春日瑠海というアイドル

「…………」


 真奈海はまだ黙ったまま。京都駅のこの場所で、どのくらいの時間が止まってしまったのかわからないほどだった。

 元々茜が書いた今日のMC台本は、美歌がいないという時点で全て白紙となっていた。昨晩僕は茜に台本の再作成を依頼しようとしたけど、真奈海がそれを止めてきたんだ。『曲目はこれまで通り、変更なし。MCについてはわたしが全部アドリブでなんとかする』って。僕はそれで大丈夫なのか?ってちゃんと確認もした。それでも真奈海は『わたしは春日瑠海だもん。それくらいなんとかする』と。一度言い出したら他人の言うことなど聞く耳を持たないのは、女優春日瑠海の頃から何一つ変わっていない。


 とにかく我儘で、傲慢で、そして誰より負けず嫌いの春日瑠海。


 だけどここにいるのは女優ではなく、アイドルの春日真奈海なんだって。周囲がどんなに女優春日瑠海を追い求めても、ここにはその面影すらも存在しないんだ。


 きっと、誰も求めていない春日瑠海。

 きっと、誰も認めたくない春日瑠海。

 きっと、誰もが嫌いな春日瑠海――


 ただし、本当にそうなのか? 春日瑠海――春日真奈海という一人の女子高生アイドルは、皆が追い求めている春日瑠海じゃないとでも言うのか?

 きっと皆は勘違いをしている。なぜならここには春日瑠海がちゃんといるじゃないか。感情があまりにも丸出しで、周りがどんなに認めたくなくても、ここにいるのは僕のよく知ってる真奈海であることに違いないんだって。


 だって、いつもと同じように舞い上がり、いつもと同じように笑ってるじゃないか。


 ジャ〜ン!!!!


 唐突にエレキギターの和音がスピーカーから鳴り響いた。もちろんその音の出処は、舞台の上から大階段へ音を響かせる巨大スピーカーからだ。どこかで聞き覚えのある和音だけど、それが何であったのかはすぐには思い出せない。ただその濃厚な音の響きに会場がどよめき、それに釣られて春日瑠海も我を取り戻していた。続けて間もなく流れてきたのは今日の二曲目のイントロだった。そしてすぐに僕は思い出す。さっきの和音はこの曲の一番最初のコードだってことに。


 僕と同じことを思い出したのだろうか。春日瑠海も再び立ち上がり、前を向いたんだ。


「今日はね、たくさんの人が来てるから、わたしも頑張る」


 ダンスを踊り始めるのと同時に、MCを続ける。再チャレンジする。

 動きながらの台詞に、春日瑠海の息が震えている。こんな風に踊りながらMCをするのは、春日瑠海にとって初めてかもしれない。


「だからみんな、最後まで楽しんでいってね!!」


 二曲目は『Stairs』。その歯切れの良いダンスミュージックのイントロの音楽に折り重なるように、春日瑠海の声が響き、もう一度京都駅の大階段が歓声に包まれていた。


「ちょっとお兄ちゃん? 今日のディレクターはお兄ちゃんなんですから、もっとしっかりしてくださいです!! ライブが止まっちゃうじゃないですか!!」


 ライブを止めちゃっているのは、僕だけじゃなくてむしろ真奈海だと思うんだけどな。

 ここはステージの舞台裏。声の方を振り向くと、糸佳がエレキギターを片手にして僕に喝を入れてきた。どうやらさっきの和音は、糸佳の即興演奏だったようだ。その声こそ僕や真奈海をもう一度奮い立たせるのに十分すぎるほどだったけど、糸佳の顔はどこか頼りない幼さを残し、やや半泣きな状態だったことをさすがに隠せずにいる。


「ああ……」


 僕らはひとりじゃない。

 ここにいるのは春日瑠海だけじゃない。観客もいる。糸佳だっているし、僕もいる。

 美歌はここにはいないけど、だけど僕らの声はちゃんと美歌にも届くはずだから。

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