優一から見える真奈海がいる風景
「……わたしはね。あの時もう引退するべきなのかなって、本気でそう思ったんだ」
「あの時って……夏の、あのライブのときか?」
「うん、そう」
真奈海の突然のカミングアウトに、僕はどう受け止めていいか少しばかり躊躇した。そもそも真奈海にとって『引退』とは何のことを指すのだろう? 茜に『ポンコツ』などと評価されてるアイドル活動のことか。それとも、芸能界全体からの引退を指しているのだろうか。誰もがその実力を評価する女優業まで辞めるつもりだったのだろうか?
だけど僕には怖くて、それを真奈海に聞くことはできなかった。もし仮に真奈海から出てきた答えがある一定の驚愕を超えるものだとしたら、僕はこの場で正気でいられるか、自信がなかったからだ。
「糸佳ちゃんに大声で『歌ってください』って叫ばれても、観客からも『頑張れ〜』って励まされても……」
かすれそうな声が、透き通るように耳に響いてくる。
「……だけどわたしはあの時、歌うことができなかったんだよね」
真奈海はまだ俯いたまま、言葉を吐き出したんだ。零れ落ちるような声で、弱々しくもあり、真奈海が本当にあの春日瑠海なのか思わず疑いたくなるようなそんな態度で。
真夏の海の、あの春日瑠海らしくない姿がもう一度目の前で再現されようとしている。ごく普通で、ありきたりの女子高生となってしまった春日真奈海が、僕の前に姿を現す。僕はそんな女子高生を守ってやりたいと、おこがましいことまで考えてしまいそうだった。大人さえも思わず喰ってしまいかねない、そんな演技を魅せる春日瑠海はどこへ行ってしまったのか。――いや、真奈海はもう女優ではない。真奈海は、女子高生アイドルの春日瑠海だ。
女優とアイドルの間に、どんな差があるのだというのだろう。そんなもの、どこにもないと思うのに。僕よりも少しだけ背の低い真っ白な女子高生の姿をもう一度見て、僕は小さく息を呑み込んだ。
街路樹の灯りが、真奈海の白い吐息を照らし出していた。まだ冬を迎えていないとは言え、こんな夜遅くの川辺を歩くには、浴衣に半纏姿というのは少し寒すぎたかもしれない。今更ながらそう思い、僕は半纏を少し脱ぎかけ、真奈海の着た半纏の上に重ねようとした。
が、真奈海はそんな僕に気づき、それより先に僕の半纏の左半分を奪い去ると、くるくるくると僕の半纏の中に入ってきた。どういう状態かと言うと、僕の半纏の左半分を真奈海が使い、右半分を僕が使っている状態。
……って、これはさすがにちょっと、いろいろまずいんじゃないか?
「だめよユーイチ。こんなところでユーイチが半纏を脱いだら風邪引いちゃうよ?」
「いやそうじゃなくて、こんなところ他の人に見られたら確実にスクープものだよな?」
真奈海の体温がぎゅっと僕に触れてくる。熱が僕の体内に入ってきて、そのまま心臓を握りつぶされそうな感覚があった。
仮にもここは目の前に渡月橋が見える場所。そんな場所で変装も中途半端な状態の春日瑠海が、男と旅館の半纏を半分こだなんて、週刊誌のネタにされてしまってもおかしくはないレベルだ。
「大丈夫だよ。暗いし誰もいない。だからきっと、ごく普通の高校生カップルがいちゃついてくるくらいにしか見えないよ」
「この状況がごく普通の高校生かどうかは甚だ怪しいがな」
僕は真奈海の声に反発しながらも、結局何も言い返せずそのままになってしまう。一つの半纏の中で、真奈海と僕の身体が一つになる。本当に大丈夫なのかと僕も不安ではあるはずなのに、その気持ちはどうしても負けてしまう。全ては、真奈海のなすがままに――
旅館の男物の半纏とは言え、その中に高校生男女が入ったら決して大きくはない。その証拠に、さっきから真奈海の身体が僕に密着しすぎていて、その柔らかい凹凸のラインが僕にもはっきりとわかる程だ。冷たい夜風とは真逆の、真奈海の温かい体温が僕の身体の左半分と共有している。
僕の心臓は高鳴るばかりで……僕は一体、どうしてしまったのだろうか。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます