第42話 南町奉行所への訪い

-------------------<大岡越前守忠相>-------------------------------

龍一郎とお堀端で会った時の大岡忠助は6代将軍家宣(イエノブ)の時代、正徳二年(1712年)正月から就いていた遠国奉行の伊勢山田奉行から7代将軍家継の時代の享保元年(1716年)になった普請奉行の時であった。

この年の夏には将軍が吉宗となり、忠助は翌年の初春には町奉行に就任した。

諸説あるが、この時、就任した数寄屋橋の奉行所は北町奉行所と呼ばれていたようである。

江戸期を通じて奉行所の位置は変わらないのが、その位置関係に関わらず、南北の呼び名は何度も変わっており、偶々、忠助が就任したおりは北町奉行と呼ばれていたようだある、但し、直ぐに南町奉行所にその呼び名は変わっている。

因みに町奉行に就任した時の忠助は、越前守(エチゼンノカミ)ではなく能登守(ノトノカミ)であった。

これも偶々であるが、江戸期を通じて、南北町奉行以外に中町奉行所が設置されていた時期あり、忠助が就任した時、先任の中町奉行が同じ能登守であった為、忠助は越前守に変えている。

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龍一郎は奉行の私邸の裏口である門を叩いた。

「どちら様で」と中から問いがあり

「龍一郎と申す」

「お聞きしておりました」

門番が門が開いてくれた。

「忝い」

門番は鍵を掛け「こちらです」と案内に立った。

庭に出ると、丁度、庭を見下ろす廊下に大岡が立って居た。

「茂助、すまぬな」と大岡が門番に礼を言った。

「茂助、この者は、今後も来る事になる信じて良い御仁じゃ良しなにな」

忠相が立ち去ろうとする門番に言った。

「へい」

茂助と呼ばれた門番が返事を返し去って行った。

「よく、来たな」

「はい、存外に早い移動でございましたな」

「そのことよ、上様があの気性ゆえな」

「はい」

「さて、今日は、誠一郎の経過報告ではあるまい」

「はい、それもございますが、お頼みしたき儀があり、参りました」

「ほほう、頼みとな、だが、まず、誠一郎の今を聞かせてくれぬか」

「誠一郎殿は、さる藩の稽古場の内弟子をしております」

「ほう~、内弟子をの~、勤まっておるのか」

「はい、大岡様の血を引いておりますれば」

「血の~、それで、頼みとやらを聞こうか」

「はい、私の知り合いに岡っ引きがおります。

この者、居たって真面目、誠一郎殿が泊まる藩にて稽古もしております。

この者を今の同心鑑札から筆頭与力に変えて下さい、其れとも、信用が置けませぬか」

「うーぬ、其方の推す者である故に信じよう・・・が・・・はぁー、こちらがなーまだ、筆頭与力を始め誰も信用ならぬ。

只今信用できるのは内与力だけじゃ」

「全くいないと言う事ですな」


----------------<町奉行職>-----------------------

そもそも町奉行は約三千石程の直参旗本から選出される。

旗本であるからには幕府より拝領の屋敷に住まいしている。

町奉行に推挙、任ぜられると、町奉行所の奥に設けられた役宅に転居する。

拝領屋敷は私邸と言い、そのままで、妻子だけが住まうと言う事もある。

その際、同道できる配下の内、奉行所の勤めに就ける者は一名から多くて十名までだった。

奉行と与力、同心の仲立ちをする内与力である。

奉行が変わろうが内与力以外は全く変わらないのである。

逆に言えば、与力、同心、小物に至るまで奉行に然したる忠義はないと言う事である。

従って着任仕立ての今の大岡の様に奉行が信頼できる者は、内与力のみと言うのも最もな話だ。

南北奉行所の仲が悪かったかのように描かれる事が多い。

だが南北奉行所の月番制や管轄に見られる様に協力しあっていた。

どちらかと言えばそれぞれの最上位の奉行達が余所者で信頼関係が薄かったのである。

町奉行の職務は午前八時頃に登城し事案の報告や老中など重職者からの指示を受けた。

午後二時ごろに奉行所に戻り決裁や裁判を行う多忙なもので夜遅くまで執務していた。

大火の際は町奉行自らが陣頭で町火消しを指揮することもあった。

入牢の申し渡しは奉行自らが行う事が決まりで深夜だろうが起きて行わなければならなかった。

重罪の者を除く判決の言い渡しも奉行自らが行っていた。

町奉行はこの様に多忙を極め余り激務のため在職中に過労死するものも珍しく無かった。

奉行所は月番制によって交互に業務を行っていた。

民事訴訟の受付を北と南で交互で受けた。

月番でない奉行所は月番のときに受けて未処理となっている訴訟の処理などを行った。

奉行が処理する事件などの業務は月番か否かに関わらず常に行われていた。

町奉行所の裁判は後に「公事方御定書」となる「御仕置裁許帳(オシオキサイキョチョウ)」と言う過去の判例を書き記したものに従い奉行の一存では決められなかった。

取調べ等の実務は吟味方与力らが行った。

奉行は決裁をする役目で形式的に初審と判決の言い渡しを行った。

町奉行所で遠島や死罪を超える判決を出す時は事前に老中へ仕置伺(シオキウカガイ)と言う申請書を提出しなければ成らなかった。

老中は評定所で三奉行つまり南北奉行と寺社奉行と勘定奉行に審議させ、その評議を参考に刑を決め、形式的に将軍の容認を受け町奉行所へ通達した。

「御仕置裁許帳 」や「公事方御定書」に記載が無く前例もないような難事件は評定所で協議した。

現代の民事裁判の示談に当たる物は「御仕置裁許帳 」や「公事方御定書」に記載が無く奉行の一存で決められ、ここが奉行の腕の見せ所であった。 

町奉行所は付届けつまりは賄賂が多かったようだ。

俸禄だけでは苦しく、特に街廻り方なら御用聞き抱えていた為に出費が多かった。

諸藩・旗本からの付届けが公然と行われ奉行所から領収書が発行されたとも言われる。

諸藩は事情を知らぬ江戸の情報収集や様々な便宜を図ってもらう為に付届けを行った。

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忠相が龍一郎に尋ねた。

「龍一郎殿、何か、良い知恵か知らせはないですかな」

「ございます、与力の関口 孫右衛門殿をご存知ですか」

「無論、知っております、何やら何時も眠たげです」

「素の者、昼行灯でございますよ」

「と申しますと、芝居ですか」

「はい、切れ者にございます、町周りに出ても、賂は一切受け取りませぬ。

逆に病の者には、銭を与えたり、薬を差し入れております。

どうも、所内では、疎まれております様で」

「うーむ、良いことを聞き申した、早速に・・」

「お待ち下さい、表立って信用を表してはなりません、折角の内定の弦が無くなります」

「内定の弦ですと、策を申して下され」

龍一郎は奉行所改革の計画を忠相に話した。

その訳と経緯の読み方から得られる結果まで事細かく説き納得させた。

「して、期間は」

「事を急いてはなりません、何十年もの煤払いです、まず、準備に十月と二月ですな」

「長いですなー」

「それまでは、殿も昼行灯を真似る事です・・・・それと・・・私への物言いですが只の御家人への

ものにして下さい」

「・・・そうは申しますが・・・そうですな・・・心掛けてみます」

龍一郎はやって来た裏口へと去って行った。

因みに、裏口の門番も大岡が連れて来た、大岡家の家臣である。


この日の龍一郎の願いの一つは、岡っ引きの清吉の管轄を日本橋近辺から一機に江戸府内全域にしてもらう為だった。

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