第二〇話『少年、少女、初夏の風。』(前編・その5)


「そしてもう一つ……『誰かと入れ替わった』可能性……私なら、の説を推すな」

「……それはちょっと、無茶っていうか、ナンセンスすぎね?」

「いくら前科者とはいえ、誰とも顔を会わさない生活ってのが、やっぱり気になるのよ。それに、戻ってきた『年数』ね」

「……降参。わかんないよ」

「普通、失踪は七年で宣言されるの。出所して、そこからこのまま七年所在が知れないことになってたら、『誰か』が大金を手に入れるチャンスだったかも知れないんだよ」

「……保険金!? う~ん、それはどうなのかなァ。……でも、ああそうか、保険のオプか」


 柚津起君は、薄く茶色い何かのへばりついたグラスに顔をしかめていた。

 アルコール臭が微かにする。この三ヶ月でグラスの中身は干からびたのだろう。茶色いベトベトは机一面にあり、その上にホコリがつもってる。週刊誌も懐中電灯も筆立ても全てベトベトがこびりついていた。


「ヤだなぁ、こーゆーの」

「ホコリの多さは、元々だらしなかったせいもあるかな」


 三ヶ月じゃきかないぐらい、本棚の上にも積もっている。まともに掃除もしてない生活なのだろう。恐怖より嫌悪感の方が膨らんでくる。

 何気なく、差し込まれたままのラベルの貼ってないビデオをつつく。ギュゥン、ガシャっとテープを自動で飲み込み、モニタ部分が点灯。そのままテープが自動再生された。


「へえ、再生機能はオートなんだ。あ、ダメダメダメ! 子供は見ちゃダメ!」


 あわてて電源を落とす。明らかにポルノだ。それも、画質からして個人撮影系の裏モノだろう。何だかなぁ。こんな骨董品を捨てずにいたのは、そーゆーコレクションでもあったせい?


「いや君だって子供だろ! しっかし……酒池肉林だなぁ、この生臭坊主。まあコイツ、いんちき牧師だからそこは良いのか。インチキどころか前科者坊主だし、とんだ破戒僧だな」

「禁酒禁欲は基本でも、バプテスト派ってのもまた最大手だけに幾つも派閥にわかれてるのよ。ガチガチに戒律が厳しいのもあればユルユルなのもあって。南北戦争の経緯からして、そもそも人種、地域、政党でも分かれるんだし。世界で一番有名な牧師であるキングさんとKKKを生んだって点からもわかるでしょ。聖職に幻想求めたって意味ないし」


 神の名を借りて、権利、主張、利己、保身。宗教なんてそんな動機から幾つもに分裂して行くものだ。

 ……なんてね。まあ、こんないかにも世をすねて斜に構えた思考がするっと出てくる時点で、やっぱ私は青二才のコドモ。それを自覚しながらも自嘲気味に少し笑みを漏らす。

 いいじゃん、コドモで。中2病には4年は早いけど。アレはイイ大人になったって罹り続ける不治の病とも聞く。だったら、幼女のうちから発症してたっておかしくはないものね。


「で、でもさぁ……ホントに大丈夫なのかな、僕ら、こんなことして……」


 柚津起君が、勝手に他人の家に忍び込んでいる状況に、不安と入り混じったまま少し興奮しているのはわかる。


「ビビッた?」

「いや、そっそんなじゃないけど!」


 それに、こんな異様な光景だもの。

 普通じゃない状況に、何とも感じない人はいないと思う。

 じゃあ、私は?

 妙に落ち着いている。


 ふっと、壁にかけられた輝くキリスト像が目に入る。ブロンズの、六〇センチほどの、聖書主義で偶像を廃した本来のプロテスタントなら飾りはしない、それは新興のインチキ教会である故のちぐはぐさ。

 もはや十字架の一つもない、この廃屋が辛うじて元教会であったことを示す、ほぼ唯一の聖具。


「あるじゃん! イエス像!」

「基本的には、つったでしょ。まあプロテスタントってのはまちまちだし。米国聖公会とか立派なステンドグラスで有名な所だし、ようはバチカンから離れた最初の最大手がそうだったからってだけだよ。決まりがあるわけじゃない。そもそも『抵抗者プロテスタント』って称される意味からしてね」

「え? ナニソレ」


 苦笑とため息がてら、私はイエス像に向き直る。


 ――ジーザス。あなたは何千年も世界中で、そうやってハリツケにされ続けているのね。

 人類の原罪を背負うために?

 誰を? 何を? 救うため?

 ぜんぜんワカンネ。

 何故、あなたをありがたがる人が何億人となくいるのかは、私の理解する所じゃないんだよ、ジーザス。


 アンチ・クライストでもアイ・ワナ・ビー・アナーキストでもないよ。

 異教徒ですらない。私は自分の家の宗派すら知らないし、きっと両親だってそうだろう。

 葬式や法事でもない限り、坊主にお呼びがあるじゃなし。

 大多数の日本人がそうであるように、私も無宗教なんだ。

 なのに、私はじっと、ブロンズのジーザスと視線を合わせている。

 動揺もない。興奮もない。

 知らず知らずに十字を切り、小さく胸の前で手を合わた。


「……茲子?」


 不思議そうに柚津起君が問う。そりゃそうだろう。


 でも、私にはそれが、自然なことのように思えた。もちろん、十字を切るのをプロテスタントじゃやらないのは百も承知。だけど――。

 パシャリと、頭の中でフラッシュが焚かれたような感触。視覚と記憶。再生される光景。そう――。


 何かが、繋がった。


 ここは──「現場」だ。


 ここで「殺された」とは限らないけど。

 そして、「無宗教」と「絶宗教」とは違う。

 私は──完全な意味での無信仰者ではない。

 大多数の日本人がそうであるように。


「信仰も、宗教も、私には何も為さないし、そんな物で誰かや何かが救われるわけじゃないよ。神の名の下には、大抵の場合、殺したり殺されたりすることばっかりで、人が糧や安全を手に入れられるのは神の力じゃなく自らの力。奇跡も神秘も眉唾で、信仰のお題目で為政者が下々から思考を剥奪するための物なんだ」


 でも、中には救われる人もいるのだろう。

 心に神がある者には。その存在を信じられる者には。

 それは、私には無い──。


「……何を急に……?」


 柚津起君が、不思議そうな目で私を見ている。


 私が信じられる物は何?

 暗黒?

 絶望?

 憎悪?

 愛も優しさも信じるに値しない、私は柚津起君に好意は抱いてるけど、彼を「愛しい」のとも違う。


 私は彼の存在に救われている。

 とても大切な友達だけど、それでも私は彼の前に自分の全てを見せているわけでもない。

 私は私の中の暗黒を、この殺意や憎悪を、誰にも明かさないまま生きている。

 殺人鬼……畏怖すべき対象で、憎むべきパブリック・エネミー。

 神出鬼没で残忍な怪人。

 私は──何故にそんなものに惹かれるのか?


「……うん。確信した。確証を得たかな」

「……何を?」


 ここは、だった。


 の犯行の手がかりは、ここに必ず存在する。


「やっぱりこのインチキ牧師は殺されてると思う」


 私はそういい放ち、部屋にある物をゆっくりとながめた。




         (後編につづく)





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