白と黒の狭間の春日瑠海
「だったら……何だって言うのよ? それと美歌が目覚めないの、本当に関係あるの?」
「真奈海ちゃん、まだわからないんですか……?」
真奈海の顔からは困惑の色が溢れ出ている。その色は喫茶店の小さなテーブルに運ばれたコーヒーの色と混ざり合い、焦げ茶色のその香りはより苦味を増しているように感じられた。
「だって……美希さんが言ってたじゃない? 美歌が眠るのは心の病気じゃないかって」
真奈海はそんな言葉を吐露する。自信なさそうに、弱々しい声で。
「美歌が……事故で両親を失ったのは自分のせいじゃないかって思い始めて、そのせいで自分を責め続けてるんじゃないかって、まだ目を覚まさないのもそのせいじゃないかって……」
それは単純に、真奈海の困惑の言葉以外の何物でもなかった。僕は黙って真奈海の声を聴くことしかできないけど、糸佳に至っては完全に呆れ顔だ。
「だから、今だって美歌が目を覚まさないのは……」
「真奈海ちゃんが言いたいことはそれだけですか?」
そしてついに糸佳は真奈海の次の言葉を遮った。
「それを美希さんから聞かされた時、一番最初に否定したのは真奈海ちゃんでしたよね?」
「っ…………」
糸佳の言うとおりだった。実際誰よりも美歌のことを信じていて、美歌のことを一番待っていたはずなのは、『BLUE WINGS』の最大のパートナーである真奈海だったはず。いつもお互いに助け合って、競い合って、真奈海がアイドルとして向かう先を見失いかけたときも、美歌はそんな真奈海をいつだってサポートしていた。美歌のことだからいつも無鉄砲なくらいにがむしゃらで、真面目で、真奈海に負けないくらいに一生懸命だった。
真奈海はそんな美歌のこと、誰よりわかっているはずだったのに――
「真奈海ちゃん、どうしてあの時と話が変わってるんですか?」
「…………」
すると真奈海は、もう一度隣りに座る僕の方を睨んでくる。
……というよりも、やはりいつもの真奈海の顔。僕に対してだけ見せる、真奈海の顔で。小さな捨て犬が困り果てたように、その丸々とした瞳で僕に何かを訴えかけようとしてくるんだ。
「ほら。またそうやって、優一くんに助けを求めようとしてるんですよね?」
だけどそんな真奈海を糸佳は絶対に見逃さない。さっきと同じように、真奈海の逃げ道を塞ぐんだ。糸佳は鋭い猫のような目で、真奈海の視線の先を潰そうとする。すると真奈海は黙ったまま、しゅんと小さく縮んでしまった。
まるで文香さんのお説教のようだ。糸佳の言葉にはそれくらいの破壊力があった。
「そういうの、イトカ、本当に許せないんですよ……」
だけど糸佳の口調も徐々に弱々しくなっていき――
「そんなの、イトカの知ってる真奈海ちゃんなのに、イトカが尊敬している春日瑠海とは程遠くて……そういうとこ全部ひっくるめて、真奈海ちゃんのこと昔から大嫌いでした!」
そして唐突のカミングアウト。糸佳の五年分の想いが、その言葉に込められていた。
「イトカに恋を気づかせてくれたのは真奈海ちゃんだったのに、そんな真奈海ちゃんが恋愛にはものすごくだらしくなくて、イトカたち周囲の人全員を巻き込んでくれちゃって……」
えっと、それというのはつまり……僕は急に思わず耳を塞ぎたくなったけど。
「だからイトカだって、真奈海ちゃんがアイドルやるのを応援したかったんです! 真奈海ちゃんがアイドルになれば優一くんとの関係性も何か変わるんじゃないかって、イトカ期待してたんです」
「…………」
「なのに、相変わらず優一くんの前ではそんな調子で、見るに耐えられません!」
こんな調子……。これでもかと思うほど、僕の横で小さく萎んでしまった真奈海は、完全にノックアウト寸前のようだ。僕も全く似たような状況ではあるけど、今の真奈海ほどではない。
「真奈海ちゃん。あなたは本当に、春日瑠海なのですか?」
そして糸佳はとどめの一言を真奈海に突き刺してくる。
恐らく今の真奈海にとって、一番言われたくなかった言葉のはず。春日瑠海という自分自身の妄想に取り憑かれてしまい、本当の春日瑠海の正体が誰よりもわからなくなってる、それが春日真奈海の本音だったはずだから。
すると真奈海は今にも押し潰されそうな声で、こう答えたんだ。
「女優を休業して、アイドルになれば、その答えがわかると思ったんだけどね」
何もかもを、全てを観念して、真奈海は小さく微笑んでいる。
「でも、結局わからなかった。春日瑠海が何者なのか、自分でも……」
コーヒーカップの手元まで伸びた真奈海の手先が僅かに震えている。言葉一つ一つを選びながら、自問自答を繰り返しているようだった。
「国民的女優とか、三下アイドルとか……そんな名前、正直わたしにはどうでもよかった。だってわたしはみんなを笑顔にしたかっただけだもん。なのに、そうした中で積み重なってしまった春日瑠海という偶像が、いつの間にかわたしの知らないところで大暴れしてた」
真奈海の目は虚ろのまま。灰色に染まっている。
「わたしだって怖かった。いつの日か、自分が自分ではいられなくなっちゃうんじゃないかって。だからいろんなことを試してみた。ユーイチに告白したり、見事に振られて女優を休んでみたり、だけど急にユーイチを殴りたくなったからアイドル始めてみたり……」
無表情のまま、小さく笑う真奈海。……お願いだから急に殴りに来ないでほしい。
「だけど結局変わらなかったんだよね。春日瑠海は、春日瑠海のまま。本当に困ったやつだよ、春日瑠海っていう亡霊は〜」
声は笑っているのに、顔は笑っていない。白と黒が交差したところに今の真奈海がいる。喫茶店の中、まるでこのテーブルだけが異世界へワープしてしまったようで、真奈海の笑い声は世界を断絶へと導いていた。
「きっと、イトカはそれが原因だと思うんです」
「え……?」
すると糸佳は先程までの冷たさは覆い隠して、真奈海に優しい笑みで返した。
「真奈海ちゃんのライブに華がないのも、美歌ちゃんが目を覚まさないのも」
「おい糸佳? それが原因ってどういう意味だ?」
だけど僕と真奈海は急な糸佳の話の切り返しについていけてなくて、やはり互いに顔を見合わせてしまう。糸佳にその言葉の意味を求めようとしたが、糸佳は笑いながらこう返してきたんだ。
「つまり、全部真奈海ちゃんのせいってことですよ!」
全ての責任を真奈海に押し付けた。でもそれは、どこかで聞いたような言葉。
「そういえば昨日お母さんから聞いた話なんですけど、『BLUE WINGS』の新メンバーの話、やっぱりなくなっちゃったみたいなんです」
「って糸佳ちゃん? 今、急に話が変わったよね??」
「本当は最近事務所に入ってきたばかりの声優志望の女の子を新メンバーにって話があったらしいんですけど……」
「あ〜それって、少し前にVTuber作製の依頼があったあの女の子のことか?」
「ですです! なんですけどその女の子、歌は歌えないって言い出したらしくて……」
「え。てことはVTuberについてもひょっとして……」
「いえいえ。VTuberのことは正直どうでもいいんですけど、『BLUE WINGS』としてのデビューはなくなったそうです」
「……いやそれ、僕にとってはどうでもよくないから!」
つまりそれは今月の僕のお小遣い、半減ってことか???
「なので、もし美歌ちゃんが年内に復帰できなかったら、イトカが代わりに『BLUE WINGS』メンバーになろうって、お母さんに打診してるところです!」
……なんだって???
僕と真奈海はまた顔を見合わせた。本日、三回目?
「イトカは歌って踊れませんけど、キーボードで真奈海ちゃんをバックアップします!」
などという突然の爆弾発言をぶっ放してきた童顔女子高生。
それはそれで大丈夫なのかと本当に心配なんだけど、糸佳の顔は笑顔に満ちていて、どこまで本気なのかもはや判断がつかない。また厄介なことになってないかと思ったわけで。
ひとまず、美歌には早く眠りから覚めてほしいと、心から願った。
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