第三次六角征伐(2) 千里山の退き口

 

 ・天文十一年(1542年) 二月  摂津国島下郡 千里山  三好頼長



「申し上げます!榎並城を発した朝倉軍が神崎川を越え、こちらへ向けて進軍中との急報が参りました!その数、およそ一万!」

「何ぃ!」


 物見の報告を聞いて一瞬目眩を覚える。あまりに動きが早い。

 京の義父上から河内が敵に回ったと報せを受けたのはつい昨日だ。それを受けて陣を動かすべく軍議を開いていた所だというのに……。


 改めて絵図面に目を落とす。

 我らは千里山に布陣して茨木城と伊丹城の連絡を絶っている。茨木城の北には芥川山城があり、茨木城を包囲している形勢だ。

 だが、榎並城が敵に回ったとなれば千里山本陣が逆に茨木城・伊丹城・榎並城に包囲される形勢となる。よもや朝倉……いや、遊佐の動きがこれほどに早いとは……。


 思わず大和守(篠原長政)に視線を送るが、大和守も難しい顔をしている。いや、大和守だけではない。本陣の全員が顔色を失っている。


「今すぐに撤退を開始して逃げ切れるか?」

「難しゅうござる。神崎川を越えたのであれば、一刻(二時間)の内には敵からもこちらが見えるはず。撤退中であると見破られれば、すぐさま追撃を仕掛けて来るは必定」

「しかし……しかし、ならばどうする!」

「……」


 答えは無い。このままでは三好軍は四分五裂して首を刈り取られるだろう。退くも地獄、留まるも地獄か。

 ……やはり無理を承知で撤退戦をするしかない。夜陰に紛れて芥川山城まで戻れれば後詰の兵も残っているから一月ほどは凌ぐことができるはず。その間には義父上の援軍も到着するだろう。

 そうなると殿しんがりは……


「松永ぁ!」

「ハッ!」


 突如大和守の大声が本陣内に響く。弾正が条件反射で大和守を振り返った後に怯えたような顔になっているな。

 確かに厳しい戦いになるが、弾正ならば上手く逃げ切ってくれるやもしれん。


「殿を勝竜寺城までお連れ申せ」

「は……は?」


 思わず弾正が間の抜けた返事をする。てっきり弾正に殿を務めさせようということかと思っていたが……。それに、勝竜寺城へだと?


「殿は、儂が務める」

「ご家老様が……」


 大和守が……。殿軍の撤退は体力勝負だ。逃げる時は一息に駆けねば背を討たれる。大和守は戦場の駆け引きは巧みだが、殿軍を務めて逃げ切る体力があるだろうか。

 弾正から儂に向き直った大和守がゆっくりと頭を下げる。


「この上は陣を払い、一旦退却をせねばならぬでしょう」

「無論だ。だが、逃げる先は芥川山城であろう」

「それはなりませぬ。芥川山城ではいざと言う時の逃げ道がありませぬ。大和にも敵の手が伸びているという話もありますれば、宰相様の援軍も分散を余儀なくされましょう。援軍を得たとて確実に勝てる保証はありません。

 朝倉勢一万に加え、伊丹や茨木も合力するのです。仮に滞陣が長引けば、我らは芥川山城で孤立致しまする。

 勝竜寺城ならば淀城にも近く、天王山を抑えれば寡兵でも持ちこたえることが出来申す。万一の場合には八木城の甚介(松永長頼)も駆けつけることが出来ましょう」


 それは道理だが、しかしそれでは大和守は……


「芥川山城には堀田源八を残しております。残った兵やお方様も源八と共に勝竜寺城まで退却するようすぐにお下知をなさいませ」

「しかし、それだけの時間を稼ぐとなればここで二日は持ちこたえねばならん。朝倉軍を率いるのはあの朝倉宗哲だぞ。それに、伊丹や茨木も朝倉が参ったと知れば城を討って出て来よう。

 いかに大和守と言えどもそれほどに踏みとどまっては……」

「某の事は、お心から払われよ」


 ま、まさか……


「爺! お主ここで死ぬ気か!」


 大和守がニコリと笑う。

 ……何故、笑うのだ。


「これからの殿に必要なのは若き力でございます。この爺めは、ここで敵を食い止めることを最後の御奉公とさせていただたく所存」

「ならん!ならんぞ! 爺にはまだ生きてもらわねばならぬ!」

「ふっふっふ。聞けませんな。某は亡き御父上の御下知すらも跳ね除けた偏屈者でござる。若造に過ぎぬ殿の下知などには従えませぬ」

「ま、まだ打つ手はあるはずだ。朝倉と一戦して陣を整え、その上で退却すれば……」


 爺がゆっくりと首を振る。


「それではいたずらに兵を損なうだけでございます。朝倉はあくまでも先陣。本軍は和泉に陣する遊佐並びに公方にござる。この老いぼれの命一つで緒戦の被害を抑えられるのならば、安いものと思し召されよ」

「……」


 思わず涙が頬を伝う。いかん。このような姿を家臣に見せては……。

 再び爺がニコリと笑う。懐かしい笑みだ。傅役であった昔にはよくこのような笑顔を見せてくれた。


「若……。爺は楽しゅうございましたぞ」

「楽しい……?」

「左様。幼き若を抱えて堺から逃れて十年余り。若は立派な御大将へと成長為されました。若の成長をこの目で見られたのは望外の幸せでございます。某は、果報者でございました」

「ま、まだだ。爺には儂の子を見てもらわねばならんのだ。ここで死ぬなど――」

「しっかりなされませ! 近江宰相様をも超える男になられるのでしょう。ここでまごついていては大きな男には成れませんぞ」


 爺以外の全員が涙を流している。こんな所で爺を失うなど……。


「ここは、この爺めを切り捨てる決断をなさいませ。この老いぼれの命を惜しんでいたずらに兵を損なうなど、一軍を預かる御大将にあるまじき下策でございますぞ」




 ・天文十一年(1542年) 二月  摂津国島下郡 千里山  篠原長政



 弾正らに伴われて殿が下がってゆかれた。これで良い。千熊丸様はこれからより一層大きくなられる御方だ。その為に今は何を置いても御身を無事にお逃がしすることが肝要。

 他の者も順次兵を退いて行くだろう。弾正……甚介……お主らはこれからの三好家を支えていく柱石となる男たちだ。殿を頼むぞ。


 さて、儂も配置に着くとしようか。


 ……思えば、儂も随分と長く生きたものだ。本当ならばあの時、亡き殿と共に顕本寺で腹を切っておった身だ。千熊丸様の御為に死ねるのならば、本望というもの。


「ご家老様! 迎撃の用意が整いました!」

「うむ。朝倉勢の動きはどうか」

「本陣を豊中に置き、先陣から順にこちらに攻めかかる態勢を整えております!」

「ここに残る兵が五百に満たぬことは知られておらんな?」

「敵も様子を見ながら攻めてきておりますので、恐らくは」

「うむ。儂も前線へと参ろう」

「ハッ!」


 丘の麓には夥しい『三つ盛木瓜』の旗がはためいている。こちらも撤退する兵の旗は残しておいた故、ここには未だ五千の兵が陣を敷いていると思われているはずだ。

 どこまで見破られずにゆけるかだな。


 ……ん?

 朝倉の兵は今一つ統率が取れていないようだな。様子見というよりは先陣と後陣の連携が遅れて素早く進軍できずにいるように見える。


 どうやら朝倉兵は一万と言えども実態は寄せ集めに過ぎぬか。だが、朝倉軍の中核は越前より追従した歴戦の士のはず。甘く見ると二日どころか一日で攻め潰されるだろう。


 空は既に夕焼けに近くなっている。

 本格的な攻めは明日になるだろう。まずは夜襲でも仕掛けて敵を攪乱してくれようか。


「弓隊! 一斉射用意! 不用意に上って来る敵勢の頭に矢の雨を降らせてやれ!」


 弓隊が弓を引き絞る音が響く。



 ……殿。長らくお一人でお待たせしてしまい、申し訳ありませなんだな。

 間もなく孫四郎はお側へ参りますぞ。


 ……ふっふ。某が冥土へ参れば、殿は何と仰せになりましょうか。

 きっと『儂の許しも無く勝手に死におって』とお叱りになられましょうな。お許し下されよ。

 ですが、千熊丸様はご立派な御大将へと成長なされました。この一事だけはお喜び頂きたい。千熊丸様は必ずや殿を越える大きな男になられます。千熊丸様を託して頂けたこと、心より感謝申し上げますぞ。



「放て!」


 儂の下知で攻め上って来る朝倉勢に矢の雨が降る。

 さて、朝倉宗哲よ。この大和守、ただでは死んでやらぬぞ。




 ・天文十一年(1542年) 二月  丹後国加佐郡 片山城  朽木稙綱



「お役目ご苦労であった。下がって休まれるが良い」

「公方様は朽木殿を心より頼りとしておられる。何卒よしなにお願いいたします」


 幕臣の三淵掃部頭(三淵晴員)が上座を下り、慇懃に儂に頭を下げて広間を出ていく。


『六角を討て』か……。


 まったく、あの男は次から次に問題ばかり起こしおって!


「父上、いかが為されますか?」


 三淵が下がった後、倅の弥五郎(朽木晴綱)が早速に儂の側に寄って来る。

 そうよな。まずは朽木としての態度を決めねばならん。


「弥五郎。お主はどう思った?」

「……公方様からの正式な御内意であれば、武士として、また朽木家の慣例として、従うのが道理ではあります」

「そうよな」

「ですが……」


 そのまま弥五郎が言い淀む。

 そう。だが……。


「一色左京大夫(一色義幸)も協力すると申していたな」

「左様です。一色は公方様の御扱おあつかいにことよせて必ずや加佐郡の返還を申し立てて参りましょう。この片山城を奪取するのに我らも少なくない犠牲を払っております」

「分かっておる」


 そうなれば儂は若狭一国に高島郡の太守。そこまでだ。

 武田を討ち、若狭を平定しただけで満足ならば、何のために悪名を承知で武田を裏切ったのか。何のために朽木の男たちを死なせたのか。


「兄上、考えるまでもありますまい。今六角と敵対すれば、高島郡を領する我ら朽木はいの一番に六角と兵を交えることになります。遊佐の盾として時間稼ぎに使われるのが関の山にございますぞ」


 信濃守(朽木賢綱・稙綱の弟)が重々しく発言する。

 その通りだ。そこが最も気に食わん。


 何故遊佐なのだ。何故御内書の副状を出すのが遊佐河内守(遊佐長教)なのだ。

 公方様が六角と敵対するというのならば、まずは我が朽木を頼るのが筋であろう。その為にこそ、我らは若狭を奪って力を蓄えておったというのに……。

 このままでは、例え勝ったとしても六角の代わりに遊佐の風下に立つだけだ。畠山の陪臣如きの風下に立つために儂らはここまで命を懸けて領土を広げてきたわけではない。


 ううむ。だんだん腹が立って来たぞ。


 そもそもあ奴もあ奴だ!遊佐如きに易々と出し抜かれおって!いつもの偉そうな態度はどこへ行った!

 三好筑前守は朝倉に背後を強襲されて重臣の篠原大和守を失ったと聞く。それもこれもあ奴が遊佐に出し抜かれたりするからではないか。


「ええい全く、とことん世話の焼ける男だ!」


 拳を床板に叩きつける。

 気持ちを爆発させたことでいっそすっきりしたわ。


「弥五郎! 兵二千を率いて勝竜寺城へ向かえ。 信濃守! 片山城の防備を固め、一色の動きに目を光らせよ」

「では!」

「うむ。公方様には申し訳ないが、我らは遊佐の風下には立てぬ」

「六角にお味方するのですな?」

「違う! 三好筑前守殿の後詰だ! あくまでも我らは三好筑前守殿に合力する。公方様にもあ奴にもそう伝えよ」

「三好殿の後詰を我ら朽木が務めるとなれば、宰相様も喜ばれましょうな」


 弥五郎め。したり顔で余計なことを申しおって。


「弥五郎。つまらんことを言うな。ともかく我らは三好の背を守り、一色と波多野の京への進軍を阻む。今回の戦いは厳しい戦になると心得よ」

「ハッ!」


 ふん。まったく。

 人を好き放題に振り回しおって。結局あ奴の期待通りというのがつくづく気に食わん。


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