鎌倉の海と紫陽花の記憶
湘南の海
どんよりとした厚い雲に覆われ、僅かばかりの光に照らされた白い海が、窓の外をゆっくり流れていく。六月も間もなく中旬。梅雨入りを知らせる空模様が、あたしの視界に飛び込んでくる。二両編成の小さな電車は、海沿いの線路の上を、静かに鎌倉へ向かって走っていた。
日曜日、早朝。このシーズンの週末は大混雑しますという糸佳ちゃん情報もあり、あたしたちは朝七時にチロルハイムを出発したんだ。今朝のあたしは六時前には起きていたわけで、いつもの平日の朝より随分と早く、さすがに眠い。糸佳ちゃんは『ライブのある日はいつもこんなもんです!』と得意気だったけど、それを聞いただけで『あたしに芸能活動なんて無理だ……』などとふと思ってしまった。
もっとも今朝起きたのは、あたしではない。もう一人のあたしだ。
つまりAIであるあたし。前日に『明日は朝五時半起き』と言われれば、完全無欠のクロック信号で、朝五時半ぴったしに目覚めてくれる。たとえどんなに睡眠時間が少なくても、まず寝坊という概念を知らない。あたしにはそれが羨ましいというより、むしろ恐ろしいのだけど。
AIのあたしが起きていたとしても、実はあたし自身が起きていない時もある。が、今日のように出かける準備でAIのあたしがぱたぱた動き始めると、自ずとあたしの脳も強制的に起こされてしまう。あたしはうつらうつらしながらも、身体は勝手にぱたぱたと動くわけで、こうなると強制的に目覚めるという選択肢以外ないのだ。
これが毎日繰り返されると、さすがにあたしの脳は全くついていけなくなることもある。本当に辛い。対策としては管理人さんに頼んで、AIのあたしにわざと遅めの時間に起きるよう指示してもらうこともあるくらいだ。あたしともう一人のあたしは直接会話はできないし、あたしがどんなに念じても、AIはその通りに動いてはくれない。だから管理人さんにAIのあたしへ伝言を頼む。そうすると、ちゃんとその通りに起きてくれるという寸法だ。
ところでなんで糸佳ちゃんや真奈海さんにではなく、管理人さんに頼むんだっけ? ……ま、そんなのはどうでもいっか。
「美歌さん。今日も残念ながら曇ってしまいましたね……」
「海…………」
なお、電車に乗っている現在も、あたしはAIの方のあたし継続中だ。あたしは窓の外に広がる海の光景をその視界にはっきり捉えてはいるけど、そこから別の場所へ視線を移動させることができない。今のあたしの行動は全てAIに制御を奪われているためだ。
「そういえば美歌さん、海を見るのは二回目でしたっけ?」
「はい。あの、先月見た海以来……二度目です……」
そんな風にAIのあたしが返事をしていた。
残念ながらそれは嘘。確かにAIのあたしは二回目かもしれないけど、あたしはというとそうではない。美希が海大好きな女の子だったため、夏になると家族で毎年のように三浦半島まで出掛けていた。ちょうどこの湘南の海からもう少し東へ行った辺りに、両親の別荘があったんだ。
あたしはそんなに好きではなかったかもしれない。肌がべとべとしてしまうのがどうにも苦手で、美希のように無邪気にはしゃぐことは、どうしてもできなかった。
だから海を見た時のAIであるあたしの反応は、あたし自身よりも美希の方が感覚として近い気がしている。なんだかそれは不思議に思えて、今あたしが身体を自由に動かせる状況なら、思わず笑みが溢れていただろう。
美希の懐かしい顔を、あたしはそのまま心の中へ受け入れた。
「やっぱし……海、好きなんですね?」
「え? ……どうしたんですか美歌さん?」
するともう一人のあたしは、突然こんなことを言い出した。
「きっと海は……みんな、大好きなんです」
それを聞いた糸佳ちゃんは、どこかきょとんとしている。
今のあたしも、きっと糸佳ちゃんと同じ気持ちだ。
「海は、人間の母なんですから、嫌いな人はどこにもいません」
その時、あたしの胸の中に、すっと生暖かい風が入ってきたような気がした。あたしの脳はもう一人のあたしに支配されてるから、本当は気のせいかもしれない。ただほんの少し、なんとなくではあるけど、そんなことを感じ取れた気がしたんだ。今のは一体なんだったのか、頭の中は整理できていないけど。
「……そうですよね。美歌さんの言うとおり、海が嫌いな人はいませんよね!」
あたしの代わりに、糸佳ちゃんがその言葉を返したんだ。
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