第十一話 閻獄峡ノ破『紅き焔』(後編・その4)
4.
「……これ、ヘンですよね」
「そうね」
「そうね」
双子の先輩も相槌をうつ。うん、仏教知識のあるこの姉妹も同じ判断なのは心強い。
「ヘンって……何が?」
そう花子さんに問いかけられても、ちょっと返事がし辛い。仏殿の堂塔のみで、掃除こそキチンとされているけれど、お坊さんが住まうわけでも、通っているようでもなさそうだ。
何より――。
「来歴、縁起を記す碑文が何もないわね」
「吉祥を表す卍文はあるけど……それだけよね。何なのかしら」
宝堂姉妹と一緒に、私も首をかしげる。古い物なのはわかる。アーチ型に開け放たれた正面から見える本尊は、片手に金箔の棒
「片手に多宝塔がないわね」
「このお堂じたいが宝塔だから、要らないって思ったのかな?」
「二層塔じゃないから違うと思うけど。お坊さんの住まう僧房もないし、お寺というより、たぶん大杉さんか八幡さん家の、個人持ちの
「でも、庚申につきものの、三猿のお猿さんいませんよ。青面金剛にも見えませんし……」
首をかしげる。構造は社に近いかもしれないし、大陸の廟の影響も見える。宝堂姉妹の今の判断は、本尊の道教的佇まいからだろう。
八幡の名からして、当時の神仏その他入り混じった状態でも、それはそれでおかしくないのだけど。
お堂を出ると同時に、大子さんは時計の針と太陽を見比べた。
反対側に福子さんがすっと立つ。
「角度的には風水に準拠してるわね」
「艮、坤は塞いで卯、巽に門ね。つまり――」
「ある程度ちゃんとした知識のある人が建てた物ってことよね」
正確な角度、距離を瞬時に測量する双子の特技には何度見ても感心する。
「お婆さんの話だと、歴史は古いはずだよね。修復の跡も多いし、土台の一部なんかコンクリートだけど、この柱なんて何百年モノじゃない?」
「う~ん……どれだけ古くとも江戸後期って感じもしますけど」
「一部は鉄筋だし、文化財扱いはされてないようだし、近代かなぁ」
私と宝堂姉妹とで考え込んでいるのを、やれやれとばかりに部長は一蹴する。
「事件と関係ないし、そんなモノはどうでもよろしいわ。現場は──」
「あれね」
花子さんが指す方向には、コンクリート製のやぐらのような物だけがあった。
花が幾つか添えてあり、社というより故人の慰霊碑か何かだろう。
「やっぱり、そんな殺人現場になった縁起の悪い祠なんて、そうそう保全してないわね」
「でもさ。その被害者の、供養か何かに建て替えたとするなら、元々の祠はどうなっちゃってんだろ。そんなホイホイ移設できる程度の物だったのかな? 神様なのに」
「第一、何の神様の祠なのかしら? 毘沙門のお堂の外にあるのって……」
「そこは名前通り八幡様じゃないの?」
さすがに神事となると、宝堂姉妹も疎いらしい。八幡様というのも色々難しい神様なので、説明すると大変なんだけど……。
「えーっと。明治までは仏様も神様も一緒でしたから、そこはそう問題でもないし不思議でもないんですけど。ただ、う~ん……」
「そうね。神仏分離令を免れたお寺なら幾らでもあるわ」
部長もまあまあ、この辺りには詳しいようだ。
「いや、仏閣に見えないよ、この塔。詳しくない素人の私がいってもナンだけどさ」
そして詳しくないカレンさんだって、違和感はしっかり感じている。
「そもそも明治初期に分離された所で、仏閣への庶民の信仰は、すぐ戻ったものね」
「そういや、太平洋戦争の頃には普通に軍部でも『南無八幡大菩薩』って飾ったり信仰したりしてたようだね、戦争映画なんか観ると」
「そもそも、そういった掛け軸とか神棚とか、八幡信仰らしき物がまったく見られないのは何故かしら、杉峰楼にしろ、ここにしろ」
「杉峰楼は関係なくて良いんじゃない?」
先輩たちがあれこれ議論してる中、部長はめざとく、黙って考え込んでいる私に振ってきた。
「巴さんは何が引っかかっているのかしら?」
うん、ほんとに鋭いと思う。
先輩達の目が、一斉に私にそそぐ。
……やりにくい。
「……だから、この地方の
「儒学? えーと……儒教とかそーゆー奴だっけ。孔子の論語とか。よく知らないけど」
私の言葉にカレンさんが受け答える。論語……は、現代の教養にも多く関わるから、理系のカレンさんもまあ、それなりに馴染みもあるだろう。
「ええ、まあ宗教っていうと語弊もありますけど。儒教は、初期に於いては
「あ、ああ。そうなの、ええっと、それと神仏って……」
「その光政は、この地で儒教を中心とした独自の施政を行ってたのが特徴なんです。この時代、同じく名君として並ぶ徳川光圀の主導で、儒学――主に朱子学ですけど、それを基本にしての政治を徳川幕府は行っていたんです。日本における武士道や道徳の基本概念は、だいたいこういった儒教から来ているんですけども。基本は武家制度を盤石にする上での物ですね。『上下定分の理』とか、簡単にいえば目上には逆らうなって思想です。ただ、蕃山の陽明学はそれとはかなり異質で――」
「……あのね、巴ちゃん」
優しい微笑みを大子さん(たぶん)が私に向ける。
「はい?」
「あなた、中一よね?」
「はい」
……ええっと。熊沢蕃山なら、日本初の庶民学校の礎を築いた人なんだから、結構有名だと思うんだけどなぁ。
「……ご、ご免なさい、なんだか、調子こいてペラペラ喋っちゃって……」
赤面しながら縮こまる。どうも、こういった所で空気が読めないのが私の悪い癖のような気もする。
「いや、いーっていーって。つーかさ、そんな遠慮しないで。この際、話したいことあったらバーっといっちゃいなよ」
例によってこういう時のカレンさんのフランクな姿勢には安堵する。少しホっとして、じゃあ……とお言葉に甘えてみようかな。
「はい。あの……
- - - - キ リ ト リ - - - -
(※ここからの巴ちゃんのお喋りは推理にも物語にもほぼほぼ関係ない博覧強記、というか狂気のアレですので、読み飛ばしても大丈夫、いや読み飛ばした方が良いかもですので読み飛ばし推奨ということで!)
……簡単にいうとこの地方では明治の神仏分離よりずっと前に、神道と仏閣を政策として、明確に分けることを十七世紀からやっていたんです。寺院が権力や集金力を持って、為政者の目から見て腐敗の温床にもなっていた点もありますし、この一帯で勢力をのばしていた不受不施派……これは『法華信者からのお布施しか受け取らない、法華信者しか供養しない』という主義の日蓮宗で、秀吉の時代から排他的、閉鎖的集団と幕府から見なされていた教団への警戒もありました。構造的にも、西洋史でいうユダヤ教への弾圧みたいなものですね。
具体的には寺請制度を廃止したり……これは人別帳、今でいうと戸籍を無くしちゃうのと同然ですから、ある程度の混乱は起きたと思いますけど、同時に神道請制度への切り替えも行って、ようするに神仏一致への否定と神儒一致思想としての分離なんですけど。
名君として知られる光政は、庶民の味方として飢饉時には備蓄米を解放し、農民には手厚く武士には厳しく、大規模な治水と開拓を成功させつつも自然との調和を求め、贅沢を戒め、武士に農を薦めるような、いってみれば江戸幕府初期の武断政治と正面からぶつかる独自の政策を行っていて、その源泉は勿論、蕃山の心学――陽明学なんです。同じ儒学であっても幕府の朱子学に対するプロテスタントが陽明学で、後々の大塩平八郎の乱にも繋がりますが、そこは置いといて。
そんな名君の光政も、宗教弾圧に関しては容赦なく徹底していたと伝えられます。菩提寺の失火に腹を立て、寺嫌いになったとも伝えられますし、事実祖父からの遺骨を引き上げて、儒式永代墓地を新たに建ててそこに葬ったくらいですから、嫌いは嫌いで間違いないでしょうけども、ようは理で動き、人の倫を説く上で、オカルトを信じない合理主義者だったんじゃないかとも思いますね。この時代、領内の六割近い寺社を廃していますが、同時に一万社以上あった神社も、こちらは六〇〇社まで減らしていますから、実情でみると寺より神社の方がむしろ激しく整理していますので、仏教嫌いとの俗説も違う気はします。
後年になれば蕃山の陽明学は、むしろ個人で編み出した自由思想、ある種のアナーキズムとも考えられますし、天才ゆえに面倒くさい性格の人だったらしく、何度となく光政の元から出たり戻ったりヘソを曲げたりしながらも、光政自身は常に蕃山を師と仰いでいたようですし、蕃山の光政への忠心もゆらぐことはありませんでした。前述の儒式墓地を建てた話を喜んで褒めたり、弟子筋にあたる津田永忠――この人も天才で、難しい実務での業績すべて、各所治水に、庶民学校や日本三名園の後楽園や墓所を築き、大規模な新田開発等を成し遂げたのは、ほぼこの人の功績ですが――その永忠を持ち上げたり貶したり、しまいには永忠が自分を陥れていると被害妄想して、何度となく批判の手紙を出し、光政の死後は『永忠をクビにしろ』と手紙を出して綱政を困らせたりもしています。
蕃山の学問を熱心に聞いて育ち、その具現者として頑張った永忠にしてみれば、たまったものじゃなかったかも知れませんね。
後に袂を別つことになっても、光政は蕃山の思想、学問を最大限に受けた人物であるのも間違いなく、後年では由井正雪の乱の首謀者ではないかと勘ぐられる等、常に謀反を疑われ続ける光政は、幕府の突き上げに対して、城内に朱子学に準じた祖廟を建てるなど、表向きには改宗した態度を取っています。また、バカ殿として知られる息子の綱政の代には、先代の意志をガン無視して、新たに池田家の菩提寺を建てて、寺社との関係回復にも臨んでいます。光政の指示で儒式永代墓所を建てた儒学者の永忠の気持ちを考えると、これはさすがにいたたまれない話でもありますが。
そういった点からも、光政の時代から後には藩内でも寺社や神仏への信仰も普通程度には復活もしていた筈ですし、領内の全てが儒学に染まっているわけでもないのですが。とはいえ、今回のケースではその「光政の時代に建てられた」ことが懸念でもあります。
ちなみに綱政は、勉強嫌いで儒教嫌い、女色を好み子供も七〇人以上作る程の遊び人として知られますが、実際には教養人で歌を詠み書を嗜み、実業面にも才はあり、永忠のお陰もあって、光政の代に計画だけで頓挫していた各事業を全て遂行し、幕末まで備前が安泰に過ごせるだけの、盤石たる礎を築きました。鹿島湾を埋め立てた巨大な新田開発がそれに当たります。そしてこれは何度となく蕃山が『自然破壊ふざけんな』と文句をつけてきた物でもありました。
いずれにせよ、名君光政と、蕃山と永忠、この二人の天才儒学者に恵まれたことは、この地にとって僥倖であったのは間違いない話です。
脱線ですが、蕃山の思想に薫陶を受けた人物に知の巨人・南方熊楠がいて、彼は自然保護の観点から明治末の神社合祀令に猛反対し、その際に蕃山の言葉を引用しての抗議の手紙を出したりしています。このことからも、光政の神仏分離と、幕末から明治初期の廢佛毀釋運動に繋がるような乱暴で出鱈目な神仏分離が、思想的にも全く別物だというのはおわかりかと思います。
また、余談ですが、昭和の詐欺師『熊沢天皇』で知られる南朝の血、熊沢氏の家系でありながら、蕃山は後醍醐天皇を痛烈に批判するくらいにアナーキーでもあります。まあ頭のおかしさや目茶苦茶さでは歴代ナンバーワンの後醍醐天皇じゃ無理もないことだとも思いますけど、いずれにせよ死後一世紀を経ても浄瑠璃や歌舞伎の主人公になったり、文人や学者からも人気のある、江戸時代のちょっとした知のスーパーヒーローといった所ですね、蕃山さんは」
- - - - キ リ ト リ - - - -
「……あ、あぁ」
「そ、そうなの」
「う、うん」
やや引きつった表情で言葉をつまらせる先輩たちを前に、あっ……これはその、お喋りが、ちょーっち、過ぎたかもしれない……と、少し反省。
ともかく、これは何で、何がどうなっているかと、この奇妙な毘沙門さまを前にケンケンコウコウと部員一同で討議してみるも、まったくといって良いほど統一見解が出そうにない。
……なるほど、歴史は古くても、こりゃあパンフレットに載せられないわけだ。
不意に、誰かの声がした。
「あら、その制服……」
振り返ると、綺麗な和服を着た、長い髪の女性が立っていた。蝋のように白い肌、日本人離れした彫りの深い顔立ちの美人さんだ。顔と服装のギャップに少し驚く。
背はそう高くないし、大人の女性といった雰囲気ではなく、私たちよりは少し年上みたい。高校生くらいだろうか。
「蕃山がどうのこうのって、面白そうな話が聞こえてたけど、――あなたたち、確かクリスチャンの学校の子よね?」
「はい?」
「ふふ……だったら、ここには来ない方がいいわ。この地はね、あなたたちを決して、祝福なんてしないから」
「あら! あらまぁ! とても! 前近代的なお言葉で素晴らしいですわねェ!」
にっこりと微笑みながら、さも嬉しそうに、さっそく部長は嫌味を口にした。
わー。
いや、地元の人に早々けんか売ってどうするんですか!
「ふふ……喜んでいただけて嬉しいわ。そうね、前近代的かもしれないけど……『呪い』は、確かに実在するものなの」
「はぃ?」
あの。そうあからさまに挑発するような態度をとらないでも……。
しかも売り言葉に買い言葉のようでいて、部長ったら目がキラキラ輝いているし!
なんですかこの、我が意を得たりって顔。
「どうしよ。来ちゃったよ排他的で呪いがどうこう口にしちゃう、現地の人。サービス精神旺盛すぎない?」
小声でカレンさんが囁きながら、脇をつつく。
いや、あの。えーと。
「どうしよう。ひょっとすると
「
宝堂姉妹が、何かに気付いたように小声で耳打ちしている。……確かに、この姉妹なら
「あの、大子先輩、福子先輩、そーゆーコトは、あまりおっしゃらない方が……」
「うん。でも、さっきの蕃山の話で思い出したの。光政公の時代の初期って、島原の乱の頃でしょ?」
「ええ。ただし、島原参戦を願い出た蕃山は、幕府から却下されたんです。羅山の朱子学による人心統一の時代に、それに沿わない心学を掲げる蕃山は――、」
「あ、そこまでくるとわかんない」
「あ、そこまでくるとわかんない」
「残念。ここは『
クスクスと、和服の女性は笑った。
宝堂姉妹が赤くなってうつむく。でも確かに、クリスチャンを祝福しない土地、なんていったら真っ先に連想するのは
「まあ、
「
「ええっと。失礼、日本の歴史とか宗教の話ってなると、私さっぱりわかんなくて」
カレンさんが困ったような顔をする。
「そこは私たちだって同じよ。密教ならまだわかるんだけど。きっと……今、話が通じてるのは、巴ちゃんと、こちらのお姉さんくらいなんじゃないかしら」
スっと部長も前に出る。
「九州では薩摩藩人吉藩が、浄土真宗すら禁止してたくらいですものね。為政者にとって目障りな勢力の信仰は何だって邪教ですから、それはそう特別でもありませんでしょ?」
「いわゆる『隠れ念仏』の由来ね。楽しそう」
「あ、部長もついていけてた」
「あ、部長もついていけてた」
双子姉妹もそこで声を揃えなくても。
「……それで、あの。これって、何のお堂なんでしょうか?」
おそるおそる質問する。ヤブを突いてヘビが出るようなことはない、とは思うけど。
「さぁ? きっと……
「……ああ、
「そうね。だからここは、呪われた土地なの。縋る神も頼る縁も何もない、天に見放されし、祝福されざる地。あなたたちだって、もうさんざん噂話は聞いてるでしょう?」
「……呪われた、といわれましても」
さすがに、ちょっと引く。
お人形さんのような姿の見知らぬ女性に、いきなり旅先の地でそんなコトいわれても。
「いまにわかるわ。だって……あなたたち、ミシェールの……探偵舎の子よね? 半世紀前の事件なら、ここの住民で知らない者はいないわ」
そりゃあ、そうでしょうけど……。
「流石に、ここにお住まいの方なら、皆さんご存じの話なんですね」
「……あらまし程度ならね。誰が犯人で、何が原因の
「えっ?」
「だからね。真相は、
「それは、その……」
嗚呼。
そして、きっとこの人が――。
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