海沿いを走る車窓から
五月五日。天気はとても良く晴れていて、工場の隙間から見える海の景色は、遠くの方までくっきり見えていた。その水平線の距離は四キロメートルほどだってどこかで聞いたことがあるけど、本当はもう少し遠くまで見えているんじゃないかって、そんな風に期待してしまうほどだった。
小さな電車が工場の間をすり抜けていくように走り続けている。美歌はその電車のドアの前に寄りかかりながら、流れていく車窓をじっと見ていた。その様子はすっかり車窓の景色に溶け込んでいて、ここに写された一枚の写真に小さな華を添えているかのようだ。美歌には春日瑠美に似た凛々しいオーラが確かに存在するんだ。
「管理人さん、どうかしましたか?」
美歌は僕の視線に気づいたらしい。僕はその質問に思わずはっとなる。
「いや……。もうすぐ着くなって」
「あと、何分くらいで着きますか?」
「あと二駅だから、五分くらいかな?」
美歌はそれを聞くとにっと笑みを返してきた。子供のような笑み。
僕と美歌は、海沿いにある遊園地へと向かっていた。そこで今日は『BLUE WINGS』のライブがあるのだ。真奈海も糸佳もその準備のため、今日は早朝から出掛けていた。残された僕と美歌は、いつもどおり朝食を食べ、ゆっくりとチロルハイムを出発した。いつもと違った点はと言えば、『今日はあたしが朝食を作る』と、美歌が朝食を作ったことくらい。一人称『あたし』の美歌は恐らく僕よりも手際よく、あっという間に具材豊かな二人分の朝食を用意してみせたんだ。
「もうすぐ、着くんですね。私、楽しみです」
「……そっか」
が、いつの間にか美歌は一人称『私』の方に入れ替わっていたようだ。僕をライブに誘ってきたのは『あたし』の方だったけど、楽しみだと言うならそれでいいのだろう。
「……管理人さん、どうかしましたか?」
「あ、いや……なんでもない。美歌さんが楽しみだというなら、それでいいよ」
美歌は小さく笑ったかと思うと鞄からメモ帳を取り出して、そこに何かを書き始めた。ペンを左手で持ち、スラスラと絵のようなものを描いている。
……え、左手?
僅か数秒でそれを書き終えると、そのメモを僕の方へ見せてきた。
や〜い ひっかかった〜!!
その言葉の横に、あっかんべーをみせる似顔絵まで、そのメモに添えられてある。
「どう? 迫真の演技だったでしょ? 管理人さん!」
「お前、ガサツ系の方の……」
「なにそれ! 管理人さんにとってのあたしって、そんな風に見られてるの!??」
あ、しまった。少々失言……。
美歌は先ほどの風景からは想像もできない、プンプン顔を見せている。
「まぁいいけど……でも、楽しみにしていたのはほんとだよ?」
「そっか。ならよかった」
「あたしはちっとも良くないけど……」
とは言うものの、こんな美歌も人間味があると言うか、やはり可愛い。実際クラスの男子からは、あの神秘的な雰囲気がいいという評判を裏では得ていたりするけど、それについては美歌には秘密にしてある。そもそも『神秘的』がどっちの美歌を指しているのかわからないし……。
「そういえばさっき気になったんだけど、今って右手では文字を書けないのか?」
「え? ……ああ。そういえばあの子は右利きだったっけ?」
「『あの子』って……。まるで別人みたいな言い方だな?」
「仕方ないよ。実際別人なんだし。それにあたしは右手では文字書けないよ」
「そういうものなのか? 二重人格って」
「ま、あたしの場合は世間一般的に言われる『二重人格』とは全く別物だしね」
窓の外を眺めながら、淡々と話す美歌。ガラスに映る美歌の顔にはなんとも言えない複雑な表情が映っていた。
「あたしね。最初はあたし一人だったの」
そして何かを吐き捨てるかのように、美歌は話を続けてきたんだ。
「だけど、しばらく『あたし』がいなくなって、その間はもう一人のあたしがその代理を務めてくれていた。その時あたしは、完全にこの世界にはいなかったわけだから……」
「完全にいなかった……?」
美歌の言う『もう一人のあたし』というのは、要するに一人称『私』の美歌のことなのだろう。でもそしたら、その時『あたし』はどこにいたというのだろう? この世界ではない場所というのは……。
「そう。出てこようにも出てこれなかった。だって、あたしはもういないんだもん」
「それはいったいどういう意味だ……?」
「だけど突然、あたしがこの世界に戻されちゃったんだ」
僕の話を無視して、美歌はさらに謎めいたことを言っている。
「どうしてだろうね。一番最初にこの世界に戻された時は、本当は嬉しかったのかもしれないけど、それ以上に不安だった」
どうして―― 本当に美歌に何があったのか?
「何が不安だったんだ?」
「ん〜、少し違うかな? 正確には今でもめっちゃ不安だよ」
「今でも?」
「だって、あたしがもう一度今ここから消えていなくなっても、何も不思議じゃないんだもん」
――そんな風に美歌は答えた。笑いながら。
それでなんで笑っていられるのか、僕には理解しかねたけれども……。
「だからね。今日は管理人さんと、楽しみたいの!」
「あ……」
「真奈海ちゃんや糸佳ちゃんが生き生きしてる姿を、あたしは見ていたいんだ」
海辺に煌めく美歌の笑顔。――気づくと電車は、海沿いを走っている。
その美歌の顔は燦々と輝く太陽の光を浴びながら、きらきらと輝いていた。
目的地、ライブ会場はもう間もなくだ。
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