名作曲家『ITO』の無邪気な企み
「今日は美歌ちゃんと真奈海ちゃんとイトカの三人で下校しようとしたら、校門の前で男子たちに取り囲まれてしまったんですけど……」
「ほぉ……」
それ以前に今は美歌と真奈海が近くで歩かない方がいいと思うが……。
「真奈海ちゃんとってもずるがしこいので、イトカを盾にして、そのままひゅるひゅると校門から外へ出て行ってしまったんです!」
「イトカを、盾に……?」
「おかげで気づいたらイトカが真奈海ちゃんになってる気分でした!」
「うん。それはないね、残念ながら」
……が、今の糸佳の説明で、状況はすぐに理解できた。なぜならそれは、僕も真奈海にやられたことがあるからだ。というより真奈海の十八番技。
僕の場合、真奈海とデート……と真奈海本人は言っているが、そんな言葉の定義づけの話はひとまず置いておくとして、真奈海と二人で隣町まで買い物に行くと、真奈海の完璧な変装にも関わらず、それでもバレそうになってしまい声をかけられてしまうことがあった。その声をかけてきた相手が、可愛らしい女子高生だったらよかったのだが、運の悪いことにやや顔の怖そうなお兄ちゃんだったりして。そうした場合に真奈海が使う技がまさにそれなんだ。真奈海は僕の背後にすっと回り込むと、相手が僕と話をしている隙に、すっといなくなってしまう。気が付くとそこに残されたのは僕一人で、しまいにはなぜ僕がそんな兄ちゃんに絡まれているのか、全くわからなくなるんだ。
ようやく脱出した僕を真奈海はどこかで待ち伏せしていて、『ごめんね』とか笑顔で平謝りしてくるわけで。そんなことがあるから、僕は尚更真奈海とはデートとかしたくないんだ。
まぁ春のあの日以来、そんなデートをする機会がなくなっていたのも事実だけど。
「それで、糸佳は結局真奈海の気分は味わえたのか?」
「はいです! 気づいたらイトカもサイン求められてました」
「なにゆえ!???」
「だってみんなそういうサインとか欲しがるんですもん」
真奈海ではなく、誰が糸佳のサインなんて欲しがるというのか?
…………まさか?
「ひょっとしてその糸佳のサインって、『ITO』とか書いてたりしないよな?」
「もちろん、書きましたですよ?」
「…………おい」
なるほど。およそその状況がつかめた。恐らく最初は美歌と真奈海にサインを求めていた男子の列のはずが、真奈海の巧妙なトリックによって、気が付くと、美歌と糸佳のサインを求める列にすり替わっていたということか。
そこで美歌の方はAIの独自プログラミングによって生み出される見事なサインを描き、その横に糸佳が業務書類用の『ITO』というサインを並べる。『ITO』のサインは音楽業界専用のサインであって、普段は一般に出回ることもない。当然そこら辺の男子高校生が、業界では名の通った作曲家『ITO』のサインを目にすることはないだろうし、書き慣れている糸佳のサインを見ても『なんだか本物の芸能人サインみたいだ』くらいにしか思えないだろう。
「大丈夫ですよ~。『ITO』のサインなんて、みんな誰も興味ないですし~」
「そういう問題なのか……???」
……いやいや、作曲家『ITO』は『BLUE WINGS』の作曲だってしてるわけだし、その事実は調べればすぐ誰にだってわかるレベル。何かの拍子で『ITO』のサインが照合されてしまう事案が起きる可能性もゼロではないと思うが。
「ところで真奈海ちゃん、まだ帰ってないんですか?」
「え……?」
そんな心配をよそに名作曲家『ITO』は、小さな子供が何かをねだっているかのような円らな瞳で、僕に質問をぶつけてきた。
「イトカたちより先に帰ったと思ったんですけど……」
「あ~。真奈海なら地下スタジオでダンスの練習でもしてるんじゃないか?」
「そういえば今週末もライブでしたよね……う~ん……やっぱしダメかなぁ~……」
「糸佳……? ダメって、何のことだ……??」
すると糸佳は難しそうな顔して、何かを考え始めた。それは作曲する際に見せる悩む顔とは、少し違った顔。作曲するときは頭の中に難しい計算式をたくさん並べ始めて、その中からひとつひとつの音を選ぶように……そんな顔をすることが多い。でもやはり、それとは違う。
もっとシンプルで……いや、何かを照れ隠すような、そんな顔にも見える。
まさかこの糸佳の企みのせいで、これから初秋の一か月、奇怪な出来事に遭遇することになろうとは、この時の僕は何一つ予想さえしていなかったわけだけど……。
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