第四話 氷面鏡の雪洞(5)ー1


             5


 宿泊先の旅館には、大浴場のほかに露天風呂が存在している。けれど、大会期間中は高校で貸し切っていることもあり、連日、男子の大浴場にのみ、お湯が張られていた。先生とは、それぞれ個室の浴槽を利用しているらしい。

 宿泊十三日目にして四回戦に勝利した本日。

 ここまでの戦いをねぎらう目的で、露天風呂が解禁されることになった。

 真冬の一月とはいえ、東京屋外の空気は新潟とは比べ物にならないくらい柔らかい。開放感のある屋外で、激闘の疲れをいやすことになった。

 本日は就寝時間が選手にも設定されておらず、携帯電話も回収されていない。思い思いの方法でリフレッシュするよう通達されており、明日の夕刻までは自由行動が許されていた。

 午後十一時、人が少なくなってきただろう頃合いを見計らって浴場へと向かう。

 案の定もう人はおらず、いていたら教えてくれと言っていた、おりけいろうさんにメールを送ってから、洗い場に足を踏み入れた。

 新潟では今日もみぞれが降っていると聞く。そんな故郷の天気が噓のように、屋外の空気は乾燥していた。

 露天風呂に入るのは八月の合宿以来である。県境が近くとも東京は東京だ。軽井沢の旅館と比べれば、哀しくなるほどに小さな露天風呂だったが、熱気がこもっていないというだけで圧倒的な開放感がある。

 熱い湯船につかりながらさくにふけっていると、伊織と圭士朗さんもやってきた。

 まだ身体の出来ていない十代の肉体は、プロとは並び立てないほどにきやしやである。それでも、伊織はこの半年間で、確実に上半身に力強さを上乗せしていた。

 均整の取れた筋肉は伊織の武器となっているのだけれど……。

「伊織。もしかして、ちょっと落ち込んでる?」

 露天風呂につかり、無表情に夜空を見つめる横顔にがなかった。

「そう言えば、玄関で華代とはどうなったの?」

「お前、あの時は逃げておいて、今、聞くのな。何かすげえ問い詰められたよ。私を好きだって言ったくせに、ほかの女に理解されたいっていうのはおかしいとかって言ってさ」

「華代の言う通りじゃん」

「でも、あいつは俺を振ったわけだろ。だったら別に怒らなくても良くないか?」

「お前のことを本気でどうでも良いと思っているなら腹も立たないさ。そういうことだ」

 呆れたような顔で圭士朗さんが告げる。彼が眼鏡を外している姿は珍しい。淡々とした口調はいつもの通りだが、湯けむりの向こうにかすむ横顔は別人のようだった。

「もっとも、だからといって、お前がファンレターに喜んじゃいけないって理屈にはならない。華代の前でその姿を見せたのはかつだったと思うけどな」

「嬉しかったんだから仕方ないだろ。ファンレターなんて初めてもらったんだ。自分にとって一番大切なものがサッカーだからだろうな。宝物が認められたみたいな気がして嬉しかった。圭士朗さんは感動しなかったのか? 写真を同封してくるなんて、よっぽどだと思うぜ」

「嬉しかったよ。お前が言うように、大切にしているものが認められるというのは幸せなことだとも思う。でも、だからこそ複雑な気分にもなる」

「複雑な気分? 返事を出さなきゃいけないことがか?」

「そういう話じゃないよ。俺は自分が心変わりしないことを知っているから、誰かに特別な形で評価されると、ボタンでも掛け違えたみたいな気分になるんだ。どうしてもそれが彼女ではないことを考えてしまう」


 夜空を見つめながら、さんのことを想っていた。

『ボタンの掛け違え』という圭士朗さんの言葉が、れられない何処かでリフレインする。


「分かるような気がする。結局、俺も華代に認めてもらいたいってことなんだろうな」

「華代はもう十分過ぎるほど、お前のことを認めている気がするけどな」

「でも、振られたぜ?」

「伊織のこと以上に、ゆうのことを評価しているんだろ。華代も、真扶由さんも」

「じゃあ……結局、全部、こいつが悪いんじゃねえか」

 言い終えるより早く、伊織の手が後頭部に当てられ、無理やり湯船の中に頭を沈められてしまった。鼻の中にお湯が入り、むせてしまう。

「……おい、何するんだよ」

 みながら抗議の声をあげる。

「手がすべった。八つ当たりだ。悪いとは思っていない」

「そういうところかもしれないな。華代がお前を優雅より下に評価する理由は」

「こういうところか。混浴じゃなくて助かったな。危うくまた評価を下げるところだったぜ」

 何処まで本気で喋っているのか、二人は自嘲気味に笑っていた。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る