第6話 王と臣下

「それで、食事が済んでないって、どういうことなんです?」

 一階の奥、威尼斯ヴェネツィアの屋敷の間取りでは主人の居室にあてられることの多い部屋。

 腰の高さほどの架台かだいのうえに置かれたひつぎふちに腰掛け、欠伸を噛み殺しながらアシエルが、従兄であり、主人でもある……ガルシアに問うた。

 明かりひとつない室内。

 窓の外は見えない。

 部屋にある窓という窓は鎧戸が下ろされ、さらに念の入ったことに、部屋の内側から板を張って打ちつけているのだ。

 アシエルは外出用の衣装から、肌触りの良い木綿の部屋着に着替えてはいたが、身嗜みにはうるさいのだろう、衣装のぼたんはすべて真珠製。

 長い黒髪を漆黒に染めた絹の飾り布でまとめている。

 声に険があるのは、さすがに呆れているのだろうか。

「嫁き遅れでもまだじゅうぶん若くて、抱きごこちも悪くなくて、掛け値なしに健康で、見目だって……まあ、絶世の、と言うにはほど遠いですけど、そんなに悪くない。おまけに十中八九、処女ですよ? なにが不満だっていうんですか」

「彼女に不満があるわけではないよ。彼女の行動力と決断力……彼女は、まさに『申し分なし』だ。きっと、その血は素晴らしく甘いだろうね」

 自分用の柩のそばで、外套を脱ぎながらガルシアが答えた。

「では、なぜ? ずいぶん無防備で、見た目通り非力で、すこしばかり魔力を含ませただけの暗示にもあっさり掛かってくれる。モノにするのに手間がかかることもなさそうでしたけど」

「……選択肢が欲しいだろうと思ってね」

 飾り帯をはずし、重い長衣トーガを脱ぎ捨てながら、ガルシア。

「彼女は自由もなくすべてを奪われるのが嫌で、修道院から逃げてきたんだ。だから、多少の選択肢くらい与えてあげてもいいだろうと思ったんだよ」

「……馬鹿ばかしい」

 心底、呆れた溜息とともに、アシエル。

 溜息をつきながらも主人の脱ぎ捨てた衣装を床から拾い上げ、手際よく畳んで部屋の隅に置かれた長持に仕舞い込む。

「手を出さないと約束するなんて! あんなに美味しそうなのに!」

 憤懣やるかたないといった面持ちで、何度目かの溜息を吐く。

「手を出さないのは今晩だけ。明日もここにいるつもりなら、そのときはちゃんと対価を払って貰う」

「僕らの正体を明かして、明日の夜まで彼女がここにいるわけがない! 僕らに襲われるくらいなら、羅馬ローマにいる漁夫の指輪をした男の下僕どもに純潔を奪われるほうが百倍ましだと思いますね! この状況で逃げ出さずに居着くようなら、相当な馬鹿ですよ!」

 いちど牙を立てさえすれば、彼女は僕らのいいなりなのに……アシエルはそう呟きながら、口惜しそうにくちびるを噛んだ。

「……ところで、我がミ・レイ。どうしてこんなところに火傷をなさってるんですか?」

 寝間着に袖を通しかけたガルシアの、なにも身につけていない上半身、胸についた火傷の跡。

 彼らにとっては忌まわしい……十字架のかたち。

「彼女を追っ手から庇うときに。修道女らしく僧服の下に銀の十字架を忍ばせていてね。服の上からだから、このくらいで済んだ。……ああ、彼女には、ここにいるつもりなら、ちゃんと聖物は処分するように言っておいたから、心配ない」

 穏やかに微笑して、ガルシアは言った。

「ただ、たいした傷ではないとはいえ、最近、食事をしていなかったものだから、どうにも治らない。済まないが、アシエル。すこし血を分けてくれないかな」

 アシエルの視線が険しさを増した。

「いまからでも遅くありませんよ。……二階で暢気に寝息を立ててる彼女から貰ってきたらどうです?」

 彼にしては抑揚のない、低い声に込められた、いまや溢れんばかりの憤り。

「頼むよ」

「後学のためにお訊ねしますが、僕に『断る』って選択肢はあるんですか?」

「選択肢が欲しいと?」

 断られることなどないと分かっている者の鷹揚さを滲ませて、ガルシアは慈悲深く問い返す。

「……僕はべつにガルシアさまのためにそとで食事をしてるわけじゃない……だいたい、僕だってそんなにじゅうぶん食事を摂ってませんからね! おなかを空かせたまま寝るのは嫌だっていうのに……。ったく、上等な食事が、食べてくださいって言わんばかりに、すぐちかくに用意されてるんですよ? それに手をつけないなんてどうかしてますよ!」

 不愉快な表情を貼り付けながらも、部屋着の襟の釦をはずし、アシエルは首筋を差し出した。

「血で汚さないでいただけると有り難いですね……洗濯するのが面倒なので」

「……努力しよう」

 困ったように答える口許に伸びる、月光に晒された骨の如き皓い牙。

 深い紺青の瞳に仄冥ほのぐらく宿る紅の炎。

「感謝しているよ、アシエル」

 美しい獣の牙が、アシエルの蒼白い肌に沈む。

 アシエルの応えはなかった。

 一縷いちるの光明すらない真闇に閉ざされた室内にはただ、忍びやかに、切なく、秘めやかな吐息が溶けてゆくのみ……。

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