春日瑠海と春日真奈海
時刻は二十一時になっていた。
なんとかあの大量のお好み焼きを皆で食べきったのは、今からおよそ一時間ほど前。食べ始めたのが十九時くらいだったから、ちょうど一時間くらい皆で格闘していたことになる。その量を思い出すと、本気を出した春日真奈海の恐ろしさを改めて思い知ったと言うよりは、一体何に本気を出しているのかとも思えてくる。正直的外れもいいところだ。
父龍太と、糸佳の母文香の引っ越しの荷物は、およそここ喫茶店『チロル』に運び出されていた。元々ここには寝るだけために帰ってくることが多いというせいか、荷物の量はそれほど多くはない。特に大きな荷物といえば、文香のスーツ掛けハンガーくらいだろうか。管理人室名物、四十二インチの巨大テレビについてはそのまま残り、僕が明日から使用していいことになった。
これらの荷物は明日喫茶店『チロル』が開店する前、午前中には運び出される。引越し先は都内二十三区内の高層マンション。僕は今日聞かされたばかりなのでまだ行ったことはないが、そのマンションの三十二階、見晴らしの良い場所らしい。
僕は食事の片付けをするため喫茶店『チロル』に残っていたが、二十一時になるとまた皆集まってきた。荷物の運び出しが終わった龍太と文香、一旦自分の部屋に戻っていた糸佳と真奈海も『チロル』に戻ってくる。理由は喫茶店『チロル』に設置されたテレビで、春日瑠海が主演のドラマを皆で視聴するためだ。
このドラマは瑠海だけでなく、文香の事務所のタレントさんが何人か出演していた。そのせいもあってだろうか、エンディング曲に至っては、糸佳が『ITO』名義で作曲したというおまけ付きだ。
内容は、学校をテーマにしたヒューマンドラマ。
春日瑠海が演じるメインヒロインが、家の顔と学校の顔を使い分けながら、学校の諸問題をすぱっと解決していくという痛快なストーリーである。家では上品でおしとやかなお嬢様を演じているくせに、学校ではその大胆な行動ゆえに担任からは目を付けられ、それでいて一目置かれてもいる。くるくると惑わしてくる瑠海の表情に、視聴者はいつの間にか思わず釘付けになってしまう。
「ほんと。真奈海ちゃん、ますます演技上手くなったわよね」
春日瑠海。その正体はチロルハイム201号室住民、春日真奈海。
文香は自分の事務所のタレントに対してもかなり辛口評価で評判なのだが、その文香がこう言うくらいなのだから相当な演技力なのだろう。
「そんなことないです〜。わたしなんてまだまだですよ〜!」
「ふふっ。じゃ、一応そういうことにしておきましょうかね」
真奈海の謙遜に、文香は不敵に笑みで対抗する。正直、お互い少し怖い。
というのも、真奈海が謙遜する場合というのはおよそ真奈海本人が自信を持っている証拠なのだ。真奈海が自信のないもの……例として、真奈海が誤って歌などを褒められたときは、絶対にこうはならない。むしろ開き直って『どう、うまいでしょ?』みたいな態度を取ってくる。その光景はやや冗談ぽく思えて滑稽にも感じられるのだが、別の見方をするとこれは真奈海の負けず嫌いの裏返しなのかもしれない。
改めて思う。実にめんどくさい女子だ……。
「でもほんと、イトカも真奈海ちゃんの演技すごいと思います」
「そう……だな」
僕の隣りに座ってテレビを観ていた糸佳は、ぼそっとこう零してきた。
「真奈海ちゃんの演技は、イトカの憧れです。いつも励まされます」
「ああ、僕もすごいと思うよ。瑠海の演技力は」
「イトカもいつか真奈海ちゃんみたいに日本中を元気にしたいです」
「そうだな。いろんな意味で、破壊力があるもんな」
ふとカウンターにお好み焼きソースが置かれているのを見つけて、僕はそう答えていた。真奈海のやつ、お好み焼きを作り終わった後、冷蔵庫にしまうのを忘れていたようだ。後で片付けておくか。
ちなみにまだ部屋にはお好み焼きの匂いが少し残っていた。全部真奈海のせい。やはり僕のせいではない。その真犯人がこんな風に日本中のお茶の間を虜にしてくるんだから、本当にたまったもんじゃない。世の中、不公平だ。
そうこう話しているうちに、ドラマはエンディングを向かえていた。
急に文香が僕と糸佳の会話の中に混ざってきたのは、そんなタイミングだった。
「ほんとよね。なのに真奈海ちゃん、女優業を休業するっていうのよ?」
「「はい!??」」
文香の唐突なカミングアウトに、僕と糸佳は思わず顔を見合わせてしまった。
その話の渦中の張本人、真奈海はというと、糸佳の作曲したエンディング曲を熱心に聴いていた。もうその曲は、糸佳に何度も聴かされていたであろうに。
それでも――
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