聖戦
・享禄五年(1532年) 二月 摂津国武庫郡 越水城 篠原長政
「若!お待ちくだされ!」
「じい!しつこいぞ!」
「追い回されたくなければ厨から盗んだ物を返しなされ!」
「嫌だね!この餅は儂が貰っていく!」
ぬぅ……見失ったか。なんとも逃げ足の速い。
やれやれ、千熊丸様は快活なのは良いが儂の言葉を少しも聞いて下さらんのが珠に疵だ。今年は食料が不足している故、勝手に厨から食い物を持ち出されては困るのだが。
堺から若君様方や奥方様を越水城にお迎えしたが、弟君達のお手本にならねばならぬ千熊丸様があのご様子では先々が思いやられる。
まったく困ったものだ。
「大和守様、こちらに居られましたか」
「ん?源八か。一体どうした?」
「筑前守様がお呼びでございます」
「殿が……わかった。すぐに参る」
一体何事かと思い殿の居室に向かうと、殿が坊主頭を揺らしながら書状を見ておられた。
「お呼びでしょうか」
「大和守か。千熊達は良く言うことを聞いておるか?」
「千満丸様や千々世様は素直に聞き分けて頂けますが、千熊様は某のことをからかっておいでです」
「うわっはっはっは。さすがの大和守も幼子に掛かっては形無しだな」
「笑いごとではございません。快活なのは良いですが、某の言うことも少しは聞き分けて頂かねば」
「ははは。ま、あまり固いことを言うな。ああ見えてお主のおかげで子らは伸びやかに育っておる」
だといいが。あのご様子では儂のことを舐めておられるのではないかと心配になる。
「ところで、御用の向きはどういったことで?」
「おう、そうだった。これを見るが良い」
殿から書状を受け取って中を読み進める。
……ふむ。畠山上総介様(畠山義
上総介様も何とか勢威を回復させようと必死なのであろうな。
「飯盛山攻めに援軍を願うとありますが、行かれるおつもりですか?」
「うむ。上総介様直々の頼みとあれば断れまいよ。本音を言えば、これ以上堺方で儂の味方をしてくれる者を減らすわけにはいかんしな。それに、木沢は六郎様に接近して主家をないがしろにしておる。このまま見過ごすわけにもいかん」
「しかし、讃岐守様(細川持隆)からはくれぐれも自重せよと……」
「心配はいらぬ。此度は上総介様の援軍として参るのだ。それに、もう頭に血を上らせることはない」
まことに大丈夫なのであろうか。六郎様はまだ殿のことを明確に許すと仰せになったわけではないのだが……。
「それでな、儂が留守の間越水城をお主に任せたい。余人には任せられぬ。妻や子達も居ることだしな」
「それでは殿のお側で無茶をお留めする者が居りますまい」
「三好民部大輔(三好一秀)を連れて行く。それで納得せよ」
やむを得ぬか。確かにこれ以上お味方を減らすわけにはいかん。上総介様は木沢憎しだけで殿のお味方をして下さっているのだから、その木沢を討つ軍に反対すれば上総介様まで殿のお味方を離れよう。そうなれば、殿の味方は讃岐守様ただお一人になってしまう。
民部殿にくれぐれも殿が表立って動かれることの無いように注意してもらおう。
・享禄五年(1532年) 二月 摂津国武庫郡 越水城 三好千熊丸
……なんとか撒いたな。まったく、じいはしつこい。餅の一つくらいケチケチせずに食わせてくれてもいいだろうに。
よし、居室の周りにもはじいは居ないな。
「戻ったぞ」
「兄上!じいが血相を変えて探し回っていましたよ」
「おう。じいは撒いた。儂のすばしっこさには勝てぬようだぞ」
弟の千満丸に懐から取り出した二つの餅を見せる。
「ほら、これを厨からかっぱらってきた。二人で食べよう」
「わ!餅だ!……いいのですか?今年は食べ物が少なくなっているとじいからは聞かされていますが」
「なに、少しくらい構わんだろう。お前が要らないと言うのなら儂が一人で食べるぞ」
「ああ、食べます食べます」
素直にそう言えばいいのだ。
さて、火鉢に餅を埋めて焼けるまでしばらく待とう。
火鉢の灰の中に埋めると餅がゆっくりと柔らかくなっていく。ここの所粟粥と魚の干物ばかりで米が食えていないから、久々の餅は楽しみだ。
食い物が少なくなっても腹は減るのだから、人とは不便なものだな。
「そういえば、先ほどから城内が慌ただしいですね」
千満丸の言葉に周囲に聞き耳を立てる。確かに鎧や槍を用意するような音が先ほどからあちこちで聞こえるな。
「また父上が戦に行かれるのかもしれん」
「大丈夫なのでしょうか。父上は六郎様からお叱りを受けて頭を丸められたと聞きます。今戦をして六郎様からさらに叱られることはないのでしょうか?」
「それならばじいが命に代えても止めるだろう。じいが同意したのなら大丈夫だ」
そうだ。篠原のじいは頑固一徹で時には父上の命すら聞き入れない程だと聞いた。そのじいが同意するのならば大丈夫に決まっている。
「何の心配もないさ」
千満丸がじっと火鉢を見つめている。心配なのだろうか。でも、儂らにはそのような難しいことは分からん。じいと父上に任せておくしかない。
「心配か?千満丸」
「ええ……さっきから餅がだいぶ……」
ん?おお、餅が大きく膨らんで来ていたか。柔らかい部分に灰が付いたら台無しだ。
「あっちっちっち」
「兄上、大丈夫ですか?」
「心配ない。さ、食おう」
・享禄五年(1532年) 三月 摂津国堺 金蓮寺 細川晴元
筑前守め。何一つ反省しておらぬではないか。
儂の甚次郎を討ち取った詫び言の、その舌の根も乾かぬうちに次は木沢を攻めるとは。あの者は儂のことを何一つ重んじておらぬ。儂の意向を何一つ尊重しようとせぬ。
道永(細川高国)を撃退した時は確かにあ奴だけが頼りと思いもしたが、こうなってみるとあ奴は儂を凌ごうとしておるのやもしれん。
冗談ではないぞ!儂は細川京兆家の家督を継ぐ男だ。天下に号令する男だ。三好筑前如きに凌がれてたまるか!
「越後守(三好政長)、伊賀守(茨木長隆)、筑前を止める手立てはないのか?あ奴は儂の言うことを一つも聞こうとせぬ。これ以上放ってはおけん」
「左様、これは由々しき事態です。木沢殿は六郎様の忠臣となる者でございます。いかに木沢殿の御主君からの依頼とはいえ、殿に断りも無しに木沢殿を攻めるなど言語道断にございます」
「わかっておるのなら何とかせい。越後守はあの男の一族であろう」
「宗家ではありますが、某の忠告などどこ吹く風でござる。宗家の権威を笠に着て分家の某を侮っておりますれば」
ええい、この男も役に立たん男だな。何か筑前めに思い知らせる手はないのか。
「ですが、某に一つ腹案がございます」
ん?越後守が腹案だと?
「一体どんな案だ?話してみよ」
「は。されば、元々木沢殿が畠山を見限って殿に誼を通じられた裏には本願寺証如殿の仲介がございました。そのことが上総介様の飯盛山攻めの遠因になっていることも鑑みれば、本願寺にもこのことを厳しく秘匿せなんだ罪がございましょう」
「本願寺の非を鳴らしてどうする?寺を敵に回しても意味はあるまい。厄介事が増えるだけだ」
「敵に回すのは六郎様ではなく筑前殿でございます」
ほう……。要するに非を鳴らすのではなく協力を仰ぐということか。
「……本願寺に筑前を討たせる。と、そういうことだな?」
「左様でございます。茨木殿の縁者には確か本願寺坊官の下間氏との縁がございましたな」
「は。確かに我が分家の茨木近江守の娘が下間頼善に嫁いでおります。その子の頼慶は今や現法主の証如殿の側近く仕えておったかと」
茨木伊賀守めが突然に話を振られて驚いた顔をしておるわ。
だが、本願寺か……悪くない。本願寺の抱える一向宗を我が軍勢と出来るならば、筑前などに頼らずとも良くなろうな。
「しかし、本願寺が動くか?あ奴らは三法令によって武家の戦に介入しないと宣言しておるが」
「左様。武家の戦には介入いたしませぬ。ですが、筑前は熱烈な法華信徒でございます」
「ふむ。法華の徒を討つ為に協力せよということにするのか」
越後守が静かに頭を下げる。
この男、なかなか面白いことを考えるものだな。
「何が望みだ?」
「叶いますれば、筑前亡き後の河内十七箇所の代官職は某に下されたく」
ふふふ。領地を得る為に本家を切り捨てるか。面白い。
「いいだろう。見事筑前を討ち取ったならば、河内十七箇所はそなたのものだ」
「有難き幸せにございます」
「ただし、儂への忠誠を欠かしてはならんぞ。そうでなければ、次は三好越後守を討てと言わざるを得なくなる」
「無論にございます。武士の基本は御恩と奉公。信義だ何だと唱えてその原則を忘れた筑前殿の末路は、いわば自業自得にございましょう。某は六郎様から被った御恩を終生忘れることはございません」
ふむ。良いぞ。良いぞ。それでこそ忠臣よ。
「伊賀守は京の公方様へ使者として赴くが良い。用件は儂の文を届けることだ。和議を結びたいと申し込む。その
「ハッ。かしこまりました」
ふふふふ。甚次郎よ。そなたの仇は間もなく討つ。今は耳を澄ませてもそなたの声が聞こえぬのが無念でならぬが、冥府で喜んでくれような。
そなたの墓前に筑前の首を供えてやるぞ。楽しみにしておれ。
・享禄五年(1532年) 五月 山城国宇治郡 山科本願寺 顕証寺蓮淳
「
「左様。飯盛山城を攻める三好筑前守を討つのに協力せよと申してきました」
上人様(証如)がまた心配そうな顔をする。まだ六角に言われたことを気にしておるのか。六角など恐るるに足りぬと何度言えばわかるのだろうな。
「断るべきではないか?」
「いいえ、ここは本願寺として支援するべきと愚考いたします」
「何故だ?」
「まず第一に、細川六郎殿の申されることには理がありまする。六郎殿に木沢を取り次いだはお上人様でございますが、そのことが露見したために木沢殿は畠山上総介に攻められる破目になりました。こちらにも責任の一端があるという六郎殿の言は確かに言われてみればその通り。
そして第二に、堺は近頃法華宗の勢力が強くなっておりまする。村方では一向宗が広まっておりますが、堺の富の中枢を抑えているのは変わらずに法華や時宗の徒でございます。此度の協力で堺幕府へ恩を売れば、堺の中枢にも一向宗を広める契機となりましょう。阿弥陀様の貴い教えを広げる絶好の機会かと。
そして第三、これが最大の理由でございますが、今回六郎殿が討つと申された三好筑前守は熱烈な法華門徒であり、摂津各地では我が一向宗の寺領を横領し、さらには一向門徒を弾圧しております。ご承知のように我が一向宗と法華宗は水と油。今も今後も決して交わることはありません。その法華を守護する三好筑前はまさに仏敵と呼ぶべき男。仏敵を滅するは御仏に仕える者の使命でありましょう」
まだ顔色が晴れぬ。法主がそのような頼りなさげな顔をしていては、これ以上の教団の発展は望めぬわ。
「頼慶殿はいかが思われますかな?」
傍らに控える下間頼慶にも目線を移す。頼慶殿は戦に優れた男だ。この男が勝てると判断するならばお上人様も安心しよう。今こそ豊かな堺に一向宗の橋頭保を築く好機なのだ。
「某は武官故に戦に勝てるかどうかしか考えませぬ。此度はお上人様御自ら陣頭に立って仏敵を滅すと号されるならば大いに勝ち目がありましょう。
摂津や河内には石山御坊を中心に数万の門徒が居ります。若きお上人様が陣頭に立たれるならば門徒たちも勇気百倍。張り切って参陣致すかと思います。三好筑前と畠山上総介の軍勢は合わせてもせいぜい二万。我らの敵ではございません」
お上人様の顔もようやく明るさを帯びてきた。勝てると知れば現金なものだ。
此度は我が一向宗と法華宗の戦いだ。武家の戦はそのついでに過ぎぬ。全ては親鸞上人より続く貴い阿弥陀様の教えを広める為の聖なる戦い。法華経が唯一絶対などと思い上がる法華の者共に阿弥陀様の功徳のほどを見せてくれる。
「よし、分かった。仏敵三好元長を討つ!」
「ハハッ!」
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