7.
結局、ジョルジュはその日仕事を休んで休養を取ることにした。半ば朦朧としていたジョルジュ自身がというよりは、ロバートの判断だった。
太陽が天頂に達するころ、ベッドに戻って無理やり目を閉じていたジョルジュは、不意に悪臭が和らいだのを感じて、ほとんど気絶するような形で手放しかけていた意識を引き戻した。
閉じていた目を開けると同時に、その目を塞ぐようにひんやりと冷たい手が目元を覆った。
ダクタリとロバートは仕事だ。必然的に、その手の主は一人に限定される。
「……どうかしたか」
ジョルジュが声をかけると視界を覆っていた手が離れる。そこには、思った通りあの少女が立っていた。少女はジョルジュのベッド脇に立ったまま、黙ってジョルジュを見つめている。
その表情はいつもの無感動のそれとは違っていたが、だからといってそこに浮かんでいる感情が何かと問われてもジョルジュには答えられなかった。
不安、喜び、憐憫、感動、動揺、興奮、苦悶、期待。そのどれにも見えたし、どれとも違うようでもあった。
「どうした」
もう一度、今度は無反応に少し苛立ったように語気を強めてジョルジュが質問を繰り返すと、少女はまるでそれまで何も聞こえていなかったかのようにぴくっと反応し、目を瞬かせた。
ふいっと顔を背けた少女はそのまま立ち去るような素振りを見せたが、部屋の戸を開け放ったところで振り返り、またじっとジョルジュを見つめる。一緒に暮らすようになってから初めて、ジョルジュは彼女の言いたいことがわかった気がした。
ジョルジュは身を起こすと、そこでようやく朝よりは幾分身体の調子がいいことに気づいた。悪臭は続いているが、それも朝ほど酷く彼を悩ませはしない。身体への影響は昨夜までとそう変わらなくなっていた。
ベッドを降りたジョルジュがついてくるのを見て、少女はまた歩き出した。先導する足運びに迷いはなく、どうやら玄関に、というよりは外に向かっているらしいことがジョルジュにはわかった。
なぜ外に、何をしに、と考えなかったわけではない。しかしその時間はほとんど与えられなかった。なぜなら少女が一切の躊躇なく玄関扉を開けた途端、あの臭いが一気に強まったからである。
不思議と朝のように頭痛や吐き気といった体調不良をきたすことはなかったが、それでも集中してものが考えられるほど生易しい臭いではなかった。ジョルジュは咄嗟に鼻を押さえたが、そんなことで逃れられるレベルではない。
巨大な集合住宅であるインスラの端の見えない長い廊下。その、見渡せないほどの空間全体が、部屋の中で感じたのとは比べ物にならないほどの臭いで満ちていた。
「――――見て」
一瞬その声が誰のものか、ジョルジュにはわからなかった。鈴の鳴るようというには硬質で、鳥が囀るようと言うには淡白で、氷のようだというには穏やかな声音は、今まで一度として言葉を発しようとしなかった少女の口から出たものだった。
まっすぐに伸びた白い腕が指すのは、廊下の壁。
いや違う。そうではなかった。確かに少女の手は廊下の壁に向けられていた。だがその意味するところは正しくは壁ではなく、その手前に転がっている物体であり、更に言うならば同じものがそこかしこに転がっているこの空間全体のことであった。
「なんだ、これは」
残骸。そう呼ぶのが精一杯だった。
そこら中に生ゴミが散乱している。それだけでも異常事態だ。本来ゴミは指定された回収日に全て収集業者が片付けているはずだ。しかし現在この廊下には数日では済まされないほどに腐敗の進んだゴミの山が築かれている。無論それらも日々の生活「残骸」ではあった。しかしそれ以上にジョルジュの目を引き、悪臭の原因となっている「残骸」は他にあった。
死体だ。死体と呼ぶのもおぞましいほどに醜く腐り果てた、無数の人間。いや、その多くは正しくは人間ではなく。
「シュプリオン、か」
「そう」
少女が頷く。数え切れないほど廊下に転がっている死体の大半は、抜け落ちた頭髪の色は薄く、腐食が進んでいない部分の肌は青白く、統一感のある色素の薄さは間違いなくシュプリオンのものだ。本来使用期限が過ぎれば廃棄、リサイクルされるはずのもの。ゴミと同じく、回収されて街には残らないはずのもの。それがやはりゴミと同じく、何年分、あるいは何十年分もが、そのまま放置されていた。
そして、それは大半であって全てではなかった。
一つの残骸が目に留まった。茶髪と、よれよれのシャツが、血と腐敗によって薄汚く汚れている。頬の肉は一部が腐り落ちて口の換気に余念がなく、そこから覗く黄ばんだ歯は多くが崩れた歯茎のせいで妙な角度に突き出している。膨張して眼孔から半ば以上も飛び出したねずみ色の眼球が左右ともに残っているのは奇跡的な悪趣味さだった。
変わり果ててはいたが、それでもそれが二つ隣の部屋に数年前まで出入りしていた人間だったことがジョルジュにはわかった。エレベーターホールで何度か言葉をかわした覚えもある。間違いなく、シュプリオンではなく人間だと記憶していた。
「こっち」
あまりの衝撃的な光景に立ち尽くすジョルジュを、少女が促す。言われるがままに再び歩き出したとき、ようやくジョルジュは足元の違和感に気づいた。
綺麗さっぱり、清掃が行き届いている。道幅の広い廊下の中央、人が通るのに苦労しない分だけが、塵一つ無いほど綺麗に掃除されているのだ。踏みしめた廊下は歩き慣れた硬さを靴越しに伝えてくる。それは間違いなく、毎朝毎晩、家を出て仕事に向かい、そして帰宅する時にジョルジュが踏みしめていた床だった。
それはつまり、これまでもずっと、この異様な道をジョルジュは、ダクタリやロバートは、彼らを含むこの建物の住人全ては、当たり前に利用していたということを意味している。
「見て。これが、あなたの、知らなかった、もの」
廊下の一角、死体の山の脇に設置された窓の前で、少女はジョルジュに外を見るように促した。このインスラは高層住宅だ。その窓から見えるのは辺り一帯の幾何学的な町並み、全てが計算され尽くした、淡白故に管理の行き届いた、いつもの美しい景色のはずだ。
だがもちろん、見慣れた風景が視界に広がると思えるほどジョルジュは能天気ではない。こわごわと窓を覗き込んだジョルジュは、半ば予感していた、けれど予想を超えた光景を目にして、その場に踏みとどまるのがやっとだった。
青い空。白い雲。見慣れた灰色の高層建築群。そしてそれらの足元を埋め尽くす、赤黒い醜悪な何か。見渡す限りあらゆる場所が、生ゴミと腐乱死体で埋め尽くされている。生々しく過剰に有機的な大地に、清掃された道がテープを貼り付けたように走っていた。
現世にも地獄というものがあるなら、それはまさにここだとジョルジュには思えた。
「なんだ、なんだなんだなんだ! 何なんだこれはっ! なぜこんなものを俺に見せる! なぜだ!」
ジョルジュは頭をかきむしりながら、憎々しげに少女を睨み、怒鳴りつけた。しかし少女の瞳に揺れはない。その作り物の容貌は一辺たりとも揺らがない。
「世界は、ずっと、こうだった。あなたは、知らなかった。これの、せいで」
そう言って少女が取り出してみせたのは、ジョルジュが分け与えていた安定剤のカプセルだった。
ジョルジュは聡くもそれだけでその意味するところを理解した。今朝、この強烈な臭いで目を覚ました時に彼自身が思ったことだ。薬が切れたようだ、と。何の事はない、一錠を服用し続けるだけでは不足だったのだ。数週間、一ヶ月近くは誤魔化せてもそれは永遠ではなかった。故に今日この日、一錠の限界を迎えた。
精神安定剤は心を落ち着かせ、理性を強め、争いを未然に防ぐための義務だとされている。しかしその本当の意味は、ある特定の臭いや色彩を、認識できなくすることにあった。
だからこの社会で真っ当に生きている限り、そこがどんなに真っ当じゃない場所なのか気づくことは誰にも不可能だったのだ。
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