scene 12 ブースに戻ると。

 収録ブースに戻るため、ロビーを進んでいく森永響はふとブースの扉の上に目をやった。収録中を示すオンエアライトが赤く点っている。すなわち、今ブースの中では本番のアフレコの真っ最中だということ。

 森永響はスタジオの扉前で立ち止まるなり、後ろについてきていた美優を振り返った。


「お腹空いてませんか?」


 尋ねられて美優は、自分のお腹に手を当てた。多分このままぐっと押せば、腹の虫がぐるぐると鳴き出す感覚はある。

 あれだけ泣き、心と頭を動かしたのだ。腹も減る。


「……す、少し……」


 遠慮がちに答えると、森永響は自分の背後に広がるケータリングコーナーを一瞥する。

 

「なら、そこのお菓子食べても大丈夫なので、今のうちに腹ごしらえをしておいてください」


 そういえば収録中にお腹がなってしまったら、高性能マイクに音を拾われて録り直しだと聞いた。

 美優は会議テーブルの上に広がるたくさんの食べ物に目を移す。

 クッキーやビスケットなどのお菓子はもちろん、おにぎりやサンドイッチがある中、異彩を放っているのが、個包装されたコンビニのチキンだ。


「あの、」


 振り返ってロングTシャツの背中に声をかけると、オンエアライトを見上げていた森永響がこちらを振り返った。


「あの、たいしたことじゃないんですけど……、このチキンって……」


 おずおず尋ねると、森永響は美優の顔を見て、ほんの少し体ごと振り返った。

 

「油って摂取しすぎるとアレですけど、喉を潤すにはちょうどいいので。この後叫ぶシーンありましたよね? もしお嫌いじゃなかったら一枚食べておくといいかもしれませんよ」


 腹持ちも悪くないですし。と、森永響は再びオンエアランプを見つめ始めた。

 美優は丁寧に説明してくれた森永の背に「ありがとうございます」と礼をして、手にしていた台本とレモンティーのペットボトルを机の端に置くと、個包装されているチキンを手に取って包装のミシン目を破いた。

 チキンはすっかり冷めていたけど、美優はちょうどいい角に齧り付いた。すると、油が口内にじゅわっと広がり、喉を潤してゆく。

 だけど収録がいつ途切れるかもわからない中、悠長にチキンを味わっている時間はない。美優は森永響に背を向けてなるべく早くチキンを頬張った。そしてそれをレモンティーで流し込む。

 美優がチキンを胃に収めたまさにその時。オンエアランプがふっと消えた。

 森永響は指差しでオンエアランプの消灯を確認するなり、二重扉のロビー側の扉のノブに手をかけた。そして振り返り美優と目を合わせる。

 

「開けますよ。準備はいいですか?」

「……はい……」


 美優は神妙にひとつ頷く。

 収録に戻る決心は揺らがない。

 

 それを確認して、森永響くは二重扉の外側の扉を開けた。そして内側の扉のドアノブに手をかけると静かに開け放った。

 この時、美優からはブース内の様子は窺えなかったが、内部に一歩進み行った森永響はまずブース内に一礼し、ミキサールームに一礼する。


「長々と時間をいただいてしまい、申し訳ありません。ただいま戻りました」


 そう謝罪すると森永響は美優を見るや、ひとつ頷いて、ブース内に入るように手招きする。


 もう後戻りはできない。


 美優は腹に力を入れると意を決し、森永響が空けた一人分のスペースに滑り込むようにしてブース内に入る。あとは勢いに任せて室内の声優じんととミキサールームのスタッフに向って、深々と頭を下げながら声を張った。


「ご心配をおかけしてしまい、申し訳ありませんでした!」


 森永響が扉を開けるまで不安で胸が張り裂けそうだった。


 もし、皆に冷たい目線を送られたら。

 もし、誰かから帰ってくるなと言われたら。

 もし、これを機に誰かから無視されてしまったら。


 だけど、扉は開いてしまった。

 ならな、もう逃げるわけには行かない。


 これはあたしが選んだ道だ。

 戻るか、逃げるか。それが疑問だったけど、あたしは戻ることを選んだ。

 

 過去の傷を傷痕に変えるのも、不安を安心に変えることができるのも、自分自身だけなのだから。


 頭を下げながらギュッと目を瞑った美優の耳に飛び込んできたのは、聴きなれた声だった。


「美優さんっ!」


 名を呼ばれ、顔を上げるとギュッと抱きしめられた。

 ふわりと漂うシャンプーの良い香りは嗅いだことがあるものだった。


「さよりさん……?」


 さよりさんは美優の首に腕を回すなり、言葉なくぎゅっと力を込めた。


「北原、藍沢がこのまま戻って来なかったらどうしようって、ずっと焦ってたぞ」

 と、さよりさんの肩越しに口を開いた十時さんは、ふっと安堵の息を漏らす。


「……でも戻ってきてくれて安心した」

 そう続けて、

「藍沢も不安だったよな。ごめん」

 と申し訳なさそうに頭を下げた。


 ブースの奥から早足で歩いてきた最上さんは、美優の元にたどり着くなり、

「ごめんね。僕もしっかり美優ちゃんのサポートができてたらよかった。土曜もさ、忘れ物取りに行くって時も一緒に行ってたらよかった……」

 と、眉尻を下げて美優を伺う。


 彼らの優しさに、美優は卑屈だった自分が恥ずかしくなってしまった。


 こんな優秀な人たちと並びたくて背伸びして、それでも不釣り合いで。自分の力量の無さに勝手に落ち込んで彼らの手を振り解いて、このぐちゃりとした気持ちを隠したのは、あたしだ。

 今日も今日で、優秀な彼らも急に役を振られたりダメ出しされたりと混乱の中にいたはずで。そんな中でも、ブースを追い出されたあたしのことを心配してくれていた。


 ブース内を見渡せば、東京ボイスアクターズの声優さんたちも皆口々に「おかえり」「大丈夫だった?」と美優の帰還を暖かく迎え、その他の声優たちもほっと胸を撫で下ろしていた。


 数十分前は、皆が呆れていると思い込んでいた。

 皆、うんざりしていると思ってた。


 だけど、本当は違った。

 皆温かく優しい。


 顔を上げて振り返ってみなければ、見えない景色があったのだ。

 もしかしたら心の中では違うことを考えているかもしれないけど、今はこの優しさを信じたい。


 もう思いこみや誤解で、誰かを嫌ったりしたくないから。


「……美優さん、戻ってきてくれてありがとう」


 不安げに揺れる声と共にさよりさんの体が離れた。いつもは弱さなど見せないさよりさんの、かすかに寄った眉間の皺と潤み揺れる瞳が、美優の心を揺るがした。

 こんなさよりさんは、初めて見た。

 レッスンでは常に完璧でなんでもできて、堂々としていて。自分の正義を貫き進む強い女の子だと思ってた。

 あたしとは正反対の、太陽だと思ってた。


 だけど、本当は違ったんだ。


「……さよりさん、十時さん、最上さん。あたしこそ、あの時……土曜日にちゃんと、自分の気持ちを伝えていればよかった。心配かけてごめんなさい」


 美優は仲間たちと目線を合わせて頭を下げた。そして今度は、ブースにいる声優たちに頭を下げる。


「足を引っ張ってしまい、申し訳ありませんでした! もう一度チャンスをください! お願いします!」

『……いや、熱くなってるところ申し訳ないんだけど……』


 美優の謝罪の後。天井のスピーカーから振ってきたのは、ミキサールームからの支倉音響監督の呆れ声。振り返ると、ガラスの向こうの支倉音響監督が自身の少しくせっ毛の頭をわしゃりと触りながら手元に視線を落としている。


『役を剥奪するとは言ってないよ……。しかし君たち、帰ってくるタイミングちょうど良かったよ。この後にのシーンをお願いしたいんだけど、森永も藍沢さんも、やれる?』


 気だるげながらも目線を上げて、自分を真っ直ぐ見据える支倉音響監督と目があった。


 数十分前ならきっと、出来ますも出来ませんも言えずに黙り込んでしまっただろう。


 だけど、今は違う。

 あたしは二度と俯かない。


 美優はコントロールルームに向き直り、深く息を吸い込むと、

「改めましてご心配をおかけしてしまい申し訳ありませんでした! よろしくお願いいたします!」

 と、深々と頭を下げた。


 その姿はガラス越しに捉えられ、声はマイクに拾われて真っ直ぐにミキサールームへと届いたのだろう。支倉音響監督は一瞬だけ口角を上げると、

『では、5分後に残りのシーン行きますので、皆さん一旦休憩にしてください』

 と、声優やスタッフに指示を出した。自身も椅子から立ち上がると背伸びをしながらコントロールを退出して行った。


 原作者の斉木先生もブース内にお辞儀をして担当さんを伴いコントロールルームを出ていく中、支倉音響監督の背をガラス越しに見送った声優たちも各々休憩に入り出す。


 思わぬ形でドア前を占拠してしまっていた美優たちが2、3歩ドアから退くと、ロビーへと出ていく声優たちが一斉に移動を始めた。端役の新人声優たちは森永響にちょこんと会釈をして通り過ぎていく中、若手やベテラン声優たちはと顔出し仕事や雑誌で見かける笑顔で、四人の誰かの肩をポンとタッチして激励の言葉をかけてくれる人もいた。


 そんな騒がしさに紛れて、一際大きな息をついた者がいた。


 森永響だ。


 森永響はため息をついた後、真顔のまま小さくつぶやいた。


「よかった……」


 柔らかく安心しきったような声。


 数時間前までの美優ならば、この『よかった』はきっと、この人自身の面子が守られた『よかった』だと思いこんで、落ち込んだり憤慨していただろう。

 だけど今は違う。

 森永響が発した『よかった』には、美優がブースに戻って来れてよかったという意味も含まれていると確信できる。


 現に、美優がブースに戻って来られたのは、紛れもなくこの人のおかげだ。この人が叱ってくれて、自信を取り戻させてくれなかったら、多分美優はここに戻ってはこれなかった。最悪、養成所を辞める決断までしたかもしれない。


 美優は森永響の横顔を見つめ、強く思う。

 この人はあたしの夢を守ってくれたんだ。

 あたしに夢をくれたのが『しろねこさん』なら、この人はあたしの夢を掬い上げてくれた。

 そのことも含めお礼を言わなければと思ったその時。


「あの、森永さん」


 美優よりも先に、さよりさんが森永響の声をかけた。さよりさんは森永響の視線が自分に向くなり、彼の言葉を待つことなく森永響に頭を下げた。


「美優さんを連れてきてくださって、ありがとうございました」


 さよりさんに倣って十時さんも頭を下げると、最上さんも、

「ありがとうございました」

 と恭しく頭を下げる。


 それには森永響も少し慌て、

「……いや、皆さんちょっと待って。頭を上げてください」

 と、三人に促した。


 森永響は三人が頭を上げるのを待って、こう告げる。


「確かに俺は彼女を呼びにいきました、けど、俺は何もしていませんよ」

「え」


 驚いた美優はかすか声をあげて森永響を見上げる。森永は美優を横目で見て、ふっと口角をあげた。

 そういうことにしておきましょう。と言いたげに微笑んで、再び三人の方を見た。 


「俺はただ彼女を呼びに行っただけ。彼女が自分の意志で、ここに戻ると決めたんです」


 いや、確かに戻ると決めたのはあたしだけど、背中を押してくれたのは間違いなく森永響だ。


 もうやめるって泣き言いったあたしを叱ってくれて、自分の中の気持ちをあたしに晒してくれて、あたしの気持ちも受け止めてくれて。その上、演じる上での技術も授けてくれた。


 森永響が迎えに来てくれなかったら。……いや、あたしを迎えに来てくれたのが森永響じゃなかったら。

 あたしはこんなすっきりとした気持ちでここにいないだろう。


 森永響はちらとこちらを見ると、まだまだ物言いたげな美優に向けて、ほんの少しだけ目を細めて微笑んだ。

 何も言う必要はないということだ。

 彼にここまでされてしまったら、いまさら美優が真実を語るのは無粋というもの。


 森永響の説明に、三人も納得しはじめたそのタイミングで、

「皆さんずっとブースに缶詰だったでしょ? 俺たちはもう腹ごしらえ済ですので、皆さんはお菓子でも食べてきてください」

 と彼らに休憩を促した。


 美優と森永響が既に小腹を満たしているのなら。と、三人は顔を見合わせた後、美優に「じゃぁ行ってくるね」と告げてロビーへと向かっていった。

 そんな彼らの背を見送って、森永響がつぶやく。


「あの三人、ちゃんとキミのことを認めてるじゃないですか。能力の優劣はあれど、彼らはキミのことを下に見てはいません」


 森永響の言葉に頷きながら、美優はその通りだと思った。


 さよりさんも十時さんの最上さんも、あたしのことを心配してくれていた。土曜日のレッスン後のことも気にかけてくれていた。


 だったら、次のリテイクでは彼らを安心させたい。


 彼らが出て行った二重扉を見つめる美優に、森永響が声をかける。


「いい好敵手ライバルを得ましたね」

「……はい」


 返事をしながら、美優は思った。

 さよりさんと十時さんと最上さんなら、確実に夢をかなえるだろう。

 その時にはあたしも、あの人たちと同じラインに居たい。


 そのためには、基礎も応用も身に付けなければならないことは多いけど、夢を叶えるための苦悩は厭わない。


 ジュニアコースから本科に飛び級できた理由は、自分で作れば良い。

 美優にそう思わせてくれたのは、さよりさんに最上さんと十時さんであり、森永響だった。

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