川中島合戦(3) 新関

 

 ・1547年(貞吉五年) 六月  信濃国諏訪郡  木下藤吉郎



「はっ はっ はっ」


 息が苦しい。足が重い。

 この草むらが無ければ、捕まるところだった。


 くそ! 甲斐に来る時はこんな場所に関所は無かったはずなのに!

 いつのまに新関なんぞできたんじゃ!


 ”いたか!?”

 ”いや、見つからん!”

 ”くそ! すばしっこい小僧だ”


「はぁ……ふぅ……」


 落ち着け。

 もうすぐ日が落ちる。そうなれば、闇夜に紛れて甲斐に戻ろう。

 甲斐から南に下れば富士大宮の市があると聞いた。そこから浜松へ向かえば――


 ”居たぞ!あそこだ!”


 いかん! 見つかった!


「ここまで来て捕まってたまるか!」


 ”そっちだ! 回り込め!”


 木々の間に走り込むと、先ほどまでうっすらと見えていた景色が真っ暗闇に変わる。

 目を凝らさねば木の根に躓いてしまいそうだ。


 む!

 あの洞穴が良いな。あそこならばそう易々と気付かれんだろう。


 ”くそっ! 山ン中に消えやがった!”


 ふぅ。これでそうそうは見つからんだろう。後はさっさと諦めてくれるのを待つか。


 しかし、面倒なことになった。戦見物などせずに早ぅ尾張に帰れば良かったか……。

 だが、戦見物をしたおかげで良いことにも気づけた。


 戦場ではあらゆる物の値が上がっておった。

 米、味噌、塩、酒、鎧刀に竹。全てに良い値が付き、しかもそれらが飛ぶように売れておった。


 考えてみれば、甲斐で塩が売れるのは甲斐に塩が足りておらぬからだ。

 つまり、こちらでは珍しくなくとも、物が不足するところに持って行けば高値で売れる。

 戦場ではあらゆる物が不足するから、何を持って行っても高値で売れるんじゃ。


 ならば、尾張ではありきたりな品物でもそれがほとんど出回らぬ場所へ運べば高く売れる。

 要は、遠くまで運ぶことだ。他の誰よりも遠くへ。

 扱う品物は何でもよい。遠くまで足を延ばし、その地で珍しい物を見つけて運べばよい。


 よし、決めた。それが儂の商いじゃ。

 儂は誰よりも遠くへ行き、財を築いてみせる。


 ”あ、お頭”

 ”まだ見つからんのか?”

 ”すみません。なにせすばしっこいガキでして……”


 お頭?

 覗き込むと中背のひょろりとした男が松明に照らされている。顔はイマイチわからんな。

 あれが関所をまとめる頭目か。


 しかし、もはや儂を見つけることはできまい。完全に日が落ちるまでの辛抱だ。

 甲斐までの道はすっかり覚えてしまっている。暗かろうが甲斐までたどり着くのは訳ないわ。


 ”ふむ……足跡はこっちだな”


 ……真っすぐこちらに向かって来る?

 馬鹿な! この暗さでは周囲の人間の顔すらもはきとは見えぬはず。だのに、儂の足跡が見えているのか!?


「ここだな。おい」

「へ、へい」


 く……洞穴の周りを完全に固められた。おまけに松明も五本ある。

 もはや逃げられんか……。


 待つほども無く細面のキツネ顔の男が洞穴の入り口に立った。

 六角の兵にしては随分と細っこい男だ。


「お主が関所破りの小僧か。……なんだ。本当にまだ子供じゃないか」

「お……お見逃し下され。何卒お見逃し下され。ほんの出来心でございます。甲斐に住まう親戚の所に行っていただけでございますれば、何卒お見逃しを……」

「お主、関所を見て顔色を変えたそうだな?」

「い、いや……それは……」

「自らやましいことをしていると白状したも同然だ。禁を破って甲斐に塩を運んだ者は打ち首と決まっている」


 う……打ち首。


「それだけは! それだけは何卒ご勘弁下され! この通りでございます!」


 必死になって地面に頭をこすりつけると、キツネ顔の手が儂の肩に触れた。

 思わず顔を上げるとキツネ顔と正面から目が合う。

 まるで品定めをするような目つきだ。


「……が、場合によっては死を免じてやってもよい」

「ま、まことでございますか!?」

「お主、甲斐ではどの宿に塩を卸していた?」

「い、いや。ですから儂は塩など運んでは――」

「……」

「甲府の八日市場にある坂田甚八殿の宿に出入りしておりました」


 お、恐ろしい。

 今の一瞬、このキツネ顔は儂を斬るつもりで刀に手をやった。何も聞かずとも『これ以上偽りを申せば問答無用で斬る』という意志が伝わってきた。

 コイツは本気だ。何の感情も、それこそ怒りすらも持たずに人を斬れる男だ。


 見た目に似合わずなんと恐ろしい男じゃ。


「坂田甚八か。甲府では新参者のはずだが、近頃ではその商勢が日に日に増している男だったな。

 ふむ……」


 何とか……何とか儂の名だけは誤魔化さねば。

 名が知られれば、おっ母や姉ちゃん、小一郎や朝日らも巻き込んでしまう。

 何とか名前だけは……。




 ・1547年(貞吉五年) 六月  信濃国諏訪郡  伴伝次郎



 八日市場の坂田甚八……か。

 新参者ならば武田に義理などもあるまいし、商勢が盛んということは客が多い。甲府に噂を広めるにはうってつけの相手かもしれん。

 この小僧、見た目に寄らず良い伝手を持っておったものだ。


「ふむ……使えるな」

「へ、へへぇ」


 小僧は相変わらず平伏したままだ。少し殺気を当てたことで随分と大人しくなったな。


「よし、小僧。私の為に働くというのならば、一命を助けても良い」

「ま、真ですか!?」

「ああ。私から六角様に取りなしてやろう」

「あ……ありがとうございまする! ありがとうございまする!」

「ただし、条件がある」


 途端に小僧がキナ臭い顔に変わる。

 少し脅しが効きすぎてしまったか。


「なに、難しいことではない。その坂田甚八の宿に今一度塩を運べ」

「え……? それは、どういう……」

「ただし、その時には私も同行する。私をその坂田甚八殿に紹介してもらう。お前の上役としてな」

「そ、それは一体――」

「余計な詮索はするな。首と胴を繋げておきたければ、な」


 再び腰の刀を持ち上げると、小僧が口を噤んだ。

 それでいい。余計なことに首を突っ込むとロクなことにはならん。


「委細承知したなら、ついてこい。飯と風呂を遣わしてやる」

「へ、へい。ありがとうございます」


 さて、機を計るのが難しい所だったが、それも目途がついた。これで本所様(六角賢頼)への面目も立つな。


「そう言えば小僧。名は何という?」

「きの……木之本きのもと 藤次郎とうじろうです」

「木之本の藤次郎か。北近江の出身か?」

「へ、へい」


 北近江から甲斐まで来たのか。

 いくら銭が欲しいからとはいえ、そんなところから通うとはな。


「よし、藤次郎。ついて参れ」




 ・1547年(貞吉五年) 六月  信濃国諏訪郡  六角定頼



 諏訪大社の社殿にはいくつものかがり火が焚かれ、尾張軍の兵が周囲を固めている。

 だが、特別緊張している様子は無い。どちらかと言えば幾分か緩んだ空気が流れている。


 まあ、無理もないか。

 この社殿の一室に俺と賢頼が来ていることはごく一部の者を除いては誰も知らない。

 俺の率いる後詰はようやく恵那郡を抜けたあたりだ。つまり、公式には俺は諏訪に存在しないことになっている。

 近頃は輿で移動することが多かったから、空輿を運ばせても不自然には映らないだろう。


 ここに居ないことになっているのは賢頼も同じだ。賢頼も今頃は葛尾城を囲んでいることになっている。


 息子と話をするのも一苦労だが、賢頼を総大将として出陣した以上、あまり俺が出しゃばるわけにも行かんからなぁ。

 まったく、面倒な身になっちまったもんだ。


「遅くなりました。申し訳ありません」


 静かに戸が開き、賢頼と宇喜多直家、それに伴伝次郎が遠慮がちに入って来る。

 随分と宇喜多を気に入っているようだな。まあ、それだけの能力はあると思うが。


 迎えるのは俺と進藤、それに頼保と滝川資清の四人だ。

 事実上、六角軍三方面の首脳陣が勢ぞろいと言った状況だな。


「さて、文は貰っていたが、改めて陣立てを聞かせてもらおうか」


 俺の合図で宇喜多が頭を下げる。

 密談の雰囲気を出すために灯りを抑えてあるが、雰囲気に飲まれたのか宇喜多も小声で石を並べ始めた。


 越後に長尾、上野に上杉、甲斐に武田、そして北信に村上か。こうして見ると、信濃を三方から包囲する態勢だな。

 村上を下して北信濃に進軍すれば、得たりや応と長尾が出てくる。その時、背後からは武田が隙を伺っている。諏訪との連絡路は上杉が扼し、北信に進んだ軍勢は敵中で孤立する、か。

 信濃全域をぐるりと囲む巨大な『鶴翼の陣』ってわけだ。


 宇佐美定満あたりの描いた絵図だろうが、なかなか悪くない。


「以上が表向きの陣立てとなります」

「ふむ。上杉はこのまま抑えておくのか?」

「いえ。足利の越後出陣に呼応し、北条が厩橋城へ向けて兵を出す手筈となっております」

「北条が厩橋城を攻めるのか?」

「攻めるをするだけにございましょう」


 六角の足利征伐に協力したという実績だけを作っておく腹か。で、首尾よく六角が勝ち、足利が総崩れとなった暁には一息に城を攻め取る、と。

 幻庵あたりの考えそうな姑息な策だな。


 ……ふむ。

 北条にほとんどタダで厩橋城を呉れてやるのは癪だが……。


「まあ、いい。上杉はこれで動けなくなるだろうしな」


 北条の旗が見えれば上杉も動揺するだろうし、その分小県の三好・朽木はラクになる。挟撃するつもりが挟撃される側になったとなれば、上杉も小県に兵を出すどころではなくなるだろう。

 なにせ、長尾景虎は信濃に居て六角と対峙しているし、他に援軍が来る見込みは無い。


 この一手で鶴の一翼は折れるな。


「そのため、小県の抑えは朽木殿単独にて願い、三好勢は足利の出陣と同時に密かに北信へと陣を移して頂きます。既に三好筑前守殿、朽木民部少輔殿にはその旨、承諾を頂いております」

「斎藤山城(斎藤利政)にもちゃんと報せておけよ。密かに事を運ぶのはいいが、あの爺様は何も知らされてないとなればヘソを曲げかねんぞ」

「……承知致しました」


 宇喜多が一瞬だけ嫌そうな顔をした。

 あまりウマが合わんのかなぁ……同族嫌悪的なアレかな?



「さて、関東・越後はそれでいいとして、甲斐は?」


 俺の言葉に伝次郎が少し前に出した。

 叔父の庄衛門は決して座敷に上がろうとしなかったが、こいつは積極的に膝を進めて来る。

 こういうのを見ると、世代が変わったって実感するな。


「甲斐への塩止めは二月前から始まっております。恐らくそろそろ地下(民間)に蓄えられた塩も尽きる頃合かと」

「ふむ。それで?」

「明後日より、こちらの子飼いの者に再び塩を運ばせます。ただし、同時に噂を撒きまする。

『甲斐へ攻めてくるのは武田陸奥守殿(武田信虎)であり、自らを追放した太郎を再び追い落としに来たのだ』と」


 ふむ。六角家による甲斐侵攻ではなく、あくまでも武田家中の内紛という形を取るか。

 信虎追放の実行犯だった板垣・甘利はもう居ない。そして、史実で武田信玄の全盛を支えた者達はまだ十分な風格を持つに至っていない。

 全軍を率いて戦う器量があるのは、せいぜい飯富虎昌くらいか。


「いいだろう。だが、足利が出陣したのちにいつまでも次郎(頼保)が諏訪から動かねば、武田もこちらの仕掛けだと見抜くぞ。

 武田家中を浮足立たせ、かつ噂を早く巡らせる必要がある。機を計るのが難しい所だな」

「その為に、私自ら甲斐へ参ります」

「伝次郎がか? 何か伝手があるのか?」

「良い伝手を見つけました。甲斐では新参であり、かつ噂を広めてくれそうな商人が居りまする」


 さすがは庄衛門の甥だな。中々の手配りだ。

 甲斐国内が動揺すれば、武田も巨摩郡で踏ん張り続ける訳にいかなくなる。もう一翼もこれでは充分に働けまい。


 長尾景虎……いや、宇佐美定満は驚くだろう。

 北信濃で時間を稼げば勝てるはずだったのが、いつの間にか味方が崩壊して一か八かの正面決戦になるんだからな。


「いいだろう」


 俺がそう告げると、一座に少し弛緩した空気が広がる。

 現地での策は任せてあるとはいえ、やはり俺の承諾があった方が安心もするのだろう。


 その時、伝次郎が少し膝を進めた。


「一つだけ、私からお願いの儀がございます」

「ん? 構わん。言ってみろ」

「此度の伝手を得るに当たり、塩止めの禁を破った者を一人お赦し頂きとうございます」

「つまりは、その者が伝次郎の言う『伝手』という訳か」


 伝次郎が無言で頭を下げる。

 まあ、一人二人の目こぼしくらいはどうと言うことも無い。元々こっちも黙認状態だったんだしな。

 賢頼に視線を向けると、ゆっくりと頷いた。息子が同意しているなら、俺にも言うことは無い。


「分かった。首尾よく行った暁には、相応の褒美も取らせろ」

「一命を助けるだけで充分かと存じますが……」

「今はそうかもしれんが、そのうちにその者も己が利用されたと気付くだろう。その時、自分が利を得ていないことに不満を持つかもしれん。途中で心変わりなどされても面倒だ。

『このまま協力すれば良い目が見られる』と思わせておけ」

「承知致しました」


「ところで、その者の名は?」

「北近江の者で、名は木之本藤次郎と申す者です」


 木之本藤次郎……木之本藤次郎……か。知らんな。

 木下藤吉郎だったら知ってんだがな。ははっ。


 まあ、藤吉郎の出身は北近江じゃなくて尾張だし、単に似た名前ってだけだろう。


「その藤次郎とやらに望む褒美を取らせると言っておけ」

「ハッ!」


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