琵琶湖の鮎

 

 ・天文五年(1536年) 六月 尾張国中島郡 正徳寺  斎藤利政



 正徳寺の本堂に入ると近江宰相様がにこやかに出迎えられた。


「この度は尾張征伐を終えられたこと、祝着至極に存じまする」

「いやいや、俺はそれほど働いておらん。頼もしい家臣たちがよく動き回ってくれたので、遊んでばかり居たわ」


 近江宰相様が尾張征伐を終え、近江に戻られるという。北近江に所用あり、ご本陣は馬廻衆のみを連れて美濃を経由されると聞いたので正徳寺まで出迎えに来た。

 宰相様からは昨年の洪水を慮って尾張征伐には出陣無用との仰せであったが、いくら何でも美濃を通られるのであればご挨拶に出向かねばならぬ。それにしても、ご挨拶が遅れたことも特に気にしておられないようで一安心だ。


「それより、美濃の復興はどうだ?」

「おかげ様にて、何とか餓死者はほとんど出さずに済みました。今は各郷で田植えを行っております」

「そうか。次なる被害を生まぬためにも、堤防普請などもしてゆかねばならんな」

「はい」


 昨年の洪水では多くの者を亡くした。近江では普請組を作って堤防普請などをされているということだが、美濃でも同じく堤防普請をしていかねばならんな。


 ……ん?


 何やら本堂の影から童子が顔を覗かせている。可愛らしい童子だな。


 トテトテと頼りない足取りでこちらに入って来た。続けて”吉法師。いけません”という声がして若い女人が童子を連れ出そうとしている。

 ははあ。ということは、このお方が噂の……。


「ああ、お花。構わんから吉法師をこちらへ」

「ですが……」

「なに、斎藤山城守殿にご挨拶したいのだろう」


 宰相様が手招きされると童子が近くに来て立ったままじっと儂の方を見てくる。


「山城守殿、吉法師殿だ。この度近江で預かることになった」

「お初にお目にかかる。斎藤山城守利政でござる」


 ははは。ポカンとした顔で儂の目をじっと見ておる。やはり幼子は可愛いものだな。

 興味を失くしたのか、吉法師殿がまたトテトテとした足取りで縁側に向かって歩いていった。


「どうやら、某は振られたようでございますな」

「はっはっは。俺も吉法師にはよく振られる。まあ、今はまだあちこちに興味が移る年ごろなのだろう」


 宰相様も何とも柔らかいお顔をされている。

 噂ではお花の方欲しさに吉法師殿を近江で預かったということだが、この様子ではまるで吉法師殿が目当てであるように見える。衆道を好まれるという噂もこの辺りから出て来たのかもしれんな。


「それより、守山城や品野城には未だ松平勢が残っている。尾張には北河又五郎を残して来たからそう簡単には動けぬと思うが、美濃に侵入して来ないとも限らん。復興で忙しいだろうが、警戒は怠らぬようにしておかれよ」

「ハッ!」


 そうだな。松平次郎三郎(松平清康)は洪水で疲弊した美濃を盗りに来るつもりだったのかもしれん。六角家が尾張に進出したことで一旦軍勢を退いたが、宰相様が近江に戻られればまたこちらへ来ることも考えられる。

 南部の国人衆には万一の備えは怠らぬように改めて申し伝えよう。




 ・天文五年(1536年) 六月 近江国蒲生郡津田村  西川伝七



「おん。今日こそは許してもらうぞ」

「伝七。お前もしつこいのう。アカン言うたらアカンのや」

「何でや!甚助兄ちゃんは横関衆の足子として商いに出てるやないか。儂も商いで身を立てていきたいんや」

「阿呆。そやさけ言うて、いきなり蝦夷へ行くて何考えてんのや」


 くそう。お父んの石頭め。

 六角様の足子募集ももうすぐ締め切りになると聞く。今日こそおんを説き伏せて村を出んと船に乗り遅れることになってまう。


「第一、甚助は足子と言うても楽市からウチに持ってくる肥料を近所の郷に配る手伝いをしとるだけやないか。家を空ける言うてもほんの数日や。それに引き換え、蝦夷に行ったら年に一度帰れるかどうかやと言うやないか。その間畑や田んぼはどないする気なんや」


「それは……田んぼなんてしてられへん。せやけど、蝦夷行きの船に乗れば早ければ三年で座人に昇格させたると馬五郎さんは言うてはった。座人にさえなれば、己の才覚で身を立てていける。商いで食っていくことが出来るようになる。こんな機会は滅多にないやんか」

「なんやお前、田んぼ耕すのは嫌なんか?」

「ああ、嫌や。儂は六角様の旗の下で商人になるんや」


 お父んがため息を吐いて儂に向き直る。またあの話か。


「ええか、伝七。お前の叔父、儂の弟の又次郎は岡山城の九里様に仕える武士やった。そやけど、六角様と九里様が戦った時……」

「最期まで九里様に従って討ち死にしたんやろう。もう耳にタコやわ」


「話は最後まで聞け。その後、六角様は村住みの百姓を兵に徴収されることを止められた。今六角様に従っている兵は皆自分から武士になりたいと言うて出て行った者ばかりや」

「そやから、儂も六角様に従って……」

「それまでは百姓が戦で死ぬのは当たり前やった。儂の兄弟も又次郎だけやなく他の三人も討ち死にしてしもたんや。戦が起こっても死ぬ心配が無いということがどれだけ有難いことか、お前もそろそろわからなアカンぞ」


 お父んがこの話しだすと長いねんなぁ。まあ、以前は戦で兄弟が簡単に死ぬ世の中やったらしいから、わからんでもないけど……。


「我が西川家はな、先祖代々ずっとこの津田村で土を耕して生きて来たんや。長男は家に残り、徴兵には次男以下が応じて西川の血を絶やさぬように生き抜いてきた。

 お前が今当たり前のように耕してる田は、累代のご先祖様が命を懸けて守り続けて来たもんなんやぞ」


 ここで負けたらあかん。ここで退いたら儂はせいぜい兄貴の分家として田を分けられて終わりや。


「そやけど、六角様は商売によって世の中を豊かにしようとしてはる。そう馬五郎さんが言うてはった。儂は商売人になって世の中の役に立ちたいんや」


「……半端な覚悟で出来ることやないぞ。ご先祖様から受け継いだ土地があれば、苦しい時はあっても何とか食べていける。そやけど、商売で身を立てるとなれば全ての銭を失う恐れもある。荷を狙った盗賊に命を奪われることもあるやろう。誰も彼もが成功できる物ではない。その覚悟はあるんか?」

「もちろんや。儂はそれでも商いをしていきたいんや」


 しばらく見つめ合った後、お父んがまたため息を吐いて奥に引っ込んだ。やっぱり許してはくれんか。

 ……ん? 何やら奥から刀を持って出て来た。ウチにあんな刀あったかな?


「これは又次郎が腰に差してた脇差や。何が起こるかわからん。用心のために腰に差しておけ」

「……じゃあ!」

「そんだけ言うなら好きにしたらええ。その代わり、もう帰る家はないというつもりでやれ。アカンかったら帰ったらええなんて半端な覚悟でやるな。わかったな」

「ああ、わかった!」


 よし!早速明日にでも石寺の馬五郎さんとこに行こう。儂も蝦夷に連れて行ってもらうんや。




 ・天文五年(1536年) 六月  近江国浅井郡 山本山城  西川伝七




 常楽寺湊で船に乗ってからもう半日くらいか。腰が痛いなぁ。

 でも、目の前には湊が見える。ようやく蝦夷に着くんかな?


「馬五郎さん。あの湊が蝦夷の湊ですか?」

「はっはっはっは。馬鹿を言え、あれは山本山城の湊だ。ここはまだ近江だぞ」

「ええ!?そやけど半日も船に乗ってたのに……」

「まだまだだ。蝦夷までは敦賀からおおよそ一月近く船に乗ることになるらしい。たった半日で音を上げていてはとても蝦夷までの船旅は持たぬぞ」


 そうなんか……。こんだけ船に乗っててもまだ近江やなんて、近江は広いんやなぁ。



 湊に着くと各地から集められた足子がそれぞれの組頭に従って集合する。何人居るんやろうか。馬五郎さんの組で十人で、組頭は五人くらい居るから、おおよそ五十人か。

 すごい人数やなぁ。こんだけの頭数で田植えしたら、津田村全部やったかて一日で田植えが終わってしまうわ。これ全員が蝦夷に行く足子なんやろうなぁ。


「皆の者、ご苦労である!儂は六角家臣、建部七郎右衛門である!今回は蝦夷行きに志願してくれたことを嬉しく思う。危険な旅路ではあるが、皆の武運を……」


 集団の正面に立つ武士が大声で話し出したな。なんやら仰々しい物言いしてはるけど、どうやらこの七郎右衛門様が敦賀まで連れて行ってくださるらしいな。


「む!皆の者!控えい!御屋形様が通られる!」


 七郎右衛門様がお城の方を向いて膝を着かれた。そういえばさっきからお城にお武家さんが次々に入っていくなぁ。ひと際大きな馬に乗って、卯の花色の立派な具足に引立烏帽子を被った鎧武者が遠目に見える。あのお人が六角様やろうか。


「馬鹿!伝七!早く膝を着かんか!」


 おっと、そうやった。馬五郎さんに叱られてしもた。

 そやけどやっぱお武家さんは堂々たるもんやなぁ。勇ましいというか、恐ろしいというか……。


 御一行が城内に入られると、もう一度立ち上がって七郎右衛門様がお話を始めた。なんや、もっぺん最初からかいな。なんや段取り悪いなぁ。野良仕事でこんなことしとったらお父んにどやされるで。


「……ということで、今日は山本山城下の宿に分宿し、明日朝から敦賀へ向けて出立する。敦賀から船に乗ったら以後我ら六角家の者は同行しない。全てはお主らの働きによって商いの道を開いてもらう。お主らで今年の蝦夷行きは最後になるが、この蝦夷行きは御屋形様も重大な関心を寄せておられる一大事である。よくよく肝に銘じて働いてもらいたい。以上!

 宿へはそれぞれ募集した組頭の者らについてゆくが良い。では、解散!」


 解散の声と共にそれぞれの組頭の元へ分かれていく。



 馬五郎さんの組は城下から少し離れた木賃宿や。むしろで雑魚寝かぁ……寝藁ねわらが欲しいなぁ……。


「馬五郎さん。せめて寝藁は無いんですかねぇ?」

「阿呆。儂が行商やってた頃は木賃宿に泊まるのも贅沢なことやったんやぞ。屋根の下で寝られるだけでも有難いと思わないと商人なんざやっていけないぞ」

「え……でも、木賃宿にすら泊まらなかったらどうやって……」

「野山で寝るか、お社の境内を借りて寝るかだな。治安の悪い所では念のために宿を求めるが、近江は治安がいいから宿を取るなんて贅沢は滅多にしなかった」

「そんなん、木賃宿の宿賃くらいは稼げるでしょう?」

「もちろん稼げるが、稼いだ分を自分の為に使っては駄目だ。自分が節約すれば、それだけ売値を安く抑えることが出来る。多くの荷を買い付けることが出来る。結果として、他人より少しでも大きな商売ができる。ただの吝嗇ケチじゃなく、商売の為だけに銭を使うんだ。これを『始末』と言う。

 覚えとけよ。商人やるんなら、自分の為に使う銭はびた銭一文だって惜しんで始末しないと駄目だぞ」


 そうなんか……。思ってたよりも厳しい世界やなぁ。

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