第37話

 夢道さんは僕から離れ窓の前に立つ。窓の外に見える樹々に囲まれ花が咲く場所。

 もしかして、黄昏庭園?


「貴音様から聞いてるの? 妖魔……雪斗様は知らないものだけれど」

「黄昏時に目を覚ますことと、彼の左目にだけ姿が見えることは」

「私が聞いたのは手紙を読ませてもらったあとよ。貴音様は何度も手紙を読んで、写真の中の都筑君を見ていたわ。信用出来るのか、考えてたんじゃないかしら」


 夢道さんの指が窓に触れ、光を追うように動く。陽に照らされたシルクのメイド服が眩しく見える。


「都筑君、黄昏庭園から人を遠ざけるのは何故だと思う?」

「襲われないため……ですか?」

「違うわ、貴音様にしか見えないのよ。近づいたとしても誰も傷つけられはしない。妖魔が危害を加えるものなら、誰ひとり屋敷にいさせようとはしないでしょう? 雪斗様が主人となり、貴音様がいなくなったあとも……妖魔は誰も傷つけはしないわ」

「じゃあ、どうして」

「妖魔が生まれた理由、私にはわからないけど。貴音様にとって、妖魔は恐れと嫌悪の対象。たぶんそれは、人と世界を恐れる貴音様そのものだと思うの。貴音様にとって、黄昏庭園は触れられるのが怖い……心の領域かべなのよ」


 僕と同じだ。

 僕にだって触れられたくないものがある。どんなに親しくて心を許しても。


 たぶん、誰もが同じかもしれない。

 心は時々、望みもしない絶望を呼ぶ。

 怖くなるんだ。

 いつか裏切られて、傷つけられる時が来るんじゃないかって。

 だから領域を作ろうとする。傷つけられても、壊れないだけの強さを秘め隠して。


「貴音様は怖いんだと思うわ。領域を壊し心を開いていくことが。だけど壊さなければ運命に抗えないことも知っている。だから理解し、助けてくれる誰かを待ち続けていた。そんな気がするの」


 ……オン。

 ニャオン。


 猫の鳴き声が響く。

 何処からか、僕の耳に流れ込むように。

 夢道さんに重なりだした白い猫と微笑む彼の残像。眼帯も傷痕もない、優しさだけが浮かぶ顔。


 彼にも笑っていた時があったんだ。彼が笑顔を取り戻す、それはいつか彼女のそばで。


「夢道さん、書庫室は近いですか? ここからは僕ひとりで行きます。その代わりお願いがあるんです」

「何? すぐに出来ることなの?」

「みんなの願いを聞いてくれませんか? どんなものだっていい、力に変えていくんです」

「貴音様のため?」


 彼を見上げる猫の目の輝き、それは夢道さんと同じだ。僕に見える温かな残像。


 マリー……繋がりの鮮やかさを君が教えてくれた。君が見せてくれたものを、僕は忘れずに生きていく。


 リリスにも見えてたらいいな。

 生まれつつある希望。

 願いが力になって、リリスの想いを支えていくんだ。彼とだって……きっとわかりあえる。


「この先を曲がったらまっすぐに歩いて。つきあたりの大きなドア、そこが書庫室よ」

「ありがとう」


 書庫室に向かい走りだした。緊張を凌駕し始めた胸の高鳴り。混じりあう希望と絶望。




 絶望は終わりじゃない。

 未来を呼び寄せる絶対的な希望だ。







 ***


 ドアを開ける前に息を整える。時雨さんが言うとおり、この油絵が彼の未来に寄り添っていくなら。

 僕がここにいることに意味がある。

 大丈夫、僕はひとりじゃない。今は、マリーが一緒にいてくれるんだから。


 ドアを開け感じる古めかしい紙の匂い。本棚の群れと隙間なく並べてられた本の数々。すごいな、ここにあるもの全部彼は読んでるのかな。

 僕の前を通り過ぎる年老いた男女の残像。

 幸せそうに笑ってる、もしかしてマリーの両親?

 

「あの……霧島さん」


 返ってくる声はない。

 ほんとにここにいるのかな。不安に包まれながら本棚の群れの中を歩く。


「霧島さん、いませんか? 霧島さ……」


 角を曲がるなり、本棚にもたれ座る彼が見えた。開かれたままの本と閉ざされた目。

 眠ってるのか。


 どうしよう、起こすの悪いかな。

 だけど起こさなきゃ、絵を渡せない。

 息を吐き出して彼に近づいた。

 肩に触れ力を込める。


「霧島さん、起きてくれませんか? 霧島さん、都筑です」


 まぶたが開き、ゆっくりと僕にむけられる目。


「何故……君がいる?」


 僕を前に見開かれた目。

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