Interlude(幕間) 01

中等部一年松組 弓塚香織

 Fragments 01

 聖ミシェール女学園

 中等部一年松組 弓塚香織




 beginning





 大好きだった佐和子さんの訃報を私が目にしたのは、五月のはじめ頃のことでした。


 佐和子さんはとても美人で、憂いのある面差しで、一松人形のように前髪を切りそろえた長い黒髪の女の子で、ちょっと意地悪で皮肉屋で、よく本を読む人でした。

 私は一つ年上の佐和子さんから、多くの物事を教えてもらいました。両親や先生がたからは決して教わることのないような、小学生の女児には相応しくない――ようは、大人が顔をしかめる諸々の知識まで、色々と。

 いくつかの秘密を共有したり、からかわれたり、甘え合ったりじゃれ合ったり。佐和子さんは私にとって、なくてはならない人です。時には実の姉のように、時には親友のように、慕い、敬い、偶には些細な喧嘩もしたけれど、一番親しくて、一番尊敬できて、一番大好きな人。


 なのに、一年前のあの日。佐和子さんは小学校の卒業前に、ぷっつりと私の前から姿を消してしまいました。

 家を訪ねてももぬけのカラで、連絡先もわからない。佐和子さんは私には事前に、何も教えてはくれませんでした。一体、何があったのか。どうして出て行かねばならなかったのか。一体どこの学校に行ったのか。何一つ、何もわからないまま、私は途方にくれるだけでした。

 哀しくて、やりきれなくて、でも、ただの小学生の女の子でしかない私には、それ以上何も知りようもなく、どうすることもできません。


 移りゆく四季もただ虚しく、春が過ぎ夏を終え、秋が来て冬を越え、再び春が巡り、そうして私は一年を漫然と過ごし、小学校を卒業したのです。

 そして、祖母と母の母校でもある、私も以前から憧れていた聖ミシェール女学園に入学し、イエズス様の御許にて、ようやく新しい学校の雰囲気や、新たなクラスメイトや教師の皆さんにも馴染めた頃に、私の目に一つのニュースが飛び込んで来ました。


 女子中学生の投身自殺記事。

 そこには、佐和子さんの名前が──。


 目の前が真っ暗になる、という表現は本当だったのだと知りました。

 呼吸を忘れ、苦しくなる。

 血の気がすぅっと下がる。

 肌の感覚がおかしくなる。

 暑さも寒さもわからない。

 足が地面にある気が失せ、

 私は──その場で倒れこみ、目覚めた時は自室のベッドの上でした。


「お前はなんつぅか、ダメな子だよ。悪い具合にお嬢様しやがって。時代錯誤も甚だしい。魅織も聖太もバカだからなァ。だからこんな風に育てやがったんだ」


 うっすらと目覚めて最初に耳にした声がそれで、そして、そんなお婆さまのいつもの悪態に、私は少しホッとしました。


「酷いですわ、お婆さま。私はともかく、お父さまやお母さまにまで悪くあたらないでも良いじゃないですか」


 上半身を少し起こす。

 電灯を落とした薄暗い中に、お婆さまが傍に腰掛けていました。私に付き添ってくださったのでしょう。見事な白髪のショートボブ、それでいて若々しい、いつも通りのお婆さま。私はお婆さまも大好きで、でも、口をひらけば悪態ばかりなのには少し困ります。


「だーから、いちいち家族に『さま』つけんなってコノヤロウ」


 お婆さまは生来の女傑で、今でこそ引退したものの、かつては方々に名を馳せた凄腕の女探偵だったと聞いています。亡くなったお爺さまは地方署で署長まで勤め、今でもかつてお爺さまと縁のあった警察関係の方々と、家族ぐるみの付き合いもあります。


 佐和子さんがいなくなった時、イの一番にお婆さまにも相談をしました。それを調べてどうなる話でもないだろう、と軽くいなされて、幾つか耳に痛い説教も頂きました。警察関係のおじさま達に対しても、いくら親しい間柄であれ、犯罪者でも何でもない一般市民の佐和子さん一家の行方を調べて貰うわけにもいきませんでした。話によれば、佐和子さんのご家族は夜逃げ同然に消え去ったと聞いています。しかし借財を残す等の迷惑をどなたかにかけたような話も、とんと耳にはしませんでした。


 人には色々と事情がある、話したくないこともあったのだろう。特に、君に対しては──そう気休めのように私に声をかける人もいました。何もいい残さないで消えたからには、おそらくはそれも間違いではないのでしょう。


 学校の先生がたにそれとなく尋ねても、佐和子さんがどこの中学に進学したのかは、一切教えていただけませんでした。生徒のプライバシーに関わることですから、それも已む無しなのでしょう。卒業した上級生のアルバムを借りてみても、円で囲んだ佐和子さんの写真と、名前の一行だけしかそこには載っていません。空き部屋の郵便受けに積み重なるダイレクトメールの束を見ても、転居届けが郵便局には出されてはいないことが窺えます。


 八方手を尽くしたつもりで、そして小学六年生だった頃の私はそこで色々と心が折れて、諦めて、ただただ、ひたすら、悲しい思いのまま、それでいて佐和子さんと過ごした日々を忘れることもできず、後ろ向きにその一年を過ごしていただけでした。


 しかし。


「……あのね、お婆さま。……佐和子さんが、亡くなったの」

「聞いてるよ。そんなのでブッ倒れたのかい? お前は」

「ええ」

「そんな神経でどうするよ。哀しいとか寂しいとかならまだわかるよ。泣きたいなら泣けばいいし悔しいなら怒ればいい。倒れるってのはワカンネぇよあたしは」


 返答もできないまま、何ていって良いのか、私にはわかりません。倒れるほど、自分の中の何かを失うほど、佐和子さんの死は、私にとってショックだったのは間違いありません。

 気持ちの整理もつかず、動揺し、混乱し、それでも平静を必死で保とうとしている自分の心の中に、哀しさや絶望すらも超えて胸の中を支配する、幾つもの疑問符に、回答のどこにもない大きな疑問符に、私はゆっくりと目を向けて、自分にとって今、何が必要なのかを掘り下げて、そして──。


 心の中のざらざらした荒涼の中にそびえ立つ、一つの突起に手をかけました。


「……どういった理由で、佐和子さんは亡くなったのでしょうか?」

「知らね。知ってどうする。知ると辛いことになるかもしれないよ?」


 なにしろ、『自殺』ですもの。


「ええ」


 決心する。


「どんなに辛いことになるとしても、知りたいんです」

「知ったところであの子が生き返るわけじゃないよ。それでも良いんだね?」

「ええ」


 知らないままでいる方が、よっぽど辛いもの。

 のべつ間もなく口を開き続けるおしゃべりなお婆さまが、しばらくジっと黙って考え込み、やがて、ため息を吐き出すかのように口を開きました。


「じゃあ、止めないよ。好きにしな。ただし、あたしは手伝わない。口も出さない。自力でやりな。ま、ちょっとくらいのバックアップはしてやるけどさ。お前のまぬけの両親にゃ、お前がこれからやることには一切何も止めさしゃしないから。警察関係、検察関係でツナギ取りたい相手いんなら連絡くらいはしてやるよ。なァに、アタシが活躍してた頃を知ってる奴なら、飛び上がって諸手あげて大喜びさ。伝説の少女探偵の復活だ! ってな、アハハ。何事も話にゃ尾ヒレは付くモンだからね、人のウワサってのぁ尚更さ」


 お婆さまが、かれこれ半世紀もの昔に、ミシェール女学園で「探偵舎」という名の奇妙な部活を始めたことは私も知っています。

 推理小説同好会のような部活と思いきや、それは女学生が「探偵として活動する部活」というにわか信じられないような物で、お婆さまはそこで幾つかの難事件怪事件を解決し、駆け出しの刑事だったお爺さまと知り合い、この地方一帯でかつて快刀乱麻の活躍をしたとの噂を、子供の頃から大勢の人に何度も何度も聞かされて来ました。

 眉唾や話半分としても、それは頼もしく、誇らしい物にも思えます。

 だから、私にお婆さまの血が流れているのなら──私にも、真相を探ることができるのかも知れません。


「いや、お前にゃ無理だ。才能がない」


 えっ?


「推理力ってのぁ、ある種の天賦の才が必要なんだよ。お前は背ばっかりデカいし、聖太も沙織も聖一サンの遺伝子ばっか行きやがったんだな。お前もそうだよ。けんかは強いかも知れないが脳味噌はカラッキシの真面目バカで。だから、地味に足で探しなよ。お前の武器はソレっきゃねえんだ。私にゃゼンゼン趣味じゃねえ、こすっからいシャカイ派だのハードボイルドだのの探偵をやるしかね」

「そ、そんな……私、ケンカだなんて、したことありませんし」

「古武術とか習ってるじゃないさ。男子の高校生投げ飛ばしたって聞いたけど?」

「あれはその……たまたま、です。相手の方が油断さなっていたから……」


 確かに、有段者だった祖父と叔母の影響から、護身術とスポーツの一環として幼い頃より習ってはいます。でも、それで誰かを傷つけようと思ったことは一度もありません。

 それに、自分でいうのも何ですけど、私は学校の成績だって常に優秀でした。こうも正面きってバカだといわれると、少しションボリしてしまいます。


「いいか、香織。よくきけよ。お前は、並の中一女子より遥かに『性能』が高い。物覚えだけは良いからバカのくせに勉強程度なら人一倍出来る。背もバカでけえ。腕っぷしも強い。おまけにツラはあたしに似てきっちり美人だ。聖太のバカがまた金に汚ぇイヤな大人に育ちやがったから家庭だってまあ、結構裕福だ。普通だったらお前、漫画だと悪役かイジワル役にしかなれねぇ所が、その天然素材っぷりとバカ丁寧な箱入り娘さ加減で何とか世間様から許して貰えてるんだ。絶妙なバランスだよ」


 褒められているのか、貶されているのか……。いつものお婆様らしい、どうにも酷いいいぐさです。これでカケラの悪意もなくおっしゃっているのだから大したものです。


「そんな意味じゃ、まあ失敗した子育てだろうが悪かぁねェんだな。蝶よ花よと育てられ、ダンベルより重い物も持ったことのない完全無欠の鉄壁なお嬢様だ。お前のその世間知らずさは、ある意味じゃ武器にもなる。バカと一重のその無垢さ加減は、探究心の原動力にもなるだろうさ。お前は万人から好かれる要素を持っているし、人の心に入り込むのだってやすい。そんな意味じゃ、心配はしてねぇ。だがな……」


 すっと、お婆さまは顔を近づける。

 お婆さはの顔は本当に若々しい。とても戦前生まれとは思えない。


「お前は独りで何かができるとは思うな」

「ええっと……どういうことでしょう……?」

「独りで背負い込むな。独りで乗り込むな。信頼できる、共に歩める誰かを見つけろ」

「誰かって……?」

「それがない限り、お前はたぶん何にも届かないよ。今はだから、お前は独りだ。わかるわきゃない。説明もしない。さ、今日のところはさっさと寝な」


 そんなこといわれても、今起きたばかりなのに。

 それでも、少しだけ呆然と――お婆様が私に『好きにしな』とおっしゃったことの意外さと嬉しさを、じんわりと噛み締めていました。まだそれは、認められたというわけでもないのはわかっているけれど――。

 ふっと――緊張の糸が切れたせいか、佐和子さんの死が、また、私の中に重くのしかかり始め……両の瞼から熱いものがじわりと滲んで来ました。

 今の今まで麻痺していた、『哀しい』という、感覚。

 爆発する『それ』が大きく膨らみ、臨界点を突破したかように私の中に溢れ、胸の中を、体中を、ワーっと一斉に襲って来ました。


 大きな声をあげて、嗚咽なのか慟哭なのか絶叫なのか、あらん限りの叫びで喉が痛くなるまで、恥ずかしいくらいに私は泣いて、泣いて、泣いて、お布団につっぷせて、私の背中にはお婆さまが撫でるような、ポンポンっと叩いて突っ込むような、そんな感覚が走りました。


「泣きたいだけ泣きな。お前はまだガキなんだ。でもな、小学生じゃねえんだぞ、もう。そのうえ年齢は中坊でも見た目は図体のでかい大女なんだぜ?」

「お婆さま……それ、ぜんぜんフォローになってませんわ……!」


 泣けるだけ泣いて、搾るだけ涙を搾り尽くして、腫れた赤い目と赤い鼻で、鏡に映る自分のみっともない顔に苦笑しながら洟をかみ、そして──私はもう、泣かないと誓いました。


 かくして私は、探偵としての一歩を踏み出しました。

 そこに待ち受ける運命すらも、まだ知らず。



 血と死と殺意と暴力と、屍と狂気と憎悪の渦巻く、闇と黒のひしめく中に。


 世間知らずの中学一年生の女の子が、ゆっくりと、ずぶずぶと――踏み込むことになったのです。





To the next time.

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