第179話 里帰り その二
一刻程の時間が流れた刻にそれは起こった。
蚊帳の外で手酌で飲んでいた寿一郎の発言からであった。
「親父、金をくれ、こんな処で飲んでいたも上手くねぇや、第一実の息子でも無い奴を武士だからと可愛がりやがって、佐紀も佐紀だ町人の娘が武士の嫁になんぞ成りやがってどう言うつもりだ」
「寿一郎、最近は大人しいので改心したものと思うて居りましたが間違いの様ですね、それにお前は勘違いをしています、私は龍一郎様が武士だからとか義理の息子だからと楽しそうに話している訳では在りません、私を丁寧に扱い、私の話に、年寄りの話に嫌がりもせず話てくれる・・・私は龍一郎様との歓談を本当に楽しんでいるのです、親は娘が誰の嫁に成ろうと幸せならば良いのです、我娘・佐紀はこれ以上に無い程に幸せそうです、親として何の不満が有りましょう・・・その幸せを支えていて下さる龍一郎様との会話です・・・私は悲しい」
「本に私も悲しい」
主・鳩衛門と妻女の滝が心情を漏らした。
「あぁ~どうせ俺は出来損ないだよ、だから出て行ってやるから金を寄越せよ、この店は俺がいなけりゃ潰れるんだぜ、俺を大事にしろよ、俺をよぉ~」
「お前と言う奴は・・・」
「早く、金を寄越せよぉ~」
その時、龍一郎が心を決めた様だった。
「寿一郎様、其方様は佐紀の兄上です、故に私の義理の兄上です、お歳は御幾つに成られましたか」
「何だ~歳を聞いてどうしようって言うんだ・・・まぁいいや、儂は二十三だ、それが如何した」
「それはそれは私の一つ下でしたか、ですが私の兄上ですね」
「なんだよ、でけえ態度で一個上なだけかい、おりゃてっきり三十路を過ぎてると思ったぜ」
「はい、若輩者で御座います、ですが物の道理、世間の道理、世間の荒波は其方様よりも良く知って居ります」
「へん、武士に町人の世間が解ってたまるかよぉ」
「少なくとも其方様よりは知って居ります、世間には食べる事にさえも苦労している者が数多おります、郷ではその為に娘が売られております、物心も着かぬ内に奉公に出されております、唯々生まれ落ちた処が異なるだけで其方様は裕福な家で食べ物にも苦労をされていません、己の幸運を理解されていない、少し頭を使われた方が宜しいのではないでしょうか」
「・・・・・・だ・だ・だから何だって言うんだよ、俺が好き好んでここに生まれたんじゃねぇ~や」
「まだ、お解りに成らない・・・ではしょうがありませんね」
龍一郎が右に置いていた剣に手を掛けた。
「何だ、何だ、斬ろうって言うのか、き・き・斬れるもんなら斬ってみやがれ、抜いた事も無いへっぼこ侍が~」
龍一郎はゆっくりと剣を持ち上げゆっくりと前に回し畳に立てた・・・「トン」と微かな音が響き龍一郎は立てた剣を右に移し畳に戻し手を離した。
その時、寿一郎の髷が太腿に落ち、閉めていた帯がはらりと落ちた。
暫く、長めの暫くの後に
「あぁぁぁ~」と寿一郎の口から洩れ、鳩衛門とお滝の夫婦は只唖然とし隅で見ていた小女は抱いていた龍之介を抱きしめた。
龍一郎の剣技を知っているお佐紀も龍一郎の凄さに改めて驚いていた。
右手に持った剣で髷と帯を斬るには左手に持ち替えて右手で斬るか左手で斬るかであるが、佐紀の眼を持ってしても解らなかったのである。
「寿一郎、髷が無くば外へは出られまい、髪が伸びるまで家業の修行を致せ、良いな・・・次に某が訪れしおりに新たまっておらねば、其方と仲間を始末する・・・心して置け」
「・・・」
「返事はどうしたのじゃ」
「・・・わ・わ・解りました・・・解りまして御座います」
そう言うと斬られた髷を持って脱兎の如く部屋から出て行った。
寿一郎がその場で手を着いて平伏し、斬られた髪の残りが左右の頬に垂れた。
「父上、母上、大変失礼を致しました、さぞや御不快で御座いましょう、出入り禁止も止む無しと心得ております」
龍一郎が手を着いて夫婦に詫びた。
「・・・・・・お手をお上げ下さい、なんら不快でも怒っても居りません、私共の育て方が間違っておったのです、私がやっておく事でした、長男だ、後継ぎだと大事に過ぎたのでございましょう、どうぞ、お手をお上げ下さい」
龍一郎が着いていた手を戻した。
「佐紀・・・お前が幸せだと申した事は真の事じぁのぉ~」
「私はこの御仁が真の倅であったならと思いますよ」
鳩衛門とお滝が思わず心の内を語った。
そして今度は鳩衛門が手を着いて龍一郎に平伏した。
「先程、其方様の剣の腕前をうんぬん申しました事をお詫び申します」
「お手をお上げ下さい、何も謝る事など御座いませぬ、私の剣の道はまだまだ未熟です」
鳩衛門が不思議そうな顔で着いていた手を戻した。
「先程の太刀筋が見えませんでした、あれ程の剣捌きにお目に掛かった事はございません、先程も申しました様にあちらこちらの鍛錬所に見物に行って居ります、ご近所でも剣術道楽で有名な男で御座います、ですが、あれ程の剣技は初めてです・・・佐紀、お前の亭主は剣の達人じゃ」
「達人かどうかは知りませぬが負けた事は生涯に只一度と申しております」
「一度しか負けて居らぬ・・・何度の勝負で得物は何でかのぉ~」
「お前様、それ位にしなさい、全く、やっとうの事となるとこうなるのよ」
「おぉすまぬ、すまぬ、今後婿殿とは剣術の話で盛り上がろうなぁ~」
「お暇のおりは我家に起こし下さい、剣術の話をしましょう」
「婿殿、この人にその様な事を言うと本気にしますよ」
「義母上、世辞では在りませぬ、何時成りとも起こし下さい」
「佐紀、お前の旦那様は普通のお武家様とは少々違いますな」
「それは良い方ですか悪い方ですか、母上」
「無論、良い方、とても良い方に決まっています」
「さて、そろそろお暇(いとま)しましょうかな」
「おや、今宵はお泊りと思っておりましたに」
「そうじゃ、もう遅いで危ないぞ、それに幼子が一緒では無いか」
「毎朝、予定が有りましてなぁ~、泊りはいけませぬ」
「毎朝・・・剣の鍛錬か」
「左様です」
「では、佐紀だけでも泊って行きなさい」
「母上、鍛錬は私も御座います」
「何~佐紀も剣の鍛錬をしておるてか、龍一郎殿の邪魔をしておるのでは無いのか」
「はぁ~、多分その通りで御座いましょう」
「その様な事は御座いませぬ、佐紀の技前の飲み込みの良さは素晴らしいものです」
「我が娘が剣術を・・・それも筋が良いとは・・・とても信じられません」
「真の事で御座います、それが証拠に先日も読売に成りましたが、ご覧では御座いませぬか」
「おぉ武家の見目麗しい娘が無頼漢を懲らしめたとか、昼日中から酒を喰らっておった武家を懲らしめたとかあったが、それが佐紀だと申されますか」
「左様、佐紀で御座いますそうな、連れの者より聞いております・・・と言う事で夜歩きも御安心下され」
「残念な事ではあるが仕方が無い、最後に孫を抱かせて下さい」
「私にも」
「丁度、乳の刻です」
佐紀は隅に座る少女から龍之介を抱き取ると隣室で授乳を始めた。
「龍一郎殿、佐紀の素量は本に良いのか、世辞ですか」
「佐紀は某の弟子の中では一番で御座います」
「何と・・・それ程に」
「まぁ~あの娘が・・・」
「幼き頃より男勝りではあったが・・・」
「寿一郎の空威張りで心弱いものとは違い佐紀は芯の強さが御座いました」
「そうじゃなぁ~昔、二人が男女逆ならと話会うたなぁ~」
佐紀が戻り父親に龍之介を抱き移した。
龍之介は満腹で満足そうな眠そうな顔でにこにこしていた。
「この子は泣きませんなぁ~、流石はお武家様のお子です」
「父上、稚児に町人も武家も御座いませぬ」
「そうわ言うが、これ程手の掛からぬ稚児は居ないよ・・・さぁお前様、私の番ですよ」
鳩衛門はしぶしぶと言った感でお滝に龍之介を渡した。
「龍之介は佐紀の美貌と父親ののんびりとした良き処を次いでいる様ですね」
「大きうなったら、さぞや女子に追われるじゃろうな」
「それまで私達も長生きしなければ・・・ですね」
「そうじゃなぁ~」
「母上、切りが御座いませぬ、お暇の刻です」
佐紀が龍之介はを抱き取り二人は立ち上がった。
玄関までの廊下で母のお滝は「又来てね」を何度も口にした。
戸締りと奉公人が「こんな夜中に子連れで大丈夫か」と言う顔で戸口に佇んでいた。
「それでは、父上、母上、本日はありがとう御座いました、又寄せて貰います、お二人も我が家へ孫の顔を見にお出で下さい」
佐紀の言葉で二人でお辞儀をすると潜り戸を潜って去って行った。
「旦那様、この様な夜半に大丈夫で御座いますか」
「儂も言うたのだが大丈夫と言うてのぉ~」
「お前は、そうそうお前が見せてくれたんだっけね、あの武家の武勇伝の読売、その武家娘が佐紀だったのよ、驚きでしょ」
「えぇ~何方の方ですか確か町の与太公のと武家の次男坊のとでしたか」
「それが二つ共が佐紀らしいの」
「旦那様、お話は真の事ですか、女将さんのお言葉とは言え、俄かには信じられません」
「手代さんや、どうも真の様です」
「・・・と言う事はその亭主はもっと強い・・・」
「これ亭主などとお武家様ですよ、亭主では無く旦那様です」
「これは失礼致しました、余りの驚きに心の声が口に出てしまいました」
「まぁ気持ちが解らんでも無い・・・さて、戸締りは良いですか、我らも明日に備えましょう、おやすみなされ」
「おやすみなされ」
「お休みなさいまし」
廻船問屋・辰巳屋の店先の灯が落ちた。
主人夫婦は今日の出来事を思い返し話が尽きなかった。
主人から読売の話を聞かされた手代は寝間に入ると同じ部屋に寝泊まりする仲間に主人に聞いた話を聞かせ、こちらも何時もより眠りに着く刻が遅くなった。
別の部屋では、薄明かりの中で天井をじっと見つめる髷の無い男が同じく眠れずにいた。
「佐紀、代わろうか」
「いいえ、大丈夫で御座います、まさか剣術の為に身体を鍛えておりましたのに、龍之介の重さなど軽いものです、それにもしもの刻はお前様が手ぶらの方が宜しいのでは」
「それは早計じゃ、相手にもよろうな、員数と力量と武器の種類じゃな」
「・・・成程、解りまして御座います、心に留めて置きます」
二人を襲う者など無く無事に橘の屋敷に着き、翌早朝何時もの様に鍛錬が行われた。
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