軍師

 

 ・貞吉四年(1546年) 六月  相模国足下郡 小田原城  北条幻庵



「叔父上、六角が動いたというのは真か?」


 息を弾ませ、慌ただしい足音と共に御本城(北条氏康)が入って来る。

 河越城とこちらを往復しているのだから無理もないが、まずは装束くらい改めて欲しいものだな。


「小笠原が斎藤に仕掛けたとのことにございます。まず間違いなく六角の手引きでありましょう」

「さすがに動きが早いな。越後は出鼻を挫かれたわけだ」


 御本城が愉快そうに笑う。


「笑っている場合ではありませんぞ。此度は越後公方自ら関東に馬を進めるとの風聞がしきりでございます。こちらも対応を考えませぬと」

「ふん。上杉が裏切ったおかげで、古河公方に近しい者達は動揺している。それに、こちらには梅千代王丸(足利義氏)が居る」

「さて、そのことでございます。御本城は梅千代王丸を次の古河公方にとお考えですかな?」

「無論だ。上杉は下手を打った。上杉自身は越後公方と気脈を通じているかもしれんが、古くから古河公方に付き従って来た者共は面白くあるまい。梁田やなだあたりは越後公方を呼び込んだ上杉を恨んですらいよう。

 それらの者どもをこちらになびかせるには、こちらで古河公方の正統を立てるのが良かろう」


 やはりか。

 危うきかな危うきかな。


「それでは、六角公方の思う壷でございますぞ」

「何? どういうことだ?」

「六角公方は、我ら北条と長尾を噛み合わせようとお考えなのです。関東で我らが戦っている間に信濃を手中に収め、越後を伺う。さすれば、越後は易々と落とせましょう」

「良いことではないか。叔父上のおかげで六角公方との関係は悪くないのだ。長尾が滅びれば、こちらも里見攻めに全力を向けられるというもの。いや、その前に武田を叩かねばならんな」

「その後、梅千代王丸はいかがなされます。六角公方は、古河公方も越後公方も決して認めはしませぬ。事によっては、我が北条が古河公方の庇護者として六角と戦うということにもなりかねませんぞ」


 顔色が変わった。

 やはりそこまでは考えておらなんだか。


 恐らく、六角公方は梅千代王丸を殺せとは言うまい。だが、古河公方として立てることも無いだろう。

 そうなれば、古河旧臣は再び我らに叛く。関東の地ならしをするのは我が北条の役目となる。

 我らが関東の鎮圧に手間取れば、好機とばかりに六角が関東へ出兵する。

 北条は次々に起きる内乱に力を使わされ、最後に出て来た六角が全てを奪い取ってゆくばかりだ。


 今古河公方を抱えるのは、先々六角の関東出兵を誘う絶好の口実となる恐れがある。


「ううむ……では、叔父上はどうすべきと?」

「こちらが力を出さねば良いと存ずる。御本城が仰せになった通り、長尾は出鼻を挫かれました。かくなる上は、長尾は関東に長居することはできますまい。

 我らが籠城の構えを見せれば、必ず根負けして兵を退くものと存ずる」

「そして、戻った長尾は信濃で六角と戦う、というわけか」

「左様に相成りましょう」


 長尾は六角と噛み合ってもらう方が良い。


 古河旧臣の信を失った上杉には、もはや関東を纏める事など出来ぬ。

 長尾と六角が信濃で睨み合えば、その分だけ北条が関東を切り取れる。武田なり里見なりを潰すのは、それからで良いのだ。


「……うわっはっはっは。さすがは叔父上だ。悪だくみにかけては天下一品だな」

「我が策を採っていただけて幸いにございます」

「そうと決まれば、籠城の支度だな。河越城の兵も少しづつ引き上げさせよう」

「いえ、ほどほどに戦い、ほどほどに負けて見せた方がようございましょう。いきなり兵を引き上げると、長尾が早々に越後に戻る。せめて六角公方が出陣するまでは、長尾をこちらに引き付けておいた方がよろしいかと」

「ふむ……では、儂は今何をすれば良い?」

「左様、まずは風呂にでも入り、装束を改めなされませ」


 この時になって、御本城が己の衣類の汚れに気付いたような顔をする。

 馬を駆けさせたのであろうな。体中が泥だらけだ。特に足がひどい。




 ・貞吉四年(1546年) 六月  越後国頚城郡 春日山城  西川伝右衛門



 春日山城内は物々しい雰囲気で満ちている。まあ、近く関東へ出兵するというのだから無理もない。

 私も直江津に戻って荷卸しの采配を取らねば。


「中一屋殿(伝右衛門の屋号)、待たれよ」


 呼び止められて振り向くと、宇佐美駿河守殿(宇佐美定満)が近づいて来ていた。


「これは駿河守様。何かご入用でも?」

「御屋形様(長尾景虎)と話しておられたそうだが、御屋形様の御様子はいかがであった?」

「御様子……はて、別段気になることはありませんでしたが……」


 強いて言えば、よくお酒を召し上がっておられたな。だが、長尾様の酒好きは今に始まったことではないし……。


「ふぅむ……」

「何かご心配事でも?」

「ああ、いや。何でもない。お変わりが無ければそれでよい」

「左様ですか」


 奥歯に物が詰まったような言い方が気になるが……。

 まあ、私が気にすることでも無いか。


「では、手前はこれにて」

「ああ、いや。……待たれよ」

「はい?」


 一体何なのか。

 駿河守様が辺りを伺い、思い詰めたように私の手を引く。一室に誘われると、誰も居ないことを確認してから戸を閉めた。

 やはり何かご心配事があるのか?


「……これはそこもとを信じて打ち明ける。他言は一切ご無用に願いたい」


 駿河守様の目には殺気に似た気迫が籠っている。これは、うんと言わねばこの場で斬られるやもしれんな……


「承知致しました。承りましょう」

「小笠原のことだ。我らとしてもほとほと参っておる」


 そう言えば、小笠原信濃守様が熊井城の斎藤勢に攻めかかったと聞いたな。

 察するに、長尾様へ後詰の依頼でも回って来たのか。


「兵糧でしたら、次の船便は今しばらくかかります。蝦夷から持ち帰った荷を敦賀まで運ばねばなりません」

「いや、兵糧はもう充分用立ててもらった。それには感謝しておる。そのことではない」


 駿河守様の目がますます鋭くなる。

 何かよほどのことが胸につかえておられるらしい。


「……御屋形様は、公方様を奉じてあくまでも六角と事を構える御覚悟であられる。だが、儂としては六角と和する道も探っておきたいのだ。

 このようなことが御屋形様のお耳に入れば、儂は即刻斬られるかもしれぬ。だが、それでもいざという時には御屋形様をお諫めし、越後が生き延びる道を探さねばならぬ。

 お手前は六角定頼公とも交友があると聞く。


 定頼公はどのようにお考えなのか、御屋形様と和するお心積もりは無いのか、一度聞いては頂けぬか」


 ……ついに来たか!

 六角様の言われる通りだったな。江越和平の兆しをついに見つけた。


「駿河守様のお心の内は承知致しました。次に近江に戻りました折には、必ずや六角様にお目にかかり、お心の内を伺って参ります」

「おお……そこもとにそう言って頂けて、心底安堵した。何卒、よろしく頼み入る」


 そうと決まれば、急いで近江へ戻らねば。




 ・貞吉四年(1546年)  六月  越後国頚城郡 春日山城  宇佐美定満



「御屋形様。中一屋殿と話して参りました」

「そうか……。中一屋は何と申しておった?」

「喜んで働かせて頂くと」


 御屋形様が複雑な顔をされる。

 親交浅からざる中一屋を騙すような形になるのが心苦しいのだろう。


「御屋形様は何もお気になさいますな。中一屋を騙したのは、某にござる。御屋形様はこの件に一切の関りを持たぬのです」

「しかしな……今少しやり様は無かったのか……」

「やむを得ますまい。小笠原の件は六角にしてやられました。かくなる上は、関東での戦が済むまで六角と仮初の和を結ぶ必要があります。

 北条と決戦し、関東の諸将を纏め、兵を返して信濃を奪還する。その為には、六角と和議の交渉を行いつつ時間を稼ぐしかありません」


 兎も角も六角本軍の出陣は今少し抑えておかねばならぬ。斎藤だけならば小笠原・村上で足止めも出来ようが、六角軍が本格的に兵を進めれば我らも全力で迎え撃たねばならぬ。

 これで斎藤の足が少しでも鈍れば儲けものだが……。


「時に、武田はどうしている?」

「報せでは、都留郡に新たな城を築いておるとの由。北条との戦に備えたものでございましょう」


 御屋形様の顔が憂いを帯びていく。


 本音のところでは、御屋形様は関東になど行きたくないのかもしれぬな。

 信濃で斎藤と戦をしていれば、遠からず六角本軍も信濃へ兵を進めよう。その時こそ、全力を持って決戦に及び、六角定頼を討ち取る。

 それこそが御屋形様の望みなのかもしれぬ。


 ……あるいは、御屋形様ならば本当にできるかもしれんな。

 定頼を討ち取るまで行かずとも、六角軍を打ち負かすことさえできれば情勢は大きく変わる。

 常勝無敗を謳われる六角定頼に土を付けたとなれば、御屋形様の武名は天下に轟くだろう。


 あるいは、このお方ならば……。


 だが……


「此度の戦は、関東を平らげる戦。関八州の精兵を纏め、関東より天下を平定するのです。

 その為の策とご理解下さい」

「……分かっている」


 ……ふふ。可笑しなものだな。

 もともとこの方を担いだのは、軽い神輿になってくれると期待したからに過ぎぬ。六角と天下を懸けて戦うなどと思ってもみなかった。


 それがお側で働くうち、いつの間にか『このお方ならば』と思うようになってしまった。

 儂もヤキが回ったかな。


 それでもいい。

 このお方こそ天下を平らげる器だ。

 今の儂は、心からそう信じている。


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