ハーモニーの結末はシンギュラリティとは真逆

以前、伊藤計劃氏のSF小説「ハーモニー」について書きました(https://kakuyomu.jp/works/1177354054895092612/episodes/16816700426259842503)。

同作の結末をざっくり説明すると、ほぼ全人類が肉体を健康に生かすために意識(つまり魂や自我)を捨てさせられ、意識を失った肉体の群れのみが生き続けるというグロテスクな世界が実現します。

それを通して伊藤氏は、

「魂を捨てて肉体のみを生かしたほうが人類にとって幸せなんじゃないか?」

と問題提起しました。


「ハーモニー」は、テクノロジーの進化の帰結について、伊藤氏なりに考え抜いて書いた作品です。

しかし同作が描いた未来は、今実際に人類が向かっている方向性とは真逆なのではないかと、自分は最近考えるのです。


自分は、実業家・レイ・カーツワイル氏の受け売りで、技術的特異点(または単に「シンギュラリティ」。テクノロジーの変化が速くなりすぎて、文明が根底から変容してしまう時代のことです)が来ると信じています。

そこでは、人類は好きなように改良できる機械の身体を手に入れ、想像通りの様々な製品やサービスを作れるようになる。言い換えると、この世界に対する人類の魂の力が拡張されると考えています。

特に、カーツワイル氏自身、「シンギュラリティは近い―人類が生命を超越するとき」において、「シンギュラリティは最終的に宇宙を魂で満たす、と言うこともできるのだ」と書いています。

そこが、伊藤氏が「ハーモニー」で描いた未来像と正反対であるポイントです。


ただし注意しないといけないのは、我々がテクノロジーに対して受け身の姿勢でいては、「ハーモニー」の結末と同じ世界が到来するかもしれない、ということです。

我々が、テクノロジーを主体的に使いこなす意思を持っていなければ、魂の存在意義もなくなるかもしれないからです。

「ハーモニー」の作中で、とある登場人物は、肉体が生きていても意識がなくなることについて「死に等しい状況だ」と言っています。

その「死」を避けられるかどうか。人類の未来が「ハーモニー」で描かれたものになるか、「シンギュラリティは近い」で描かれたものになるかどうかは、きっと我々自身の主体性にかかっています。


人類の魂が、これからも生存し続けることを願っています。

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大沢朔夜の雑記 大沢 朔夜 @oosawasakuya

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