第14話

 オルゴールからあふれ、陳列台を濡らしていく透明な水。それはほかの商品ものを濡らしながら床に落ちていく。靴を濡らした水が、生き物のように動き僕に絡みついてきた。


「兄貴」


 掠れた声が漏れる。

 発した声が自分のものだと思えない。


 恐怖が僕の中を巡る。

 翼を握る手が水に覆われずぶ濡れになった僕。冷たさと緊張で震えだした体。


「ごめんなさい、ボクを怖がらないで」


 子供の声が聞こえる。


「ボクは水に落とされて、音が出せなくなっちゃった。綺麗な音を出せてたのに。ボクは壊れて、女の子を泣かせちゃったんだ」


 まさか……オルゴールから?

 この水は、オルゴールの思い出が形になって溢れ出た


「女の子は悪くないんだ。汚れたボクを綺麗にしようとしたんだから。ボクを大事にしてくれた女の子。もう1度……綺麗な音を聴かせてあげたかったな」


 濡れ光る木張りの床。

 見えだした女の子と流れ響く音色。


「颯太? オルゴールが」


 途切れた兄貴の声と、ピチャピチャと何かが響かせる音。


「ニャ〜」


 僕のそばで風丸が鳴いた。

 今の風丸の足音だったのか。オルゴールの音に混じり響く和室からの話し声。


「颯太。なんだ……これ」


 振り向くと兄貴が立っている。

 ずぶ濡れになった僕と兄貴を濡らし始めた水。


「お兄さん。ボクを磨いてくれてありがとう。お兄さんの手は……とってもあったかい」


 子供の声が見開かせる兄貴の目。

 オルゴールが兄貴に話しかけている。


「颯太、どうなってるんだ? 聴こえる音は」

「この水、オルゴールの思い出みたい。女の子がオルゴールを綺麗にしようとした時の」

「驚いたな、こんなことが」

「ネックレスの力なんだ。どうやって物の思い出が見れるのか、気になってたんだけど」


 たぶん羽根を手放せば水も音色も消えていく。思い出への媒介……現在いまといつかの過去を結ぶものを。


 握りしめた手から力を抜いていく。


「待って‼︎ 少しだけお話し聞いて。ボクありがとうって言いたかったんだ。ずっと……お爺さんに」


 キラキラと輝きだした水の中で、風丸は僕を見上げている。怖くないのかな。猫は……水を嫌がるはずなのに。


「家から出された時、ボクは捨てられるんだって思ってた。すぐに忘れられるんだって。売られたと知った時も悲しかったよ。……でも、お爺さんはボクの幸せを願ってくれるの。このお店にいられてすごく幸せなんだ。いつか買われていく、捨てられても……ボクはずっと、幸せを忘れないんだ」


 僕のそばに立って風丸を抱き上げた兄貴。

 ずぶ濡れになった兄貴の腕の中、風丸は安心したように目を閉じた。

 オルゴールの語りを前に思いだしたのかな。段ボールに入れられ捨てられた悲しみを。時雨さんに助けられ、知り始めた幸せが今日に繋がっている。


「君もお兄さんも知らないことを教えてあげる。お爺さんには内緒だよ? お爺さんの正体、これは噂なんだけどね。捨てられ忘れられた物達の想いが生みだした、ボク達を見守ってくれる神様なんだって。噂が本当なのかボクにはわからないけどね。ありがとう、ボクの話を聞いてくれて。ボクの……思い出に触れてくれて」


 音色に混じる女の子の笑い声。

 それはオルゴールが秘め続ける温かな思い出。


 僕達を濡らした水が消えていく。着慣れた服の軽さと乾いた木張りの床。


 時雨さんが神様なんて本当なのかな。時雨さんがかけるひび割れた眼鏡。それが、思い出が秘める寂しさと悲しみの象徴だとしたら。


「兄貴、今の話どう思う? 時雨さんのこと」

「信じられないけどひとつだけわかる。いい職場に巡り会えたってこと」


 和室から響く笑い声。

 にこやかに笑う時雨さんが思い浮かぶ。


 思い出と共に導かれる未来。何が待ってるかわからないけど、望み描くものに寄り添ってくれるものが見つかるはずだ。


 目には見えない道標が。


「手紙書かなきゃ。自分のことどう書けばいいかわからなかった。オルゴールの話を聞いてるうちに、ありのままでいいって思えてきたんだ。考えてることややってみたいこと。落ち着いて書かなくちゃ、便箋無駄にしたら怒られちゃうよね」

「1枚くらいみんな無駄にしてるって。腹が減ったな、書く前に茶菓子を持ってきてくれよ。たまには柏餅がいいかな」


 兄貴の要望に風丸の耳がピクリと反応した。







 ***


 和室に戻った僕に時雨さんが笑いかける。

 ひび割れた眼鏡の奥に見える温かい光。


「颯太君にも聞こえたかい? 野田君が切りだした話しから笑いが絶えなくてね。なんだったかな、最初の雑学は」

「時雨さんったら、ゴリラは嬉しい時ゲップをする……ですよ」


 微笑む坂井を前に、野田は顔色を変えずにスマホをいじっている。

 音は聞こえない。

 雑学のサイトを見て面白いものを探してるのか。三上が見てるのは、畳の上に置いたままの黄昏の慟哭。


「颯太君、本が好きなの?」

「好きってほどじゃないけど。この小説だけは何度も読んでるんだ」


 皿の上に残る何個かの茶菓子。柏餅がひとつだけ残っていることに安心する。


「私も読んでみようかな」


 柏餅を持ちながら聞いた三上の呟き。僕の脳裏に浮かぶ彼とリオンの残像。



 彼に会えたら何を話そう。


 彼が僕に語ってくれるものが……あればいいな。









 次章〈幕間・夢道美結の巡る願いとキオクのモノガタリ〉

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