真奈海の三つの選択肢
「さすが美歌さん。時間ぴったりです!」
「……よくわからないですけど、メモに十七時半って書いてあったから」
「…………」
時間は確かに十七時半。ほぼぴったり。喫茶店『チロル』のドアが開いたのは糸佳が美歌に伝えていた時間ぴったりだったらしく、糸佳は目をきらきら輝かせながら美歌と真奈海の帰宅を向かえていた。
何のことか未だに理解しきれていない真奈海は、ただその場で呆然と立ち尽くしている。つまりこれは、文香と糸佳、そして千尋と胡桃が密かに企んでいたシチュエーションだったようだ。
喫茶店『チロル』の八人掛けの円卓には、僕の他に、文香、糸佳、千尋、胡桃が座っている。真奈海はそこから僕の姿を見つけると、ほんの小さくにっと笑みを浮かべると、迷わず僕の方へ近づいてきた。
およそ三十分ほど前から逃げ場を失っている僕は、当然抵抗しようもなく――
「ねぇ〜ユーイチ君。綺麗なお姉様方と何を話していたのかな〜?」
などと言いながら、真奈海は僕の頬をぎゅっと思いっきりつねってきた。
「痛いっつ〜の! この状況、どう見ても僕のほうが被害者だよね!?」
「そりゃ〜ユーイチ君の周りはいつも女性ばかりだもんね〜。ある意味いつもどおりだし、被害者には全然見えないよ〜?」
「無茶苦茶言うなって! それと今のこの状況はどう見ても関係ないだろ!」
どう考えてもとばっちりである。真奈海のことだから、自分には敵うはずもない事務所社長の文香や、先輩でもある千尋や胡桃に対しては、何か尋ねることを億劫に感じたため、ひとまず僕のところにちょっかい出しに来たのだろうということは容易に想像できた。頼りにされてるという言い方なら聞こえはいいが、正直全く嬉しくない。
しばらくすると真奈海は気が満足したのか僕の頬から手を離し、蛇のような目つきでこう言ってきたんだ。
「ユーイチのば〜か」
ぼそっと零したその声音は、大声で叫ばれるよりもずっと棘があった。
「ごっほん! 真奈海ちゃん? そろそろそれくらいにしといてね」
「文香さん……」
ここでようやく文香の助け舟……と言えるかわからないが、その一言で真奈海は花が萎むように一気にしゅんとなる。その態度は非常にわかりやすいのだが、真奈海らしいかと聞かれると普段毅然とした演技力を兼ね備えた真奈海とはかなり程遠い。真奈海の目に映る今の僕は、どういう存在なのだろう? ふとそんなことを思ってしまった。
「それで……この状況、どんな状況なんですか?」
いつの間にか僕の右隣に座っていた美歌が、ごくごく自然な態度で割り込んでくる。なぜ糸佳の隣ではなく、僕の隣?……などとも思わないことなかったが、そもそも今の美歌がどっちの美歌なのか、僕にはまだ判別できていない。
「女優の休業宣言をした真奈海ちゃんの将来を考える会議よ?」
「あれあれ? 今日ってそんな会議だったのですか? イトカ全然気づいてませんでした」
文香がようやく本題を口にする。つまりここまでの話はあくまで導線だったということだ。それには糸佳さえも気づいていなかったということか。
「真奈海ちゃんが元気ないからって、社長に誘われたのよ。どうしたら真奈海ちゃんを勇気づけられるかって、その相談に乗ってほしいって」
と、千尋。なるほど、先程の誘導的な話の流れもそういう話であれば納得がいく。
「まぁ〜その元気のない理由が優くんにあったってことは、ついさっき社長の言葉で知ったんだけどね〜」
「いやあの、そういうわけでは……」
……ある。そんな僕を胡桃が冷やかすような視線で見てくる。
いや、そんな胡桃の視線は全くもって気にならなかった。なぜならもっと恐ろしく強烈な視線が、別の方向から僕に浴びせられていたから。僕はその怪電波とも思える圧力を飛ばしてくる真奈海とは、絶対に視線が合わないよう心がけた。
「それで、私から真奈海ちゃんへ提案したの」
「提案……ですか?」
と、文香に聞き返したのは糸佳だ。
「女優を休んで、真奈海ちゃんはどの道へ進むべきか。その候補は三つ。一つは、休業という文字通り、一定期間女優業を休業する。もう一つは、休業ではなく、女優業そのものを引退する」
「引退……?」
文香から考えもしていなかった言葉がでてきた。ただ、実際に学業を優先したいという理由でタレントを引退した高校生は何人も知っている。だから決して不思議な話ではない。だけど真奈海に限って――国民的女優として絶対的地位を確立している真奈海に限って……。
「わたし、引退なんてする気は全くない!」
「……そして、最後のもう一つは、女優ではなく、別の道でタレントを続けること」
そんな真奈海の言葉を遮るかのように、文香は静かな声で最後のもう一つを挙げた。
「だってわたし、悔しいんだもん! 今まで頑張ってやってきたことが、全て否定されたみたいで。わたし、なんのために女優続けてきたんだろうって。それが、わかんなくなっちゃったの!!」
いつの間にか僕の左隣の席に座っていた真奈海は、俯いてそう吐露した。誰とも顔を合わせようとしない。ひょっとしたら溢れ出しそうな涙をぐっと堪えているのかもしれない。
「だけど……だから、見返したいの!!」
その言葉と同時に、真奈海は僕に強い眼差しをぶつけてきた。
真奈海の顔には少しだけ、目の辺りに小さく輝くものがあって――
「だから文香さん。さっきの提案のわたしの答えは……」
言葉こそ文香に対してだったけど、その声は明らかに僕の方へと向かっていた。
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