第180話 里帰り その三
龍之介を連れての始めての佐紀の実家訪問の後も佐紀は何度か訪れていた。
一人では無く、連れは龍一郎でも無かった。
舞が一緒で在ったり、舞と誠一郎が一緒で在ったり、お駒が同伴した事もあった。
何故か主の鳩衛門が誠一郎の素性を知っていて店が大騒動になった事も有った。
町奉行の倅、それも跡取りの嫡男の来訪である。
父親は南町奉行・大岡忠相であり、大身旗本であり、その嫡男が眼の前に来ているのである。
まだ幼いとは言えその様な身分の者をお共か子分か我が子の様に従わせて佐紀がやってきたのである、勿論、龍之介を連れてである、但し佐紀が抱いてでは無く舞が背負ってであったが。
「龍一郎様の門弟で本日は佐紀様の従者として参りました」
誠一郎はそう言って騒ぎを落ち着かせた。
鳩衛門は大岡の屋敷へは二度訪れていた。
大岡が山田奉行から普請奉行となって江戸へ戻る際の家財道具の届けの刻の挨拶と大岡が南町奉行になった刻の挨拶であった。
二度目のおりに近隣での嫡男の悪業を噂で聞き実際に眼にもしていたのである。
だが目の前にいる青年は礼儀正しく謙虚で従者の勤めとして主である佐紀を立てていて、とても噂に聞いた忠相様の嫡男とは考えられなかった。
騒ぎ出した番頭を落ち着かせ佐紀を始め皆を奥へと案内した。
座敷での会話は主に女子衆で佐紀と母の滝、そして佐紀の伴った舞であった。
父の鳩衛門も時々会話に参加したが、佐紀の連れの青年は問われれば答えるだけで自らが口火を切る事は無かった。
鳩衛門は思った、この青年の仕草、態度、物言いは・・・そうだ、龍一郎様に似ているのだ、と感じた、この青年が我倅で有ったならどれ程の誉であろうか、実の倅・寿一郎を思い浮かべ比べてしまった。
只、ここの処の寿一郎は以前とは少しづつ変わって来ていた、あの龍一郎様との一件の後からの様な気がしていた。
「父上、母上そろそろお暇(いとま)の刻(とき)で御座います、この者は通いの弟子で御座います故に屋敷に戻らねば成りませぬ」
佐紀が連れの青年の事に触れそう言い、母・滝が抱いていた龍之介を我胸に抱いた。
皆が玄関に着き別れの挨拶の刻に鳩衛門が忘れていた事を聞いた。
「そう言えば、お連れのお方のお名前をまだ伺っておりませんでした、失礼では御座いますがお武家様のお名前をお聞かせ下さいませ」
「こちらこそ名乗りもせずに申し訳も御座ざいませんでした、私の事は誠一郎とお呼び下さい」
「・・・誠一郎・・・誠一郎・・・確か大岡様の嫡男のお名前も・・・何と」
「どうか、誠一郎とお呼び下さい」
大岡誠一郎が只の誠一郎と呼んでほしいと願った。
誠一郎が声を潜めて言い出したので鳩衛門も回りに聞こえぬ様に小声になっていた。
「・・・それで宜しいので・・・」
「はい、ぜひにもお願い申します、出来ましたならお願いが御座います、私の役務は南町奉行所・同心で御座います、姓名の儀は坂下誠一郎で御座います、役務でお会いするやもしれませぬ、お含み置き下さい」
「・・・畏まりました・・・一つだけお答え願えますか」
「問いにも依りますが出来るだけ」
「其方様の師匠、手本のお方は橘の龍一郎様ではございませぬか」
「はい、左様で御座います」
「やはり、其方様の挙動が龍一郎様に似ておられますので、もしやとお聞き申しました」
「そのお言葉は私に取って何よりも嬉しいもので御座います」
潜めていた声が更に小さくなり鳩衛門が言った。
「以前、お屋敷でお見掛けした事が御座います・・・別人の様で御座います」
「お恥ずかしい限りです、どうぞご放念下さい」
鳩衛門が声を大きく戻して言った。
「何のお話でしたでしょう、最近歳のせいか物忘れが激しいもので失礼を致しました」
「別れの挨拶はそれ位にしなされ、参りますよ、では、父上、母上、又の機会に」
「お待ちしていますよ」
「孫の顔を見せに来て下されよ」
父と母が最期の別れを言った。
「失礼致します」
「失礼申します」
龍之介を背負った舞と誠一郎も別れの挨拶を返し佐紀の後を歩いて行った。
お滝が誰に言うでも無く言った。
「あの二人は好き合っているね~」
「何、舞と言う娘と誠一郎様の事か」
「あれ、私が何か申しましたか」
「お前は、あいも変わらず食えぬ奴じゃ」
「当たり前です、お前様に食べられてたまるものですか」
「あ~あ」
その刻、店の奉公人の誰かの声が聞こえた。
「また、夫婦漫才が始まったよ」
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