残っていた。
風が吹く。ガタガタと音を立てて屋敷が泣き叫ぶ。
鼻腔を、既に消え去ったはずの血の匂いが。耳にはあの日の不気味な静寂が蘇る。
「へへへ……おかしいねぇ…………どうして、あっしの人生はこんなことになったんだかねぇ…………」
紙袋から酒瓶を取り出すと一度立ち上がり、栓を開けて血の染みついた柱に瓶の中身をかけてゆく。せめてもの弔いだ。
瓶が空になると縁側に腰を掛けなおした。
紙袋からもう一本の酒瓶を、ビニール袋から紙コップを取り出す。
酒瓶の蓋を開けると縁側に置いた紙コップに向けて傾ける。
トクトクトクッと小気味のよい音をたてて透明な液体が注がれていく。
「…………おっとっと」
溢れそうになる酒を見て慌てて瓶を持ち上げて、自分の横に置いた。
見上げる月は憎らしいほど美しい。かつて自分が打っていた、今はもう決して打てないであろう刃の煌めきを連想させた。
コップの縁を口に着けてゆっくりと傾ける。ツンと鼻につく独特の香りと共に、後悔と罪悪感、冷めきった狂気様々な感情から生まれる熱に苛まれる胸中を冷やすように酒が身体の中に流れ込んでいく。
「ふう…………」
空になった器を片手で弄びながら、池に映った月を見る。汚れた水面に浮かぶ月は天上と同じく美しい。
…………嗚呼、あの時自分は何に憑りつかれたのか。まつろわぬ神か、鬼か。
…………嗚呼、自分の何が悪かったのか。
…………嗚呼、外道に堕ち、歩みを止めずにここまで時を過ごした自分に悔いる資格はあるのか。
寒風に吹かれながら、老いた寂しい背中は段々と丸まり、やがて山縣の意識は微睡の沼へと沈んでいった。
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