糸佳の父の夢
終点の一つ手前、小さな駅へと到着する。ドアが開き、数人が乗り降りするのを確認すると、そしてドアが閉まった。もう一度電車のモーター音が聞こえ始めた時、糸佳ちゃんはその話の続きを語りだした。
「あの頃、お父さんと喧嘩してまして……」
「喧嘩?」
その話の続きは、真奈海さんでも管理人さんのことでもなく、糸佳ちゃんの父親の話だった。先程糸佳ちゃんは『最後の家族旅行』と言っていたけど、それがそういう話にもなれば……。なるほど、さっき『切ない』と言った本当の意味がわかった気がする。
「はいです。お父さんの期待に、イトカは応えられませんでしたから……」
糸佳ちゃんはゆっくりと瞼を閉じ、そしてもう一度開いた。まるで空の上にある何かを探すように上の方を向くと、口を少しだけ小さく動かす。
「イトカのお父さん、イトカを女優にさせたかったんです」
そして、父親の夢を、糸佳ちゃんは自分に言い聞かせていた。
「女優ですか? でも糸佳さんは……」
「イトカにはそんなの、ムリだったんですよ……」
糸佳ちゃんは小さく笑っている。その顔は少しずつ、濁っていく。
「最初はイトカもオーディションとか受けてたんですよ? でも悉くうまくいかなくて、何度も何度も失敗して……」
「…………」
「その度に父さんは、難しい顔をたくさんしてました」
糸佳ちゃんは、にっとした笑みを返してきた。その顔の向こう側にあるものを、あたしには絶対に見せないようにしているのかもしれない。
その頃は、糸佳ちゃんの父親が芸能事務所の社長だったんだ。そんな父親が、自分の娘を女優にさせたい――それは確かに有り得そうな話のようにも聞こえた。もっとも糸佳ちゃんにとっては、プレッシャー以外の何物でもなかったかもしれないけど。
「そんな時なんですよ。イトカと同じオーディションを受けてた事務所の女の子が、連続ドラマの主役に合格したんです!」
「それ、ひょっとして……」
もう一人のあたしも、同じ結論に至ったようだ――
「はいです。それが、真奈海ちゃんです!」
糸佳ちゃんはもう一度大きく、瞬きをした。
「そしたら父さん大喜びで、泣くほど真奈海ちゃんを祝福するんですよ」
「…………」
「あんなに嬉しそうになくお父さん、イトカも初めて見ましたし、なんだか見ているこっちが恥ずかしくなってきちゃったんですから」
「でもそれは……」
「それから間もなくなんです。名古屋に住んでた真奈海ちゃんが、チロルハイムへ引っ越してくることになったのは」
「あの……それって、糸佳さんには……」
すると糸佳ちゃんは、大きく笑いながらこう返してくるんだ。
「そんなの、嬉しいに決まってるじゃないですか! だって、あんなに父さんが喜んでいたんですから」
「え……?」
その言葉は糸佳ちゃんのその表情から、何一つ偽りのない、そんな言葉にも感じた。自分が成し遂げられなかったことを、自分以外の同じ年の女の子が達成して、それを自分の父と共に祝福する。その理由は、父が喜んでいるから。そんな理由であれば、確かにそれなりの説得力があった。
でも、だからって……本当にそれだけだっただろうか?
「美歌さん。もうすぐ、鎌倉駅へ到着しますよ〜」
「……あ、はい」
呆気にとられたかのように、もう一人のあたしは慌てて返事をした。
空はまだまだどんよりしている。腕にはじめっとした熱が、まとわりついていた。湿度もかなり高そうだ。あたしの心も身体もすっきりしない重い空気が、そこら中を漂っていた。
「真奈海さんと鎌倉へ来たのは、そんな頃だったんですよ」
糸佳ちゃんの呟くような囁き声が耳に入ってきた。それは、あたしのもやもやを少しでも解消してくれそうな、そんな声だったんだ。
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